どの子がマララだ?

教育実習のシーズンです。
使い古し教員であるネコパパも、実習生の授業を、時間があれば新任教員のみなさんと参観することがあります。
意欲に溢れ、清清しい光景です。

「こんな授業がやりたいのですが…」と相談を受けることもあります。
先日も「マララ・ユサフザイさん」の生き方を資料に、道徳の授業をやってみたいとのご相談。

これは困った…
時事問題を扱っての道徳授業は生徒の関心を強く惹き付ける魅力があるのですが、難しい一面もあります。
それは、その事柄についての社会的見解や定説が定まらず、賛否両論あり、
もしかすると短期間で評価が逆転してしまう可能性があること。
そして教員にとっての頼みの綱である「先行実践」も少ないからです。

ともあれ、ネット検索し…マララさんが2014年12月、ノーベル平和賞の授賞に際してのスピーチの日本語訳を読んでみました。

史上最年少の受賞となったパキスタン人のマララさんは、女性や子供の教育の権利を訴えて、パキスタンの現状を伝えるプログ記事を書き続けるなどして活動し、14歳のとき、スクールバスに乗車中、テロリストに顔面を銃撃されます。
これは無差別テロではなく、明確に彼女を狙っての犯行であり、犯行声明も出されました。
奇跡的に回復した彼女は、信念を曲げることなく、以前にも増して子どもや女性の教育権の回復を訴える活動に身を投じているようです。
その姿勢が評価され、ノーベル賞の受賞につながりました。
授賞式で行われたスピーチを一読しました。
とても長い。
そこで、1時間の授業で生徒に提示でき、話し合う素材となるような「抜粋版」をつくってみようと考えました。
何を省き、何を残すかが問題ですが、
とりあえず、彼女の政治的立場や社会情勢の具体的な事項よりも、マララさんの「心情」と「信条」に重きを置いた内容を意識してまとめてみることにしました。

これを資料にして、マイケル・サンデル教授の行うような「白熱教室」を目論むとしたら…どうすればいいだろう。そんなことも考えながら、読んでいただければと思います。


なぜ戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのか





「マララ」という言葉は「悲しみにうちひしがれた」とか「悲しい」という意味ですが、
それに「幸福」の意味を加えようと、祖父はいつも私を、「マララ、世界で最も幸せな少女」と呼んでくれます。

この賞は、私だけのものではありません。教育を望みながら忘れ去られたままの子供たちのものです。
平和を望みながら、おびえる子供たちのものです。
変化を求めながら、声を上げられない子供たちへの賞なのです。
私は、人々が私のことを、いろんなふうに呼ぶことに気づきました。
ある人は、タリバーンに撃たれた少女と。
またある人は、自分の権利のために闘う少女と。
そして今は、「ノーベル賞受賞者」とも呼ばれます。
弟たちからは「うるさくて、偉そうなお姉ちゃん」と呼ばれているのですが…。
 
私が知る限り、私はただ、全ての子供たちが質の高い教育を受けることができることや、女性が平等な権利を持てること、そして世界の隅々まで平和であることを願う、熱心で頑固な人間でしかありません。
教育は人生の恵みの一つであり、生きる上で欠かせないものです。
このことを私は、17年間の人生で経験しました。
故郷では、私はいつも、学校に通って新たなことを学ぶことを愛していました。
何か特別なことがあると、私は友達と一緒に(植物染料の)ヘナで手を装飾したのを覚えています。
花や模様を描くかわりに、私たちは数式や方程式を書いたものでした。

私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。
ともに座り、学び、読みました。格好良くて清楚な制服が大好きでしたし、大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績をあげたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです。
ですが、こうした日々は続きませんでした
 
観光と美の地である故郷スワートは、ある日突如として、テロリズムの地と化したのです。
400以上の学校が破壊され、女性たちはむちで打たれました。
人々が殺されました。そして私たちのすてきな夢は、悪夢へと変わったのです。
教育は「権利」から「犯罪」になりました。女の子たちは学校に行くのをやめさせられました。
しかし、私をとりまく世界が突如として変わったとき、私が優先すべきことも変わったのです。
私には二つの選択肢がありました。
一つは黙って殺されるのを待つこと。
二つ目は声を上げ、そして殺されることです。私は後者を選びました。
声を上げようと決めたのです。
テロリストたちがいう正義を、ただ傍観することはできませんでした。すべての権利を認めず、無慈悲に人を殺し、イスラムを悪用するものだったからです。
 
2012年、テロリストは私たちを止めようとし、バスの中で私と今ここにいる友人を襲いました。
しかし、彼らの考えや銃弾が勝利することはありませんでした。私たちは生き延びたのです。
私が自分の身に起こったこと話すのは、珍しい話だからではありません。どこにでもある話だからです。
多くの少女に起こっている話なのです。
 
私は、たった身長157.5センチの、単なる一人の女の子に見えるかもしれません。
私はマララです。
そして、シャジアでもあります。
私はカイナート。
私はカイナート・スームロ。
私はメゾン。
私はアミナ。
私は、学校に行けない6600万人の女の子なのです。今日、私は自分の声をあげているわけではなく、6600万人の女の子の声を代弁しているのです。
 
なぜ女子は学校にいくのかを、なぜ教育は特に女子にとって大切なのかを、人々が聞いてきます。
しかし私は、なぜ「彼女たちは駄目だ」とされるのかという質問のほうが、より重要だと思います。
なぜ彼女たちが学校に行ってはいけないのでしょうか。
今日、世界の半分では急速な進歩や発展がみられます。
しかし、未だに何百万もの人々が戦争や、貧困、不正、という昔ながらの問題に依然として苦んでいる国もあります。紛争も見られます。何千という無実の人々が命を奪われています。子供たちが孤児になっています。社会的なタブーから教育の権利を奪われており、または、幼くして結婚させられたり、児童労働にかり出されたりしています。
 
私の村には、今も女子が学べる中学校がありません。
 
親愛なる兄弟姉妹のみなさん。
いわゆる大人の世界であれば理解されているのかもしれませんが、私たち子供にはわかりません。
なぜ「強い」といわれる国々は、戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすことにかけては弱いのでしょうか。
なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。
なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか。
 
現代に暮らす中で、私たちはみな、不可能なことはないと信じています。
45年前に人類は月に到達し、おそらく火星にもまもなく降り立つでしょう。
それならば、この21世紀には、全ての子供たちに質の高い教育を与えられなければなりません。
みなさん、これで終わりにしようと決めた最初の世代になりましょう。

誰もいない教室も、失われた子供時代も、無駄にされた可能性も。
男の子や女の子が子供時代を工場で過ごすのも、もうこれで終わりにしましょう。
女の子が幼いうちに強制的に結婚させられることも、戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも、これで終わりにしましょう。

私たちで終わらせましょう。
この「終わり」を始めましょう。
今、ここから、ともに「終わり」を始めましょう。


参考文献

わたしはマララ 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

作者: マララ・ユスフザイ,クリスティーナ・ラム,金原瑞人,西田佳子
出版社/メーカー: 学研マーケティング
発売日: 2013/12/03

「どの子がマララだ?」男が厳しい声でいった。
みんなは黙っていたけど、何にかの目が私をみた。
それに、顔を隠していないのはわたしだけだった。
男は黒いピストルを構えた。
あとでわかったけど、コルト45だったらしい。
何人かが悲鳴をあげた。
(プロローグより)



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コメント

コメント(6)
No title
この小さな女の子を素材として、いまの教員が日本の子供に教育を施すことには、私は強い危惧感を覚えます。
そもそも西ヨーロッパ的キリスト教文化でもって世界を律しようとすることがほんとうに正しいことなのか、文化の多様性というところを捨て置いて、ノーベル賞という権威に寄り掛かることの危うさ、安易さを感じてしまいます。
なるほど、女性には教育は必要ないとする考えには違和感を感じますけれども、ここからキリスト教以外の邪宗イスラム教の恐ろしさみたいなものを伝えようとするプロパガンダみたいなものを、そこはかとなく感じるのです。
迂闊にそれに乗ってしまうと、ただでさえ民族の多様性に対し寛容ではない日本人が、更に強い差別的意識を助長しかねない要素がありそうな気がします。

こうした思いを持つのは、板書もまともに出来ない、いまの教員が、ここまでの思いを致して授業ができるのだろうかという深い不信感・絶望感が根底にあります。

gustav_xxx_2003

2015/06/18 URL 編集返信

No title
>西ヨーロッパ的キリスト教文化でもって世界を律しようとすることがほんとうに正しいことなのか…
グスタフさん、そこです。
「その事柄についての社会的見解や定説が定まらず、賛否両論あり、もしかすると短期間で評価が逆転してしまう可能性」と書いたのは、そんな問題が存在するからです。
しかしこの件を「立ち止まって考えるべき事実」として受け止め、宗教や文化の問題にも敏感なバランス感覚を持ち「ともに考える」姿勢を教師が持てば…生徒にも教師にも、価値ある深い思考の場を生み出せるのではないか…そんな気もするのです。教育現場に過度の期待はしませんが、といって絶望してしまったら子どもたちに申し訳が立たない…そんな気持ちで日々をすごしています。

yositaka

2015/06/18 URL 編集返信

No title
難しい問題です。もちろん、少女といえども、意に沿わない者は完膚なきまで抹殺するという行動は私も違和感を覚えますし、野蛮です。非寛容もここまでくれば、言葉がありません。しかし、その後の西欧の態度も注意すべきでしょうね。なぜ、イスラム教徒の一部や中国も含めて挑戦的なのかは一考の余地ありです。

SL-Mania

2015/06/19 URL 編集返信

No title
>私には二つの選択肢がありました。
一つは黙って殺されるのを待つこと。
二つ目は声を上げ、そして殺されることです。
SL-Maniaさん、マララさんもイスラム教徒として自分自身の「ジハード」を戦っているのだ…この言葉を読んで私ははっきりと感じました。
宮澤賢治や斉藤隆介の童話作品も、自己犠牲への傾斜が問題とされたように、ここにも「信念に殉ずる」生き方という「罠」が秘められているようにも感じます。扱いには慎重さが必要です。

yositaka

2015/06/19 URL 編集返信

No title
日本では、学校の図書室に置く本にも、
伝記などは「評価が定まった資料」が優先されます。
仕方ないのだと思いますが…。
子供たちが「今」感じていることを、
責任を持って伝えることができないのは、
オトナの都合・・・という気もします。

ユキ

2015/06/20 URL 編集返信

No title
ユキさん、オトナの都合が蔓延しているのが、子どもを取り巻く状況だと思います。
しかしそれでも、「個人」としてアプローチするなら、日本ではかなりの情報にアクセスして、自分の考えを鍛える環境があります。
ここに挙げた参考文献の「私はマララ」も、ほとんどの学校図書館で購入しているはずです。必要な時に必要なものを選び取るしなやかな「意志」を育てる責任が大人にはありますね。そのためには、私たち大人が「しなやかな意志」を持たなくては…

yositaka

2015/06/20 URL 編集返信

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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