私の聞いた、松谷みよ子さんの講演記録を紹介します。
児童文学についての聞き書きを溜め込んだ、古いファイルに残されていたものです。もう25年も前のものですが、読んでいると当時の記憶がよみがえります。
松谷さんは、とても早口で、私は必死になってメモを取ったのですが、聞き逃していることが随分あると思います。
断片的なものを自分なりに意味の通る文章にアレンジしたものですが、内容の貴重さを鑑みて、私の文責としてここに掲載させていただきます。
「いま、何を語り伝えるか」
講演 松谷みよ子
1990.5.19 岡崎市民会館
「語り継ぐ」ことには、三つの柱があります。
民間伝承、わが家の民話、明日への民話です。
私は神田に生まれ、昔話を聞いたという記憶はありません。親からは、本を読めといわれて育ちました。
「何もしなくていいから本を読みなさい」というのが母の教えでした。
親から信頼されている、ということを子どもながら感じ取っていました。「信頼される」ことは怖いことです。子どもは「信頼に応えなければ」と思いながら育つことになるのです。
戦争の時代。
あのころ、小さい子を泣かさずに防空壕に入れておくための歌がありました。
空襲になると、私はいつも小さい甥を抱いて防空壕に運び、懸命にその歌を歌っていました。
「どうして戦争にこだわるのか」と聞かれて、私の目に浮かぶのは、空襲、防空壕、歌、そしてガラスが砕け、椅子のビロードが無残に剥がれた電車の残骸。
行く当てもなく信州に疎開して、生まれて初めて昔話を聞きました。
16歳の娘さんから聞いた、ずっと遠くまで持って運ぶ「にぎりっ屁」の話でした。聞いた私は「昔話なんて…イヤだな」としか感じませんでした。
「昔話12か月」というシリーズの7月の巻で「にぎりっ屁」の話を取り上げたのは、ずいぶん後です。この話は、実は「肥料」に対する、農民の切実な願いの込められたお話だったのですが、当時の私には「汚い話」としか感じられませんでした。
疎開中、これ以外の昔話を聞いたという記憶はありません。
戦争が終わり、東京に戻った私は、ソビエトのアニメーション映画「せむしの子馬」を見ました。(1947、日本公開1949)ロシア民話の集大成という触込みから、ロシア革命の話かと思ったのですが、実際は、何度も弾圧された農民たちを描いた悲痛な物語で、「これが民話なのか」と強い印象が残ったことを覚えています。
それから3年後、瀬川拓夫との出会いがありました。
彼は、各地で街頭で紙芝居やお話をして歩く児童文化活動を行っていて、人形劇団も結成していました。やがて彼と結婚し、劇団活動を共に進める中で、民話への関が高まり、信州、秋田への民話探訪の旅へと繋がっていきました。
私たちの活動の動機は
「どこかに本当の『太郎』がいるはずだ」
という思いでした。
日本を代表する昔話「桃太郎」は、戦争中、戦意高揚にさんざん利用され、すっかり汚れたものになってしまった。でも、それは本当の太郎の姿ではないはずだ。ならばそれを自分達の手で発見したい…そんな意識に支えられて始まった、聞き取りの活動でした。
「語り」があれば、昔話は一層魅力的になることを感じさせられました。
歴史学者の松本新八郎は、日本が豊かなお話の文化を持ったのは日本語が優れた「音節言語」だったからであると指摘しています。生き生きと語られる話し言葉の中に民衆がいて、ほんとうの日本がある。
そんなことを感じながら続けた旅。
水の猛威に耐えている民話がありました。
災害で食べ物がなく、お乳も出ず、玉をしゃぶらせて赤ん坊を育てる蛇女房。子どもは鱗の形のあざのある子に育ちます。でもこの「小泉小太郎」は、食っちゃ寝の暮らしを続け、最後まで「大物」になりません。
おかしい、彼はきっと何かをなしたはず…と考えながら聞き取りを続けるうち、松本で「泉小太郎」のお話に出会いました。彼は大地に川を流し、平野を築く。
泉小太郎のお母さんは、蛇ではなく龍です。
この話との出会いは、なぜお母さんが龍なのか、という疑問に繋がり、
「三匹のイワナをたべると龍になる」という別の話と結びつきました。
貧困の中、つわりに苦しむ一人の母が、分け合って食べななければならないという禁を破って、三匹のイワナを食べて…龍になってしまう。
だれが彼女の罪を問えるのだろう。
豊かでないことが罪なのか。
そんな思いが『私の太郎』を一つに結びつけたのです。
私の童話創作は、民話探訪と共に始めたものではありません。
戦争中からずっと書き続けていたものです。それは私の「生きている証」でした。
書きたい。
その気持ちが「大きな太郎の話」を呼び寄せたのかもしれません。
いろいろな土地で語られたバラバラの話を一つの大きな話として、次の世代に語り伝えたい。そんな気持ちが湧き上がってきました。
『龍の子太郎』は、私が創作の上ではじめて「次の世代」を意識した作品になりました。
そのころ、夫と仲間たちとともに劇団「太郎座」を結成。岡崎出身の画家瀬川康男や紙芝居仲間だった白土三平も一緒でした。
子どもの世界の素晴らしさをますます知り、そこから「とんち話」も生まれてきました。デザイナーの辻村益郎とも協力し、あたらしい赤ちゃん絵本の企画から『いないないなばあ』が生まれました。
わが家の民話。
私は作家なので「再創造」が仕事ですが、みなさんもそれぞれの家庭で、自分たちだけのお話をひとつひとつ、積み重ねて欲しいのです。
子守唄はずっと歌っていると、2歳になって歌い出す。子どもはちゃんと覚えています。子どもは歌って育てたい。
語彙を増やすと、豊かな気持ちの子になります。
『ちいさいモモちゃん』は、どこの家庭でも作り出せる一冊です。
この本を出したとき「赤ちゃん言葉は、けしからん」と批判されました。
その土地でなければ言えない言葉が方言―横のつながりで広がる「横の方言」だとしたら、その家だけにしかない「赤ちゃん言葉」とは「縦の方言」です。
気付いたらメモして、語り伝えたい。
そんな中には「家」を離れて広がっていく言葉もあります。
「いたい、いたいは、とんでいけー」は
富山のイタイイタイ病を告発する言葉となりました。
川は、ヨーロッパではゆったりと流れます。でも日本では、急流、激流です。
その川に企業は、鉱山の廃棄物を流し、深刻な病気を起こした。
明らかになった後にも、一言の謝罪もなかった。こうした公害も、語り継いでいきたい物語です。
「明日への民話」について。
大切なのは私たちが「聴く耳」を持つこと、「語る言葉」を持つことです。
私はたくさんの「現代の民話」を集めました。
「アイスクリームのてんぷら」「殿の初泣き」「天気予報」「2.26の呪い」「ハダカで失礼」「ぼうさまになったからす」「まちんと」…
これらを、テレビやラジオでも、私は何回も紹介しました。話を覚えていただけることも増えてきました。
「現代の民話」という言葉はまだ煮えていません。しかし少しずつ、市民権を得るようになってきたのではないかと思います。
「したきりすずめ」だって現代の民話です。何度も読んでいると悪い「ばあ」が愛しくなってきます。雀が遊女に見えてきます。
お話は、人が生きている限り生まれてくるのです。
山代巴さん語る「竹と酒」、税金の話です。酒税は日露戦争に絡み、その理不尽な思いや怒りは抵抗に繋がります。
『ぼうさまになったからす』の話は、長野県上田では南方行きのカラスの物語として、宮城ではシベリア行きのカラスの物語として、別々に語られていました。
お互いに相談したわけでもないのに?
『現代民話考』には、テーマごとに分類された数々の物語が収められています。その「軍隊」の巻には「銃後」「徴兵検査」「いじめ」「南京」「731部隊」などの話が数多く。
「知らないから語れない」のではない。ひとつふたつでも「知ったら」語ってほしい。その物語の中に、山荘の屋根にしまいこまれた「ダンボール箱」が見えてきました。
黒姫山荘の屋根裏。
じじちゃまの残した記録。そこから私の中の「直樹とゆう子の物語」の物語が動き始めます。
『屋根裏部屋の秘密』です。
あの世って、あるんでしょうか。
最近、死というものの身近さを感じます。
見たり、さわったり、味わったりする以外の世界を許容することの大切さ。「そういうことってきっとある」という、思い。
キツネが化けることが分かった子どもは、いい子どもです。
そしてそれを知っている大人も、いい大人です。
私の考える「いじめと差別」については…一冊の絵本を読んで、お伝えしましょう。
『私のいもうと』朗読。静まり返る聴衆をあとに、松谷さんは、風のように舞台から姿を消していました…
コメント
「ちいさいモモちゃん」とイタイイタイ病とのつながりも初めて知りました。
最近、電車に乗っていて気になっているのが、小さい子供を連れた母親が、一切子供に顔を向けることなく、ひたすらスマホを触っている姿です。
たまに、まだ喋ることができない赤ちゃんに、一生懸命話しかけている若いお母さんを見ていると、こちらも顔が和みます。
民話というか、私が子供の頃は、親がどんどん話を創作して語って聞かせていたことも多かったように思います。
そもそも人と人とが語り合わないと、民話というものが成立することはあり得ませんよね。
さて、我が身を振り返ると、私もモーレツ時代のサラリーマンでありましたから、イクメンと呼ばれる、いまの若い人たちのようには子育てに参加しておりませんでしたので、いまさらながら自省の念でいっぱいです。。
gustav_xxx_2003
2015/03/17 URL 編集返信yositaka
2015/03/18 URL 編集返信