天晴れな楽天性

DECCA《ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団エディション》をきく⑯

CD19
ベートーヴェン:劇音楽「エグモント」
ピラール・ローレンガー(Sp) ジョージ・セル(指揮[録音:1969年],
シューベルト:交響曲第8番「未完成」
ヨーゼフ・クリップス(指揮[録音:1969年]/



 
「エグモント」は序曲に込められた気迫がすごい。
唸り声を上げてオーケストラを追い込んでいくセル
テンポは中庸だが、一つの音たりとも無意味には響かせないという意志がみなぎり、一気にテンポを早めて突き進んでいくコーダなどは息詰まるような迫力だ。
めったにない「全曲録音」の機会ということで、セルも意欲満々だったのかも。

しかし…序曲が終わると、抑揚の強い男性のナレーションが始まる。その合間に劇中で使われた音楽が順に演奏されていくのだが、このナレーションの音量バランスが大きく、語りもひどく芝居がかっているために、まるで音楽に集中できない。
困惑した。

そういえば思い出した。遥か昔、この盤がFMで放送された時、ネコパパは途中でいやになって切ってしまったのだ。今回はさすがに我慢したけれど、残念ながらそのときの印象に変化はないようである。
惜しい。「序曲」がこれだけいいのに。



 
「未完成」は、クリップスが行った、ウィーン・フィルとの最後の録音だったはずだ。
オーケストラの音色を生かし、力まず、穏やかな棒で、楽員の奏でる陶酔的な音色の数々にじっと聞き入っているといった風情である。
「老境」という言葉にふさわしい音楽だ。
オリジナル盤ではメータの指揮するフォン・アイネムフィラデルフィア交響曲と組み合わされている。
これ一曲が単独で収録されたのだろうか。カップリングも妙だ。

 
CD63
ハチャトゥリアン:スパルタクスガイーヌ(抜粋)
アラム・ハチャトゥリアン(指揮[録音:1962年],
J・シュトラウスII:バレエ「卒業記念舞踏会」(ドラティ編)
アンタル・ドラティ(指揮[録音:1977年]/
 


旧ソ連、アルメニアの作曲家ハチャトゥリアン1963年に来日。
この録音は来日の前年に当たる。日本では来日記念盤として、派手に宣伝されて売られたらしい。
当時小学生だった私は、音楽の授業の時間に、彼の指揮姿に触れているはずだ。
「ガイーヌ」のなかの一曲「剣の舞」は、3年か4年の鑑賞教材だった。教育芸術社発行の教科書には、作曲者がオーケストラを指揮している写真が、かなり大きく掲載されていたからである。
「作曲家とはオーケストラを指揮する人なのか…それに音楽の時間にレコードで聴く曲には、今も生きている人の曲もあるんだ」
と、ネコパパ少年は思ったことだろう。
 
このバレエ音楽を一言で表すなら、威勢のいい音楽、というのだろうか。
活発な、躍動する、でも(失礼ながら)ちょっと汗臭く、喧しい音楽…有名な「剣の舞」だけじゃなく、「子守唄」のような叙情的な部分でもやはり、そんな感じが拭えない。
ユニゾンで弾かれる土俗的なメロディーが、常に一定に打ち出されるリズムに乗って次々に湧きてくる音楽は「現代音楽」と呼ぶにはあまりに屈託がなく、前近代的にも感じる。だからポピュラーになったのだろう。
これがソビエト当局によって奨励された「社会主義リアリズム」なのだろうか。
それとも、僻目でみるならば、ここには純朴を装った風刺的意図が隠されているとでも…

ハチャトゥリアンの指揮は、そんな自作の特徴を、自信に満ちて、高らかに歌い上げたものだ。
ここには、R・シュトラウスやストラヴィンスキーが自作自演をしたときのような、自作を突っ放し、敢えて素っ気なく扱うシャイなところは微塵もない。
天晴れな楽天性。
でも、これにどっぷり浸かるのは、いまのネコパパにはちょっと気恥ずかしい。
ウィーン・フィルのメンバーたちはどうだったのだろう。
作曲者の汗みどろの指揮に応えて、ダイナミックな演奏を展開しているが…
なんとなく、仕事と割り切ってやっているような気配を感じてしまうのは、先入観のせいだろうか。
 
「卒業記念舞踏会」はヨハン・シュトラウスの曲をドラティがバレエ音楽に編曲した作品。
けっこう録音も多くて、初めて聞いたのはかなり昔だ。そのときから個人的には違和感が拭えず、レコードも処分してしまった記憶がある。そういう曲に限って、なぜか手元にいくつも集まってくるのである。

そもシュトラウスのワルツ自体が舞曲で、バレエとして踊られることも多い。
それをわざわざ繋ぎ合わせて編曲し、舞踏組曲とする意味はあるのかな…もしやるなら、原曲以上の魅力が欲しい。
けれどもネコパパの耳には、原曲の持っている陰影や味わいが薄れた、空虚な音楽になってしまっている気がする。
ヨハン・シュトラウスの音楽は、完成度が高い。曲ごとの独立性もある。
リズムが同じ三拍子で、似たような曲だから…と思って「いいとこ取り」をしようとしても、そう簡単にはいかない。
この「侵し難さ」こそ、傑作の証ではないかと思うのだ。

 
CD50
ワーグナー:
「リエンツィ」序曲「さまよえるオランダ人」序曲,
「タンホイザー」序曲とバッカナールジークフリート牧歌,
ジークフリートの葬送行進曲~
ゲオルグ・ショルティ(指揮)[録音:19611982年]



 
61年録音の序曲集アルバムに、65年の「ジークフリート牧歌」82年の「ジークフリートの葬送行進曲」が追加されてた一枚。
「牧歌」と「葬送行進曲」の間には、同じジークフリートのテーマを使った短い合唱曲が入るが、これは何の曲だろうか。

「オランダ人」は最もショルティらしい演奏。
すべての声部が明晰でくっきりとしていて、曖昧模糊としたところが一切ない。それだけに割り切りすぎて、情感とかや底知れない神秘感はあまり感じられない。
噛み合わせはいいが、潤滑の利いていない新品の歯車の動くような。

「リエンツィ」は、同様な表現ながら、それが曲想に合っているのだろう。次第にスピード感を増していく快適さが、新品の歯車にはぴったりだ。

ところが同じセッションなのに、「タンホイザー」になると演奏傾向が変わる。
さきの2曲のようなメカニカルなところがなくなり、響きが塩梅良くよくブレンドされ、トゥッティも力尽くの感じはせず、余裕を持って響く。バッカナールから最後の合唱の部分まで、スケールの豊かな音楽が途切れずに展開されていく。
この曲集の中では長丁場ということで、ショルティもオーケストラ・モードからオペラ・モードに切り替わったのだろうか。

最後に収められた「葬送行進曲」も、「タンホイザー」と同様なスタイルで、力に溢れながら、ゆとりと自発性を失わない演奏になっている。

「ジークフリート牧歌」は、初演の故事に則って、室内楽編成で演奏したもの。
クレンペラーと並ぶこのスタイルでの貴重な録音だ。
演奏はウィーン・フィルのメンバーたちの音色美を前面に出していて、テンポも緩やか。前半のゆったりとした部分は、春の日差しに照らされた田園風景のようで、とても心地よい。
しかし後半、曲想に動きが出てくると、またしても、この指揮者独特の、四角四面な硬さが表に出てきて、なんとなく醒めた気分になってしまう。
どうせなら、最後の一音まで、楽員にすっかり任せてしまえばいいのに…と思ってしまう。
 
ショルティのワーグナー・シリーズは、Deccaの残した歴史的な録音遺産であることに異論はない。
精緻な録音芸術として評価するなら、二度と成し得ない業績かもしれない。
けれども、彼にとってワーグナーの音楽とは何だったのか。
この一枚を聞く限りでは、彼の譜読みは結構不器用にも感じる。迷いがあるようにも感じる。
全曲盤を丁寧に聞き込んでもいないネコパパに、言う資格はないのだが…、
関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(2)
No title
VPOのBOXは、廉価盤BOXでもありますから、無理をして組合せているところがありますけれども、私もクリップスの「未完成」のオリジナルの組合せには少々驚きました。
DECCAでのクリップスの位置づけみたいなものが、それほど重要ではなかったのかなぁと思わせるものでもあります。

それと、意外とと言っては失礼になりますが、ショルティの収録数が多いところも目につきます。
レコード会社から見た指揮者の重要度は、聞く側とは少し違うのでしょうかねぇ。

gustav_xxx_2003

2015/03/01 URL 編集返信

No title
クリップスはこのあとコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してフィリップスに録音を開始します。演奏活動を中止したわけでもないのにこの一曲だけでセッションをおるのは不自然ですので、何かトラブルでもあったのかもしれません。カルショウによれば、クリップスという人、芸風に似合わず不寛容で偏屈な面もあったようです。
ショルティはその逆で、レコード会社には協力的だったのかもしれません。デッカには無名時代から重用されていて、アンセルメとともにハウスコンダクターと呼ぶべき存在だったのでしょう。でも常に揺るがぬ自分の音楽をやるアンセルメとは違って、曲ごとに、ときには同じ曲の中でもまちまちな表現が表れるのには、戸惑いを感じます。

yositaka

2015/03/01 URL 編集返信

コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR