光に満ちた、生き生きと脈打つ音楽

DECCA《ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団エディション》をきく②

CD5
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23&27番~
クリフォード・カーゾン(P) ジョージ・セル(指揮) [録音:1964年]
 


イギリスのピアニスト、カーゾンのピアノを言葉で表すのは厄介だ。
タッチは淡くデリケート。録音で聴く限りでは、弱々しい印象が感じられるかもしれない。
しかし、じっくりと耳を傾けると、白一色のタッチから、豊かな音楽が聞こえてくる。
緩徐楽章の、消え入る呟きのように始まる冒頭部分。
ちょっとリズムをずらし、間を取って遠慮がちな微笑を感じさせる経過句のトリル。
淡い打鍵が気づかぬ間に力を増し、秘めた情熱をあふれ出させるフィナーレ。
表現の幅を意図的に狭め、瞬間瞬間のきらめきを追及する。それが彼の理想のモーツァルトへの道だった。
録音には慎重、発売の許可にはなお慎重。
当盤も不許可となった一枚で、のちに23番はケルテス、27番はブリテンとの共演盤が本テイクとして発売された。
隅々まで引き締まり、一点の曖昧さもなくコントロールされたセルの棒は、カーゾンには水と油と感じられたのかもしれない。27番再録でのブリテンの天衣無縫の指揮ぶりと比べると、やや四角四面な硬さもあるのは確か…
でも、ウィーンの木管群、フルート、クラリネット、オーボエなどがピアノにぴたりと寄り添い、音色を合わせて馥郁たる響きを聞かせるところは、この盤にしかない魅惑のひとときである。
23番の方は、ケルテス盤と互角ではないか…と個人的には思う。

 
CD12
ベートーヴェン:交響曲第8,
ブルックナー:交響曲第1番~
クラウディオ・アバド(指揮)[録音:1968&1969年]



 
ベートーヴェンの第8番では、溌剌した、明るい音作り。ちょっと力んでいる様子も伝わってきて、いかにも若い。
アバドには、個性的な音楽を作ってオーケストラを引っ張ろうという野心は、この当時から、あまり感じられない。ウィーン・フィルとの初録音という、指揮者として最高のチャンスなのに全体としては「普通」の印象なのが惜しい。
ブルックナーの第1番も、軽やかな響きで一貫する。
ヴァイオリンの薄く明るい音色は、いつものウィーン・フィルとはちょっと一味違う。
この弦楽が一番生きているのは、第3楽章のトリオだ。色とりどりの花畑を思わせる爽やかな叙情が漂う、全曲の白眉かもしれない。続くフィナーレも、速いテンポでぐんぐん進む。若々しい熱気伝わってきて、爽快だ。
けれど、聞きものの第2楽章は、軽やかな音の流れと、私の中の曲のイメージがどうも一致しない。第二主題は清涼で気持ちがよく、最後のクライマックスの歌い上げではここぞとばかりに頑張るが、直後に現われる沈み込むような諦観のフレーズはか細く、弱すぎる。そのほかにも、ブルックナーが細部に込めた含蓄があっさり飛ばされてしまい、「ちょっと待って」といいたくなる部分が多い。
ジャズでは、アップテンポは聞かせるが、バラードはまだまだ年季が足りない…と若いプレイヤーを評したりするけれど、
若いアバドもそんな感じだ。

 
CD1
ハイドン:交響曲第94番「驚愕」, 101番「時計」, 104番「ロンドン」*~
ピエール・モントゥー(指揮) [録音:1959年]/*ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮) [録音:1959年]



 
映像に見るモントゥーは、髭を蓄えた好々爺の顔に笑みを浮かべ、長い指揮棒をゆったり振る。「老楽長」の言葉が似合う風貌だ。
しかし、彼の指揮から生まれてくる音楽は、そんな風貌に似合わず、鮮烈。
テンポの個性的な動きや濃厚な表情づけを排除し、譜面そのものに向き合う。湿り気がなく、音が強く大きい。光に満ちた、生き生きと脈打つ音楽である。
モントゥーの個性は、サンフランシスコ響やロンドン響を指揮した録音で遺憾なく発揮される一方、日頃なじみのないオーケストラではやや奥に引っ込む。このハイドンもそうだ。ウィーン・フィルは、彼の棒の元で実にのびのびと、開放的に演奏している。
旋律の姿がいい。
こまかな音が積み重なり、掛け合いながら音楽を前進させていくような部分、俊敏に駆け上がり駆け下りる音たちがくっきりと見通せる。
「驚愕」第二楽章のフォルティッシモも、古典だから抑制するなんてことはしない。本物の、腹に応えるフォルティッシモだ。



 
104番「ロンドン」の指揮はカラヤン。
同じ年の録音なのに音が悪く聴こえる…と書かれている方もいる。私は、それは録音の音質ではなく、指揮者の求める音が違っているのだと思う。
すべての音がブレンドされ、ひとつの流れをもった音塊として、とうとうと流れていく。
音の粒立ちや立ち上がりをあえて消した「マスとしてのオーケストラ・サウンド」が聴こえてくる。曲の構えが大きく、堂々としているところはなかなかのものだが、ネコパパは、第3楽章のメヌエットとトリオが切れ目なくひとつに繋がる部分を聞いて、ちょっとやりすぎじゃないかな、と思ってしまう。
ハイドンの美味しさが水に溶けて流れていく。

追記11/23
このハイドンは解説書にオリジナルジャケットが掲載されていない。
もしや落丁?…と思ったが、よく考えると、いずれもRCAがDeccaのスタッフを起用して収録したもの。オリジナルは他社のものなので掲載しなかったと思われる。資料的価値を思うと、そこは何とかしてほしかった。…そうか、このBOX、オリジナルデザインの紙ジャケ装丁にならないのは、そのへんに理由があったのかも。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(2)
No title
BOXを聞く勢いが止まりませんね。
カーゾンのピアノは、別のデッカBOXでブリテン指揮の伴奏で第20番と第27番を聞いてみて、聞き慣れたブラームスとはまた違った姿に驚きました。
セルとの共演だと、ブラームスが似合うのですかね。

ハイドンは先頃聞いて、特にモントゥーのチャーミングさには参りました。
モントゥーの、割とくっきりした音楽を聞いたあとにカラヤンを聞いたものですから、お書きになったとおり、個々の楽器の鮮明さよりもマスの響きが優先された演奏であったように思います。
最近の、情報量の多いデジタル録音に耳が慣れてしまっているのでしょうか、聞いたときは分離の悪さが気になりましたが、1枚のCDの中に、演奏も録音も、方向性の違うものを続けて聞くのも面白い経験でした。

gustav_xxx_2003

2014/11/21 URL 編集返信

No title
グスタフさん、カーゾンとセルはブラームスで立派な演奏を成し遂げています。こちらはOKを出しているところを見ると、曲との相性もあるのでしょう。こんなカーゾンがクーベリックとのライヴでは相当に活力のある、表情豊かなモーツァルトを演奏しているのですから驚きです。
カラヤンは録音にも一家言あって、録音スタッフにも注文の多い人でしたから、おそらくこれもそうでしょう。お得意のエコーが掛かっている可能性もあります。そういうことも含めての「音を追究」、あとは聴き手の好みの問題ですよね。

yositaka

2014/11/21 URL 編集返信

コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR