子ども読み物と教科書~研究大会報告②

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前回の続きです。
大会一日目のクライマックスは「児童文学は専門外」とおっしゃる府川源一郎氏の講演でした。しかし、その言とは裏腹に、明治初頭からの海外の名作の初訳や、教育分野における昔話の位置づけの確立といった、児童文学史上特筆すべき事実を解き明かす画期的な研究でした。
私の本業や専門分野とも関連が深く、夢中になって聞きました。
 
《公開講演会》 14451630
演題:子ども読み物と国語教科書の交流史 ― 明治期の「お話」をめぐる四人の仕事 ―
講師:府川 源一郎(横浜国立大学名誉教授)
 
概要(大会要綱より引用)

明治期に作られた子ども用の図書は、そのほとんどが何らかの意味での「教育性」を帯びていた。また児童用図書と教育用図書との境界も、それほど明確だったわけではない。そうした状況を踏まえた上で、明治期の子ども読み物の世界を切り開いた人物たちの仕事に新しい光を当ててみたい。
取り上げるのは、時代順に、鳥山啓・伊沢修二・山縣悌三郎・樋口勘次郎の四人である。
従来の児童文学史には、大きく取り上げられてこなかったが、彼らはそれぞれ欧米文化に学んで、様々な側面から日本の子どもたちの言語文化・言語教育の振興に取り組んだ。その苦闘の跡を概観する中で、今日の子どもの読み物にまでつながる「お話」の「教育性」という問題について考えてみたい。
 
1 鳥山啓~欧米作品の訳出と口語会話体の使用
 
明治5年に学生が発布され、近代教育の道を歩み始めた日本。しかし教科用図書検定条例(検定制度開始)は明治19年で、それ以前は教科書と読み物の明確な区別はなかった。教科用とされた「読本」も、欧米物の翻訳から始まる。
これら翻訳啓蒙書のなかで注目されるのが鳥山の編んだ『さあぜんとものがたり(明治6年)である。米国「サーゼントスタンダードリーダー」の抄訳で、これは米国の読本としても文学的傾向の強いものである。



鳥山版は、全編ひらがな表記という当時としては斬新な一冊で、特色は、会話文が生き生きとしていて、現実の子どもを思わせる実在感があること。
あるぜりあこくのさいばんやくのはなし』は、チャールズ・ディケンズ作品の本邦初訳のひとつ。
また、グリムとアンデルセンの童話も含まれ、これも初訳と思われる。
ディケンズ作品は同年刊の他の読本『啓蒙修身録』にも訳出されているが、こちらが伝統的な漢文体の、固い文で書かれているのに対し、鳥山版ははるかに子ども読者を意図した、丁寧でわかりやすい会話体で表記され、修身臭も少ない。
 
2 伊沢修二~昔話の教育的価値を確立
 
明治20年、教科書検定制度はできたが、当初は欧文直訳調、または漢文調で難解なものが多かった。
子どもには発達段階があり、それに応じて教育をするという発想自体、当時は無かったのである。学校制度ができたといっても、就学者数は伸び悩んでいた。
伊沢は、日本で最初の「教育学」の本を出した人で、明治20年刊行の官制教科書『尋常小学読本』には、彼の思想が生かされていた。
当時のアメリカの教科書「スウィントン読本」に日本の昔話「大阪の蛙と京都の蛙」が掲載されていたことに勇を得て、彼の教科書にもこれを採用したのである。
ただし本文は米版の翻訳逆輸入ではなく、国内の流布本を使ったと思われるが、これは漢籍訓話をよしとし、昔話のような平俗な話財はふさわしくないとされていた当時の教科書観を覆す英断であり、昔話そのものの教育的ステイタスを高める契機となったと思われる。
やがてこの動きは日本伝来の文化財を教材化することにより、新しい国家文化を創出しようとする動きとなった。伊沢は「桃太郎」の教材価値を強く主張し、多くの根拠を立てて普及に努めた人であったが、成果はあり、以後「金太郎」「猿蟹合戦」「こぶとり」なども国民的昔話として位置づけられていく。
尋常小学読本』には、「国家意識」と「グローバルスタンダード意識」が同時に形成され、共存している様を見ることができる。
しかしやがて国家予算が欠乏し、教科書編纂が官から民に移ると、グローバルスタンダード意識は後退し、国家主義の色合いが濃くなっていくのである。
 
3 山縣悌三郎~「面白い物語」がはじめて教科書に

日本最初の子ども向け読み物雑誌『少年園』を明治21年に発刊したことで知られる山縣は、教科書編纂にも精力的であった。
教科書『小学国文読本・尋常小学校用』は、基本的には当時の読本と内容的な違いは無いが、『少年園』に掲載された「尽きぬ話」という異色作を採用したという点が注目される。



話を聞くことの好きな王が、無限に続く話のできるものを国中から募る。
多くの者が集まるが、いずれも脱落していく。そこへひとりの若者が現われ、頓知を聞かせて、見事に王の鼻を明かし、褒美を手に入れるという物語である。
これはナンセンスな繰り返し表現を多用した、今読んでも面白い内容で、しかもかなり長い物語である。読み物雑誌から教科書に採用されたという点も重要だが、『少年園』掲載作とは異る部分がある。勝利者が姫との結婚を約束されるという「難題婿」と、難題脱落者への「斬首」の罰という、いかにも昔話らしい要素を改変しているのである。それは教科書掲載作とするために「小学教則大綱」に従った、苦肉の策であろう。
しかしこれによって物語自体の面白さは消去されなかった。読者の中には、この教科書を通して「面白い読書」経験を持つことができ、さらに自ら読書を探求する者もいただろう。本書は、いわば「近代子ども読者の誕生」に繋がる契機のひとつとなったと思われる。
 
4 樋口勘次郎~子どもの原理を生かした童話の試み
 
「総合学習」を考案したのは樋口である。
彼は当時先端を行く実践家で、手本から脱却した言文一致体の作文教育も推進。明治33年に「遠足に行った感想文」を日本で最初に書かせた人である。
教室に本を持ち込んで「読み聞かせ」を行った最初の実践家も樋口であった。読み聞かせの作品としては、巌谷小波の「日本昔話(明治27)を積極的に取り入れたが、内容そのものについては「教育的でない」と批判するところでもあった。
樋口が編纂した『修身童話・桃太郎(明治31、シリーズの1巻目)は、小波のものとは大きく違い、情景描写を廃し、道徳的アレンジを加えている。欄外にはページごとにそこで学ぶべき徳目が注記されているほどだ。
しかし、文章は平易で、小波に比して難語句が少なく、言文一致体を採用している。文章量も多く、子どもたちが自力で読める本などほとんど無かった時代に、「子どもが自分で読める本」の可能性を開いたと見ることができるだろう。



樋口が子どもの視点を獲得できたのは、ヘルバルト教育学の影響が大きい。子どもは成長段階に応じて、古いものから新しいものへ移行していく(開花式流れ)。そのために初級段階(年生の原理)が大切という思想を持っていた。
しかし『修身童話』は、受け手と語り手の両方を読者対象とした曖昧さもあって、樋口の期待とは裏腹に、広く普及するには至らなかった。その後フランス留学の機会を得て以降、樋口は教育活動、編纂活動を離れてしまう。
結局、明治期の教科書の流れは修身、教訓の流れが主流とならざるを得ず、山縣、樋口の試みは大きな影響力を持つには至らなかったのである。
 
それは、今日の問題でもある。
道徳の教科化」がとなえられ、数年後にも実施される見通しだ。心配している。
以前の『心のノート』には、物語は含まれていなかった。しかし今回の『私たちの道徳』は違う。多くの物語が組み込まれていて、物語による国家主義再現という危機感を感じさせるのだ。
児童文学は、広い意味での教育性から逃れることはできない分野である。それだけに関係者は、幅広い問題意識を広げていく必要があるだろう。
 
<感想>
府川さんのお話は、300枚の博士論文が元になっているとのこと。私の要約では、到底まとめきれない深さと広がりを持った80分でした。
一言で言えば、明治初頭という時代の勢いを見るようなお話でした。
学制発布まもない時期から、日本ではかなりの数の国語読本が作られていて、その多くが欧米教科書の翻訳であったこと。
そのなかに、グリム、アンデルセン、ディケンズの文章が含まれ、それも相当に緻密な訳文だったこと…
当時の日本人の情報収集の速さとセンスには、驚かされます。
しかし残念なことに、制度がしっかりして就学者数が増加するとともに、読本の内容は「面白さ」を離れ、教訓臭を増し、国家主義的傾向が強くなっていく。
「新取の気象」に富んだ国民性が、結局は持続せず、生かされない…ということになります。
その傾向が、今再び繰り返されようとしている…という心配の言葉で府川さんの講演がしめくくられたのは、ネコパパにも共感できると同時に、現場教員の一人としてなんとかしなければ、と感じるところでもありました。

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コメント

コメント(4)
No title
『さあぜんとものがたり』というものは、全編ひらがな表記となっているというところで目が止まり、たまたまですが、昨日読んでいた講談社のPR誌「本」に似たような論考が掲載されておりまして、ひょっとしたら日本の伝統かなと思いつつ拝読しました。

高島俊男という中国文学者が書かれた「漢字雑談」という中で、室町時代に論語を子供に覚えさせるために、発音どおりに全編ひらがなで書かれたものが紹介されていました。
これは「延書本」(のべがきほん)というものなのだそうです。
この論考では、室町時代の日本語がどんなものであったかという材料として紹介されておりましたが、ひょっとすると江戸時代の寺子屋でも似たようなものがあったのかもしれませんね。

gustav_xxx_2003

2014/10/25 URL 編集返信

No title
児童文学の初級段階が気になり、手持ちのLP文部省唱歌集成の1年生を調べてみました。
尋常小学校→国民学校→戦後で書体、歌詞が違えど共通するのは、「日の丸」と「はと」でした。
驚いたのは「君が代」国民学校にいきなり出てきて各学年で繰り返し教える。
国旗の日の丸は、歴史があり好きですが、明治初期に作られた君が代曲としては好きですが国民歌としては君の解釈を都合よく換えられ又利用された感があります・・・。
児童教育の大切さと恐ろしさを感じました。

チャラン

2014/10/25 URL 編集返信

No title
Gustavさん、「延書本」とは、本来経典に注釈をつけて読みやすくしたもののようですが、論語の手本として作られた平かな書きのものにもそう呼ばれるものがあったのですね。知りませんでした。室町時代から子ども向き手本があったとすれば、それが明治に至るまでひとつの系譜として続いていったとしてもおかしくありません。実に教育熱心な国だったわけですね。

yositaka

2014/10/25 URL 編集返信

No title
チャランさん、私も小学校のころ音楽の教科書が好きで(授業はあまり好きではありませんでした)よく眺めたものでした。そのころから、どの学年の教科書にも「君が代」が載っているのが不思議でした。ほかの歌は重複していないのになぜこれだけ?楽しい曲でもないのに…と思ったものでした。当時は「国歌」と呼ばず、単に「君が代」とだけ記載されていました。今とは隔世の感がありますね。
なお、講演に登場した伊沢修二は、明治12年という早い時期に文部省に働きかけて「小学唱歌」を編纂。「君が代」「仰げば尊し」「蝶々」「霞か雲か」など、今も歌われている曲を多く収録しています。のちの文部省唱歌の前身ですね。

yositaka

2014/10/25 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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