賢治 冒険小説 三国志物語~研究大会報告①

先週末は、日本児童文学学会第53回全国大会2日間参加。
ネコパパ、頭がくらくらするくらいしっかりと勉強させていただきました。
会場は京都女子大学
京都駅からさほど離れていない、東山三条の、山の中腹にあります。博物館三十三間堂の間近です。
山の斜面に沿って広大な、歴史を感じさせるキャンパスが広がっています。ここが京都における児童文学研究の中心地なのです。
大会の会場となったU校舎は、発達教育学部児童学科を中心に、音楽、文化、宿泊施設等を持った大規模な校舎でした。



 
では、例によってネコパパが参観した研究発表、講演、シンポジウムの感想を順を追って報告していきます。じっくりとお付き合いいただければ…
 
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《研究発表》 13001430

1300~ 宮沢賢治「かしはばやしの夜」の演劇性
藤田なお子(梅花女子大学大学院修士課程)
 
童話「かしはばやしの夜」を執筆した1921(大正10)年は、賢治が信仰に生きることを思い立ち上京した初年である。当時賢治は傾倒する国柱会総帥、田中智学の歴史劇を鑑賞し、かねてからの演劇的関心も手伝って、多様な演劇的要素が作品に取り入れられたと思われる。その演劇性を、発表者は6つの局面から論じていく。

1 作品の舞台設定と構造
2 「夏のをどりの第三夜」の舞台空間…月の舞台照明
画かきの役割…演劇青年のイメージを投影(非生活者、賢治の分身)
4 劇的対立する清作と柏の木大王…田舎周りの劇団の喜劇的な台詞の反復を多用
5 「歌」と「踊」…後期形になるにつれて文学作品に適合する「歌合戦」に推敲された
6 「青い鳥」とふくろう…メーテルリンクの戯曲の影響が見られる

演劇的要素の多用によって賢治が描き出そうとしたものは「自然と人間の複合芸術」という自らの理想の提示と、それが崩壊していく過程であった。それが童話として成立しているのは、賢治が演劇体験から得た「喜劇的語り口」によるものと思われる。
 
<感想>
賢治童話の演劇性は、当時「語りの文体」が中心だった近代童話の傾向とは一線を画していました。賢治童話が現代に通ずる普遍性を獲得できたひとつの要因がそれではないか、と感じながら聞きました。質問したのは、直接影響のあったと予想される田中智学の歴史劇「佐渡」の内容が気になる。ぜひ比較考察を…ということでした。

 
1330~ 明治期における教育雑誌にみる「冒険小説」観
目黒 強(神戸大学)
 
明治期、近代小説生成期。
この時代の児童文学観はほとんど研究されておらず、文献も少ない。これを明らかにするため、目黒氏は果敢なアプローチを試みる。教育関係の文献を通し、その中のわずかな記事内容から、当時の識者が「子どもたちに望ましい読書」をどう捉えていたかを探ったのである。
明治初期は、江戸期の戯作文学の流れをくむ通俗性の強い作品が流通。そこに写実派「近代小説」の拡大に向けて、坪内逍遥一らが運動を繰り広げていた。
当時、学生の風紀を乱すものとして小説が槍玉に挙げられ、小説有害論が議論される中で、「教育」と「小説」のかかわりについても論議が起こり、それは子どもの読書を取り上げた「教育雑誌」上の記事にも現われていた。
近代小説(ノヴェル)を正統化するため、子ども読者も多い冒険小説(「浮城物語」など)を含む「稗史小説(ロマンス)」を通俗なものとして批判する論陣を張った坪内逍遥。
それに対して、近代小説を不道徳とみなし、むしろ道徳的・理想主義的な要素の強いものとして「冒険小説」を称揚する、政治色の強い教育関係者が存在していた状況が明らかにされていく。



目黒氏の考察は次のとおり。
 
①「冒険小説」の教育的機能の発見が、文学としての「冒険小説」正統化を促し
②有害図書としての潜在的機能への警戒が「冒険小説」規制の動きを促す。
この包括と排除を通して、児童文学の枠組みが徐々に形成(統制)されていったと思われる。
 
<感想>
近代童話以前の日本の児童文学をめぐる状況を解き明かす貴重な研究だと思いました。
目黒さんの発表は、いつも追究が徹底していて、引用された資料も膨大。20分の発表時間にはとうてい収まらず、もっと聞きたいという気持ちにさせられました。
研究はいまだ端緒についた段階で、目黒さん自身も「課題」のひとつとして上げているところですが、気になったのは、どの資料の文言からも「女性読者」の影がまったく見えないことです。
文学運動の推進者も教育関係の論者も男性という明治期の時代性もあり、論者の視界に女性が入らないのも当然かもしれないと思う一方、当時だって読書活動の担い手は、多くが女性だったのでは…という気もするのです。実情を解明するのはなかなか困難かもしれませんが、興味をそそられました。

 
1400~ 野村愛正論―外国作品の再話者として
三宅興子(一般財団法人大阪国際児童文学振興財団)
 
野村愛正は戦前戦後を通して「世界名作」の翻案・再話を数多く手がけた一人である。
今回主として取り上げられた『三国志物語』は、その代表的な一冊。
1940年から1952年まで、講談社から体裁を変えて4回も出版された。それだけ人気があったということであり、近年になっても一般書として再出版されているほど。



三宅氏の発表は、その四回の改版での異同を考察していく内容。
注目されるのは、1940年版と1952年版の目次がまったく違うものになっていること。
内容自体は基本的に変わらないが、物語のポイントを具体的に述べた40年版に対して、52年版では故事を引用したり、内容を暗示する文言に変えたり、凝った変更を加えている点である。

・張飛、督郵を鞭打つ→大鳥はやぶに住まず
・孔明、呉主孫権を説く→舌のはたらき
・曹丕、帝位につく→七歩の詩

という具合。野村の「名作」普及への情熱や作品に対する思い入れが強く表れた事実と考えられる。
また、本文とは関係ないが、4回の出版で挿絵はすべて羽石弘志だが、改版のたびにすべての挿絵を新たに書き下ろしている。

<感想>
丁寧かつ詳細な書誌研究の一端を見る思い…でしたが、個人的には、講談社の編集者の姿勢にも興味を持ちました。
版の変わるたびに、同じ画家に新たに挿絵を発注するというのは、現在はちょっと考えられない贅沢に思えますが、これは同じシリーズの他の巻にもいえることなのでしょうか。
そうすると、ポイントになっている「目次」の変更も、野村本人の思い入れもあったのでしょうが、編集者の意思(少しでも売れ行きを伸ばそうという野望)にも、並々ならぬものがあるのでは…と感じたりもしました。
現在も、日本の児童文学を考える場合、「講談社」という出版社は大きい存在です。戦前・戦中・戦後を通して、講談社の編集姿勢と児童文学のかかわりを探求するというのも、魅力ある研究テーマだと感じました。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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