児童文学とジェンダー②

さて、昼食をはさんで後半に入ります。
 
特別研究発表
「フランチェスカ・リア・ブロックの世界―YA作品における『性』という主題―」
水間千恵(川口短期大学)
 
フランチェスカ・リア・ブロック『ウィッツィー・バット』1989



ロサンゼルスでカルト的な人気を誇る作品。
都市の若者文化を描き、地元ではそのリアルさが支持された。
物語は、主人公の少女ウィッツィーが、ボーイフレンドのダークがゲイと知り、二人で「男探し」に出かけるところから始まる。
ダークのタックのゲイカップルと新しいボーイフレンド、血縁のない子どもの出産を経て、ウィッツィーの奇妙な「擬似家族」が生まれていく…という展開である。
救いのない家庭環境、社会の影を背負った展開。深刻な物語となってもおかしくないが、基調は不思議に軽くユーモラスである。

50年代のサリンジャー、ゴールディングの作品から始まったYA文学は「大人の枠にくくれない若者」の存在を発見し、若者を大人社会から周縁化され、大人への対抗意識を持つ世代として描いた。それによって作品は必然的に政治性を帯びることになる。
しかし70年代以降、社会に対する若者の無力が明らかになるにつれ、作品は暗く悲劇的な色合いに染まっていった。

YAの担い手はほとんどアメリカ東部、イーストコーストの作家たちである。
その特徴は
・単一主題(テーマ主義)
・物語性の後退
・物語のマニュアル化
・描写の過激化(暴力・いじめ描写)

『ウィッツィー・バット』には、YA要素がほとんど入っている。
マイノリティーの性的嗜好、離婚、薬物、婚外子…しかしペシミズムや閉塞感は排除され、児童文学的な楽観を打ち出している。それを支えているのが
・名詞の羅列
・先端的なファッション
・極限までそぎ落とした感情描写(恋人にゲイであることを告白されたときのウィッツィーの動揺はわずか一行。すぐに相手を思いやる言葉に切り替わる)
・幻想性(登場人物の珍妙な名前、生活臭なし、ランプの精の登場)
・大人のいない世界
である。

血縁に頼らず、大人の干渉受けない楽園で自己完結する物語。
ここには絶望も教訓もないが、そのかわりに「大人社会をあきらめた」若者社会の持つ怖さも感じられる。
「不幸」を強調した60年代から70年代の社会派児童文学、「幸福への回帰」をはかった80年代の児童文学の後に来た、子どもだけの「自己肯定」「非成長」を描いたのがブロックの作品と見ることができる。


 
水間さんは、YAを児童文学の一分野としてはっきり位置づけています。
本発表は、その歴史を俯瞰する意味でも、私にとって意義のあるものでした。
肝心のブロックの作品は未読でしたので、早速訳本を入手して読みました。
思ったより薄い本で、各エピソードがユーモラスに、さらりと語られる文体は、小説というより絵本のテクストを読んでいるようです。
面白いといえば、そうですが、ちょっと「ここ」とは別の世界の出来事のようで像を結びにくい。
登場人物たちに生きた存在感というものが感じられないから、かもしれません。
生活臭が排除され、経済基盤も不明な中で、子どもたちだけの自由な生活がのびのびと営まれる物語というのは、私としては、受け入れづらいというのが正直なところです。
アメリカには、こうした寓話的な語りを受け入れる何か宗教的な基盤というか心性があるのかな…と思ったりもしました。

さて、日本の若い読者はこれをどう受け止めているのでしょうか。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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