児童文学とジェンダー①

6月22()に行われた
日本イギリス児童文学会中部支部 2014年春の例会
に参加しました。

地下鉄桜通線、名古屋大学前駅に下りると、壁面にはこの会の開催を報じる大きなディスプレイが映し出されています。さすがは名大、これなら参加者もかなりか…と期待したのですが、会場の全学教育棟4階教室に入ってみると、そこは教職員の会議やゼミで使われているような小教室。
参加者も10人足らず…というこじんまりとした会でした。
一般の出席者はネコパパだけらしい。お茶菓子のおすそ分けをいただきながら、楽しく聞かせていただきました。中身の濃い会だったので、もう少し参加者があってもと思いましたが…
昔、中京大で開かれた同会に参加したときは、相当な参加者があったと記憶しています。
児童文学という研究分野は、ここ30年で随分と「小さな世界」になってしまったようです。

 
昨秋、48歳で惜しくも亡なられた三浦玲一氏(元中部支部会員)を偲んで「児童文学とジェンダー」が、例会のテーマに選ばれていました。
三浦氏の専門は児童文学ではなく、欧米言語文化論で主著は
ポストモダン・バーセルミ―「小説」というものの魔法について』。
ネット検索したところ、記号論を駆使した、先鋭的な文学研究を試みられていたようです。
彼と児童文学との接点は、書名に含まれた「魔法」という言葉が暗示しているのかな、と思いながら、皆様の発表を聞かせていただきました。
 
以下、発表の内容についての報告です。

 
研究発表1
「女庭師と子ども―ジャニ・ハウカーの『刈り込み庭園』The TopiaryGarden1993におけるジェンダーについて」
渡辺美樹(名古屋大学)
 


 
ジャニ・ハウカーは北部イングランド在住のイギリスの作家。
本作は彼女の第1短編集『はしけのアナグマ』に収められている作品で、のちにアンソニー・ブラウンの挿絵をつけて絵本として出版された。
ブラウンはアンデルセン賞も受賞している著名な絵本作家で、公園を描いた作品が多い。
物語は、父と兄との三人暮らしに女性としての疎外を感じている少女リズが、旅先で庭師小屋に住む高齢の女性サリーに出会い、人生への新たな視点を獲得していく…というもの。サリーは、女性が職を得ることが困難だった時代、ジャックと名乗り、男性として庭師の修行を積み、孤独ながら自立した人生を掴み取った女性であった。
「ジェンダー」の問題意識を内包した作品だが、渡辺さんは、絵本版に添えられたブラウンの挿絵に着目は物語に現れる「表象」をより明確に可視化していると捉え、場面ごとに考察を加えていく。
英国の公園や庭に特徴的な「生垣(トピアリー)」は「隔てるもの」の役割を担っている。
「庭(ガーデン)」とは「囲まれた空間」の隠喩である。
生垣の一部として刈り込まれている女性
悪魔のような人間
庭に置かれた腕のない女性の彫像…
それは、「女性性を囲い込む場所」としての庭であり、女性性を閉じこめる表象としてのTopiaryである。フィリパ・ピアスは『トムは真夜中の庭で』で、「女性を育む場所」として描いているが、本作とは対照的だ。渡辺さんはそこに、現代作家としてのハウカーの立ち位置を読み取っていると思われる。

 
研究発表2
「クリスマス絵本とジェンダー」
戸田山みどり(八戸工業高等専門学校)
 
 
戸田山さんは、クリスマス絵本のコレクター。これを「ジェンダー」という観点で見ると、思わぬ問題点が浮かび上がった。
「クリスマス絵本って、随分保守的なメディアだと思ったのです」

ブリッグス『ゆきだるま』Snowman
作者はこれをクリスマス絵本ではないといっているが、読者がそう位置づけた。理由は「一夜の奇蹟」がえがかれているからかもしれない。
類書のパロディー絵本『Snowmen』は、まったくのクリスマス絵本になっている。ここでも一夜の冒険に出かけるのは男の子。Snowmanも、また男性名詞。
オールズバーグ『急行 北極号』
物語よりも汽車が魅力…
美しさの極みのような作品だが、これも物語は、男の子だけがサンタの国に行き、すべてが終わったあと、妹は冒険譚を聞かされるだけの役割。
コリンリッジ『雪はどこへ』
テディベアと雪原の国へ旅するのは男の子は、窓から外に出て冒険し、極地の女王に出会う。
ここでも女性は「待つ」役割である。

クリスマスの絵本には、男の子の冒険ばかりが描かれている。
女性は「男の子の帰りを家で待つ」役割が多い。これはほとんどの作品に言えることで、そうでない作品を探すほうが難しい。あきらかにジェンダーバイアスの存在が感じられる。
カーティス『からっぽのストッキング』
これは珍しく女の子たちが主人公。だが、クリスマスプレゼントの取り違えの話で、彼女たちは「冒険」しない。
しかもなぜか、登場人物の女の子たちは「サムとチャーリー」という男性名で呼ばれている。テクストだけで絵がなければ、主人公の性別がわからないくらいである。
そうする根拠が内容にあるわけではないに…不思議である。
クリスマス絵本の古典に、アンデルセン『樅の木』があるが、「樅の木」は男性名詞。クリスマスツリーには男性性が象徴されている。

現代では、ジェンダーの殻を破った「私たちの絵本」と呼べる作品も登場している。
サラ・ガーランド『クリスマスをしよう』Doing Christmas1994



女性だけの家族が、樅の木を切り出すところから「自分たちのクリスマス」を手作りしていく、地に足のついた物語。クリスマスに呼ばれるお客さんは「ぶっ飛んだおばあちゃん」で、父親はじめ、男性は一人も登場しない。
一方でこれはクリスマスの日の家族の生活を描いた「奇蹟の描かれない」絵本であり、本来の意味でのクリスマス絵本と呼べるかどうかについては、賛否両論がある。
 
 
研究発表3
「ジュリー・オーツカの『天皇が神だったころ』を日系少年のカウンター・ビルドゥングスロマンとして読む」
小松恭代(石川工業高等専門学校)
 


 
小松さんはアジア系アメリカ文学の研究者。
本作は日系三世の作者によるもので、国家によるマイノリティの迫害という歴史滝事実を伝える作品として全米で読まれている。
小松さんは本作が伝統的成長物語と対立する「反・成長物語」として描かれていることを検証。
伝統的成長物語は、一般に主人公が「成長」によって「社会へ同化すること」を目指すが、その方向性は、マイノリティー(被支配者)にとっては「他者(支配層)への同化」を意味するネガティヴな意味を持つ。
本作では主人公の父の人生に白人社会の「成長物語」観の無力化を投影している。白人社会への同化を果たし、権威的な大人と見えていた父親の価値観を当初は継承し、「同化」こそ是としていた主人公は、収容所での生活、父親の零落、周囲からの敵意を体験することで、価値観を転換し「同化への抵抗」「支配への抵抗」を選び取っていく。
発表の中で小松さんは、収容所生活を描いた部分のテクストを検討する。
例えば、砂漠で見つけたカメを木箱に入れ、平らな白い石をのせる描写から、
「カメ」は日系人、
「石」は白人の表象
と読み取ったり、収容された人々を苦しめる砂埃を
「白い粉」
と表現することで、逃れることの出来ない白人支配を表象させている…等。
 

 
この三つの研究発表で共通していたのは、近代文学研究のオーソドックスな方法である「作家論的実証研究」を用いず、個々の言葉に内包される象徴的意味(表象)を読み解いていくことを主眼としたアプローチがとられていたことです。
 
「それで…『天皇が神だったころ』は、児童文学として面白い作品なのですか」
野暮なネコパパは、小松さんについこんな質問をしてしまいました。
「うーん、面白くないと思います()作者自身、本作を児童文学とはみなしていません。でも私は、ここに描かれた父親像や、息子に託された人生は、十分に児童文学的な主題だと思っていますよ」
と、小松さん。
戸田山さんご紹介の『クリスマスをしよう』は、クリスマス絵本の枠を外しても優れた絵本と感じましたし、
渡辺さんの取り上げた『刈り込み庭園』も、ジェンダーについての問題意識ははっきりと認められますが、やはりそれ以前に、リズとサリーの人生そのものが、読者にはっきりと像を刻む力を持っています。
このような作品に対して、テクストから拾い上げた素材を分析し「表象」を見て取っていくアプローチは、確かに興味深く、ひとつひとつの言葉やイメージの持つ歴史性や社会的、心理学的な意味合いを考察することは、作品を超えた広い視点を読者に与えることでしょう。
しかし一方で、
微細な「深読み」を続けていくうちに、いつの間にか作品そのものの魅力から逸脱し、言葉遊びのようになってしまう一面もあるのではないか…と感じもしました。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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