光のうつしえ―「記憶の伝達」の行方

光のうつしえ―廣島 ヒロシマ 広島




朽木祥 
講談社
2013/10/11
1,300円(税別) 
 
あれは、誰の灯籠だろう――。
またひとつ、赤い灯籠が流された。灯籠を見送っている人に、希未は見覚えがあるような気がした。
「悼む」とは、ずっと忘れないで伝えていくということ。
中学1年生の希未は、昨年の灯籠流しの夜に、見知らぬ老婦人から年齢を問われる。
仏壇の前で涙を流す母。同じ風景ばかりを描く美術教師。
ひとりぼっちになってしまった女性。
そして、思いを寄せた相手を失った人――。
希未は、同級生の友だちとともに、よく知らなかった“あの日”のことを、周りの大人たちから聞かせてもらうことに……。
(講談社ホームページ 内容紹介から)

 
2012年11月の日本児童文学学会で「記憶を伝える」というテーマのパネルディスカッションがありました。
戦争を知らない世代が戦争を語るにはどうすればいいのか、という文脈の中「新しい波」の筆頭として取り上げられていたのが朽木祥「八月の光」でした。
早速読んでみました。
これは86日の広島、その日に生きた人々やその家族の姿を「体験談」ではなく「語りなおされた創作」として、美しい文体で描いた連作短編集。
児童文学では数少ない、抑えた筆致で被爆の現実を見つめなおした力作と感じました。
 
本書は、時間軸を現代に移します。
主人公、希未が、灯籠流しの夜に出会った「ひとつの謎」をきっかけに、身近な人たちの中に隠されていた広島の「あの日」の記憶を、同級生たちとともに、掘り起こしていく…という長編です。
ミステリアスな導入から、次々に解き明かされていく周辺の人物の過去…という、読者の興味を引きつける展開と「八月の光」でも感じられた、詩情豊かな文章によって、本書は「読者の心を揺さぶる、悲しく美しい物語」になっています。
たしかにこれは「戦争を知らない世代が戦争を語る」ひとつの優れた成果といってよいのかもしれません。
 
けれども、私はどうしたわけか、この作品に深くのめり込めず、
読み進むほどに、どこか「醒めた」気持ちになっていくのを抑え切れませんでした。
「『八月の光』よりも、ずっとすばらしい作品ですよ」
…と薦めてくださった方には、本当に申し訳なかったのですが。

その理由を自分なりにじっくり考えてみました。
 
まず、一つ目。
登場人物に生活者としての存在感が稀薄と感じること。
「広島の記憶」を呼び起こし、伝承したいという作者の気持ちがあまりに強すぎて、
物語も人物像もそのために「動かされて」いる感じがあります。
たとえば…こんな部分。


 
吉岡先生と同じだ。思いもしなかったような悲しいことが、若い日の先生にはあったのだ。
のんきな笑い顔や、時々すっとぼけたように口にする冗談や、絵筆を取って丁寧に教えてくれる姿からは想像もつかないようなできごとが。
 
「野球のほうはどうなら(どうだ)?がんばっとるか?
耕造が今年も振るわない野球部の様子をおもしろおかしく報告した。
先生は声を上げて笑った。
 
ほんとうに、希未たちが見たこともないようなお菓子が出た。…生まれて初めて食べる味だった。


 
本を読むのを楽しむ子どもたちは…いや、大人たちも
「すっとぼけた冗談」や「おもしろおかしい野球部の様子」や
「見たこともないお菓子」の中身を、もっともっと知りたいと思うのではないでしょうか。
過去の戦争に関心を持った中学生たちといっても、それだけを考えて日々を送っているのではない。
彼らは今現在を生きている。生き生きとした瑣末な日常、喜怒哀楽があるはずです。
小説とは、テーマ以前に、まず人を描くもの、という観点からすれば
本作品では、人物たちの瑣末な日常をあっさりとそぎ落とした結果、「追究する子どもたち」以上に「追究すべき主題」が前面にせり出してくるのです。
「おもしろおかしく」「すっとぼけた」という修飾語も、人物たちの日常的な側面がどこか冷たく扱われているようで、落ち着かない気持ちになります。


そして、二つ目。 
この物語が伝えようとしている「記憶」は「被害者としての被爆者」の視点に立ちすぎているのではないか、ということです。
作中に「加害者」「被害者」「傍観者」という言葉が出てきます。
「無辜の民」という言葉も出てきます。戦争にかかわり、巻き込まれた人々には、いろいろな立場の人がいた。なかでも作者は「無辜の民」という言葉に特別の思いを寄せていると思われます。

この点について、yamada5さんのブログ「児童文学読書日記」で、鋭い意見が述べられていました。
引用します。


 
…第14章で学校の先生の手紙として記述されている部分です。
先生は、第二次世界大戦は「無辜の民」が巻き込まれた初めての戦争だったと語りますが、そこで、「無辜の民」とは非戦闘員のことであるという奇妙な定義をします。これでは、戦地で戦っていない日本人はみんな、戦争責任を持たない「無辜の民」だということになってしまいます。
また先生は、「無辜の民」が殺されたのは日本だけではないとして、ロシアのレニングラードやポーランド、中国をはじめとしたアジアの国々、ユダヤ人を例として挙げます。「無辜の民」という強引なくくりで日本とアジアの国々を同列に並べる無神経さは理解しがたいものがあります。しかしこのおかげで、読者は当時の日本の立場から目を背けることができ、美しい物語を楽しむことができるようになっています。


 
鋭い指摘だと思います。
この記述が「無神経」なのか、それとも「意図」があってのことかは論を分かつところでしょう。
けれども当作品では、「無辜の民」という括りを持ち出すことで「伝達すべき記憶」の意味が、非常に幅広く、広義なものに拡散していく一方、
「戦争責任」の問題からは限りなく乖離していくベクトルを持つことは、否定できないと思います。
それは、例えば井上ひさしの「少年口伝隊」の持っていた「抗議する」要素から、そっと遠ざかることでもある気がします。

「抗議する」ことから離れることで「悲しく静かな感動」を呼び起こす語りを獲得した…
私の読後感の「醒めた気持ち」の理由は、そんなところにあったのかもしれません。
とはいえ、伝えなければならない記憶を丹念に拾い上げ、子どもたちに手渡していこうとする作者の志は確かなものを感じさせますし、一つの問題提起として読まれるべき作品と思います。
関心を持たれた方には、ぜひご一読をお薦めします。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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