6月7日、母校愛知大学で二つの集会が開催されました。
朝から出かけてきました。
平成26(2014)年度 愛知大学国文学会
日時:平成26年6月7日(土)11:00~13:00
場所:愛知大学豊橋校舎 研究館1階 第1・2会議室
次第
◆会長挨拶 黒柳孝夫(愛知大学短期大学部 教授)
◆研究発表 新任者講演 空井伸一(愛知大学文学部 准教授)
・井原西鶴『武家義理物語』第六巻の二~左の腕を断つ話「表向きは夫婦の中垣」を読む
昨年度で退官された恩師、沢井耐三教授に代わって近世を担当する空井伸一准教授の講演が柱となった会でした。
内容は読者の「読みの多様性」を認めつつ、
丹念に文献精査を行うことで「個人的な読み」から「正確な解釈」に導いていく過程を、井原西鶴を例にして提示しようとするものです。
同行したsige君は、
「作品そのものではなく、作品に対する他の研究者の読みへの批判から語り起こしていく、という論旨に、
学会発表としては、ちょっと違和感も感じたね…僕としては、ここは、専門分野の作品そのものに、正面から切り込んでいく直球勝負の発表が、聞きたかったのだが」
と、いささか不満気味な様子でした。
ネコパパ、それを聞いて
「空井先生は、研究の成果よりも、まずは研究姿勢を、主に学生を対象として示そうとしたのではないかな。
身の証を立てるために『左腕を切り落とす』という、作中人物の行為の意味を、複数の文献を駆使して究明するという、内容そのものは、とても興味深かったよ」
と答えたのでしたが、
その、肝心の学生の参加があまりない。
このことは、sige君ともども、残念に思っていました。
昨今の学生の事情は、かつてとは違います。学問、とくに人文系の学問に没頭するには厳しい現状があります。
それは承知の上ですが、
やはり大学の主役は学生。もう少しの参加を…と思ってしまうのは時代錯誤というものでしょうか…
午後は、在学中は日常的に講義を聞いていた、懐かしの7号館に移動。
こちらの入りは盛況で、200人近い参加者がありました。
大教室の椅子を倒して座る、おなじみの儀式をすませると、気分はすっかり大学生のネコパパです。
研究集会「丸山薫と中原中也―四季派の抒情―」
主催は、全国組織の研究団体「中原中也の会」。
団体の性格からいって、中也に重点が置かれた会になりそうですが、
地元紙の報道を見ると、
どれもが「丸山薫の集会」としています。興味深いですね。
豊橋ゆかりの詩人・丸山薫 来月7日、愛大で研究集会
豊橋ゆかりの詩人・丸山薫(1899~1974年)の研究集会が、6月7日に豊橋市町畑町の愛知大で開かれる。昭和を代表する詩人ながら知名度はいまひとつ。今年は没後40年にあたり、関係者は「この機に再評価を」と意気込んでいる。(曽布川剛)
丸山は国の役人だった父親の転勤で各地を転々とし、父の死後、12歳で母親の実家がある豊橋市に移住した。三高(現京都大)を経て東京帝国大に入学。この間に「檸檬(れもん)」で知られる梶井基次郎や三好達治らと親交を深めた。愛大講師(後に客員教授)としても短期大学部や文学部で教えた。
研究集会は午後1時からで、詩人・中原中也の研究者らでつくる「中原中也の会」(山口市)が主催する。中原は、丸山が三好や堀辰雄と創刊した「四季」の同人。中原の死後、丸山は詩やエッセーで何度も中原について触れている。集会では元桜丘高教員で文芸評論家の北川透さんが2人をテーマに講演する。
―2014.5.21 中日新聞朝刊東三河版より
没後40年で再評価を
愛大で「中原中也の会」主催 7日に丸山薫の研究集会
豊橋市ゆかりの詩人・丸山薫の没後40年に合わせ、愛知大学3号館1階で7日、研究集会が開かれる。丸山らが創刊した詩誌「四季」に参加した詩人・中原中也(1907~37)の研究会「中原中也の会」(事務局・山口県山口市、佐々木幹郎会長)が主催する。
丸山薫は父の死後、1911(明治44)年に豊橋に移り住んだ。その後、第三高等学校(現・京都大)、東京帝国大(同・東京大)卒業後、48(昭和23)年に豊橋に戻った。34年には堀辰雄、三好達治と「四季」を創刊。59年から亡くなるまで愛知大学客員教授を努めた。東三河や県内、静岡県の中学、高校校歌の作詞もした。
研究集会は丸山薫を再評価しようと企画。午後1時に開会し、詩人で同会理事の北川透氏が「海に人魚はいないか」と題し、丸山と中原の幼年期について講演。
同3時20分から同会理事で新編中原中也全集編者の宇佐美斉、加藤邦彦の両氏と、新編丸山薫全集編者の安智史・愛知大学短期大学部教授が意見交換する。
安教授は「丸山薫が持った人望の厚さを振り返るとともに、主知的な抒情詩の詩集に携わった2人の共通点を追求したい」と話している。(安藤聡)
―2014.6.5東愛知新聞
丸山薫と中原中也には、雑誌『四季』の同人として、生前交流があったようです。
しかし、若くして才を開花させ、36歳の若さで早世した天才肌の中也と、
75歳まで活発な詩作をつづけ、作風も変遷している努力型詩人の丸山薫は、かなり違った個性をもつ詩人で、
二人並べて論じるのはなかなか困難だったと思います。
北川透氏の講演は、この二人がともに取り上げた「幼年」という題材に着目して、
その特質の違いを明らかにしようとするものです。
中也の『北の海』が小川未明の『赤いろうそくと人魚』の影響下にかかれたこと、
それを引用した丸山薫の詩『詩人の言葉』や『人魚とぼく』に描かれた人魚が、
中也とは逆に、アンデルセン的な「南の海」のイメージをもっていること。
ここを手がかりに両者の特質の違いを論及します。
モダニズムの洗礼を受けた丸山薫の、ロマンティシズムの抑制から生まれた表現と、中原中也の、タダイズムとロマンティシズムの融合から生まれた表現。
両者は「幼年」という共通の主題を物差しにしたとき、はっきりとした対照を浮かび上がらせます。
「『幼年』について考えることは詩について考えることであり、『幼年』の運命が日本近代詩の運命に重なってくる」
という、締めくくりの言葉にあらわれているように、
小さな題材の中に大きな世界が隠されている、と感じさせる、奥行きのある講演でした。
続くシンポジウムでは、
安智史氏の「物象」に着目しての考察がまず出色。
丸山薫の得意とした無機物を視点とした作品を「視点交錯」=「物と私の萌え合い」と呼ぶところが、いかにも「軽みの中の真実」を大切にする、安先生らしいところです。
でも10分間で発表するには中身がありすぎでした。
語りきれなかった中也の「物象」表現については、日を改めて、お聞きしたいところです。
加藤邦彦氏は、両者の活躍の舞台となった雑誌『四季』についての詳細な検証と
二人の誌面での立ち位置に着目。そこから浮かび上がってくる「四季派の作風」の本体が、
意外にも堀辰雄にあることに言及します。
このあたりの作品をしっかり読み込んでいないネコパパには、ちょっと困った展開でしたが…
そして、宇佐美斉氏は、より視点を広く取り、
「詩人にとって青春とは」を主題に、当時の詩人たちの青春期の詩風と交流の姿が語られました。
中也や立原道三が丸山薫の自宅を訪れた際
「布団の上げ下ろし」をする薫に、いたく感心したというエピソードは、
生活から浮遊する詩人と、地に足のついた詩人の対比を、印象的に浮かび上がらせるものでした。
宇佐美氏の言葉の背景には
文学の時代をともに生きた多くの詩人・作家の姿が気配として存在していて、それが、教室内の空気をも、熱くしていくように感じたのです。
締めくくりに引用されたのは、ポール・ニザンの一節でした。
「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しいときだなんて、誰にも言わせない」
コメント
toy**ero
2014/06/13 URL 編集返信toy**ero
2014/06/13 URL 編集返信この追究の醍醐味を若い学生さんに伝えなければ、文学研究の未来は心もとないです。同日開催により、二つの団体の交流が深まったのは確かですが、それでも「あくまで別々の会」という空気が感じられたことも惜しいです。
yositaka
2014/06/14 URL 編集返信yositaka
2014/06/14 URL 編集返信