「行き止まりの読書」を回避するために

児童文学の行方
―読者の視座から児童文学の今を探る



藤田のぼる
2010.4.30 てらいんく

 
本書は、児童文学評論家の藤田のぼるが2008年、2009年の二回にわたって行った講演をもとにした一冊。現代児童文学の過去と現在についての貴重な提言である。
 
現代児童文学の出発点が1959年、『だれも知らない小さな国』が出版された年にある、という説は、多くの人によって言われほぼ「定説」になっているようだ。異論はあるとしても…
しかし、それ以降の時代区分は、必ずしも明確ではない。
筆者はそれに関して「児童文学にとって、子どもという存在がどのように意識されてきたのか」を基準に、10年一区切りとして、以下のようなキーワードで表そうと試みている。
 
1960年代…「希望としての子ども」
1970年代…「原点としての子ども」
1980年代…「同伴者としての子ども」
 
60年代の児童文学は、戦争の時代を反省し、旧世代を乗り越え、新たな社会を生み出していくべき存在として「子ども」をとらえ、作品は彼らに向けての「人生の教科書」ともいえる役割を内包していた。
それが70年代となると、理想を託すものとしての子ども像も出尽くし、作家の多くが自身の幼少年時代を題材とした自伝的長編へと向かった。
大人の問題をより深く掘り下げ、歴史や社会の悪を暴く一方で、罪ある存在としての大人を照射する「規範」としての子ども像を描き出そうとした(灰谷健次郎『兎の眼』など)
しかし80年代になると、物語には、多様化する社会を背景として、自分を支えられない子ども、支えきれない大人が描かれるようになる。大人の問題と子どもの問題との境界線が消滅する中で、大人と子どもの「共依存」や、むしろ大人が子どもに依存する傾向も現れる(今江祥智『優しさごっこ』ひこ・田中『お引越し』などに登場する、大人を支える健気な女子像)
 
「腑」に落ちる。

私が児童文学というジャンルを発見し、そこに、ほかでは見られない「豊穣な世界」を見て取ったのは70年代、藤田区分に言う「原点」の時代であった。
暗く内向き、難解志向に思われた一般文学に比べ、児童文学には人間性への信頼を基盤とした「臆面なく理想を語る」言葉があったと感じられた。
思えば、戦後民主主義の思想が、最後まで命脈を保っていたジャンルだったのだ。
60年代に少年時代を送り、民主主義教育の試行錯誤をリアルタイムに体験して育った私の中に、それに共鳴する何かがあったのだろう。
つづく80年代の作品世界の変質も、実感しながら読んできた。
皿海達哉、森忠明、岩瀬成子たちの作品からは、「理想」だけではどうにもならない、社会や人の複雑な諸相が、大人も、子どもも、作家たちも巻き込んでいく状況を、読み取ることができた。
タブーの崩壊」と呼ばれた時代でもあった。
 
藤田の言う「同伴者」とは、前向きな言葉にも思えるが、大人も子どもも、誰にも何にも依存できず、ともに地を這うしかない時代…という世知辛い思いも感じられる。
 
一方で筆者は、作品だけではなく、80年代以降の「読書の変質」にも眼を向ける。

生きる規範を文学に求める、いわゆる教養主義は、80年以降変質。
読書に求められるものは「生き方」の伝授から「情報」「シュミレーション」になっていった。
主人公の感情や葛藤に読者も身を置き、友に考える読書から、作品から距離を置き「もしも」「たとえば」を楽しむ読書へと転換していったのである。
その変化をよく表すひとつが、『ズッコケ三人組シリーズ』の人気であった。
それは、登場人物に強い思い入れを持たずとも、毎回違った題材、豊富な情報で、さまざまな事件をシュミレーションできる物語だった。



この傾向は進み、登場人物の人間像はますます整理・単純化・記号化され、「役割」を果たすのみの存在になっていく一方、情報(趣向)の目新しさや、味つけの濃さで読ませる作品が増えていく。

「いくら『ハリー・ポッター』を読んでも、そのレールの上に『ゲド戦記』はやってこない…」
こうした読書傾向を筆者は「行き止まりの読書」と呼ぶ。

では「行き止まり」を回避する道はあるのか。
 
藤田の期待するのは「行き止まりじゃない、いろんなところに行くことができる力や感性を高めることができる作品」が開く方向性である。
具体的な作家としてあげているのは、伊藤遊、岡田淳、高楼方子、富安陽子ら。
岡田淳の『ようこそ、おまけの時間に』を例として、物語の「伝達」ではなく物語への「参加」を通して読者が何かに気付いていく「読者参加型小説」に希望のひとつを託そうとしている。


 
こうした作品が「自分への風圧に耐えられない」読者にどのように受け止められるか、
私も期待する一人でありたい。あちこちから聞こえてくる「現代児童文学は終わった」という類の言説に組せず、今後も「児童文学依存症」を続けたいネコパパなのである…
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コメント

コメント(6)
No title
こんばんは。日本の児童文学も、時代とともに、路線変更を強いられているようですね。
私が子供の頃「児童文学」を読んでいたのは、1970年代だったから、いちばん恵まれた時期だったのかもしれませんね。
昔ながらの名作もいろいろ読めたし、新作の童話も「希望としての~」(1960年代)「原点としての~」(1970年代)だと、親しみやすい本をたくさん読めたのかな。

SC

2014/05/28 URL 編集返信

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coraさん、主題や題材だけではなく、70年代までの作品は「文体」にも注目すべきものがありました。作家が読者を信頼し、妥協なく表現に賭けることができたからです。当時の作品を読み返すと、地味な題材でも「文学」の格調を感じさせるものが少なくありません。しかし佐藤さとるや今江祥智、渡辺茂男などの短編を、じっくり読み味わっている読者を、今の子どもたちに探すことは相当困難と思わざるをえません…

yositaka

2014/05/29 URL 編集返信

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かつての名作を読まないのは、
コドモだけに限った傾向ではないように思います。
そういう時代…で片付ける気はナイですけど。
私の周囲に居るコドモたちは、
「これ、面白いよ」とオススメすると、
まだ、かつての作品を素直に読みますよ。
コドモたちの感性は、元気です。
きっと、モンダンは、大人側だと^^;)

ユキ

2014/05/30 URL 編集返信

No title
はじめまして。

この本は未読ですが、興味がありますので近々探して読んでみたいと思いました。
読み手と作り手を俯瞰的に読める
ひこ・田中さんの「ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?」
との読み比べをしてみたいものです。

わたしは本ブログをFC2でやっていまして
ひこさんの本のご紹介記事もあります。
ヘッポコな記事ですが、もしご興味おありでしたら↓へどうぞ。
http://honwagohan.blog19.fc2.com/blog-entry-1531.html

しろまち

2014/05/31 URL 編集返信

No title
ユキさん、私も読書好きのたくさんの生徒たちと日常的に触れ合っていて、彼らの感性への信頼は全く薄れていません。
大人が勝手に「児童文学は終わり」なんて言っているようでは、彼らに失礼ですよね。でも、挿絵や体裁、翻訳の文体を含めて、かつての名作が手に取られにくくなっていることも事実です。手渡す側、売る側の配慮が大切だと思います。

yositaka

2014/05/31 URL 編集返信

No title
しろまちさん、コメントありがとうございます。
ひこ・田中さんの本とリンクする部分はたしかにありますね。私も、もう一度読んでみたくなりました。
ブログ記事も、読ませていただきす。これからもよろしく。

yositaka

2014/05/31 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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