ひらめきはどこから…岡田淳、語る②

岡田淳氏のレクチャー、後半です。
図工の先生としての実践の話や、少年時代の体験など、今回初めて知ったことも多く、
感銘の深い内容になった。
語り口は優しく穏やか。関西風のおかしみもたっぷり交えてのお話だったが、残念ながらネコパパのメモはその語り口のニュアンスをさっぱり伝えていない。

興味を持たれた方は、ぜひ機会を見つけて実際にお聞きになってください。
いや、それよりも、まずは著作によって岡田ワールドを楽しむことが先かな…
では、どうぞ。


僕の作品の多くは、同じ小学校を舞台にしています。
それは、僕が赴任した、実在の学校がまじりあっているのですが…
カメレオンのレオン』に出てくるクスノキも、他の作品にも出ています。本と本とがつながっているという関係づくりを意識的に行っているのです。
いずれ、『ゆうれいねこ』の白猫、『二分間の冒険』の黒猫、それにレオンも、一つの話の中に出てくるような長編を構想しています。


 
さて、物語と現実の距離感ということですが…
さっきの「レイカ」の話に繋げてみます。物語では、なぜレイカはウソをつくのか、という問題には踏み込んでいません。なぜレイカには友達がいないのか、というところにも。
カメレオンのレオンは、言ってみれば「ウソの上塗り」をする役です。正しいかと言われれば、正しくない。
それは、僕が図工の先生だったといことに関係があるのかもしれません。
 
「なぜ…」と、問い詰めて、何かをしようとする姿勢は、図工の先生にはないのです。
「つくる楽しみ」
「なかなかやるな」
「できるところを見る」
そんなやり方で図工をやってきた。
 
あるとき、準備室にいたら、近くの昇降口で大きな音がします。あきらかに靴を靴箱に投げつけている音です。
僕は知らんふりを決め込んで、音がやんだのを見計らってさっと出ていきました。子どもたちは驚いた様子。すかさず「君たち、靴箱をきれいにしてくれようとしたんだね。ありがとう!
と声をかけました。子ども達は「は、はい」としどろもどろに応えて、それはそれはきれいにしてくれました。そのことを他の先生にも伝え、学校の靴箱は、信じられないくらいきれいにそろうようになったのです。
 
演劇クラブで顧問をしていた時、いじめ事件がありました。問題のいじめた子と二人で準備室で話しました。直接事件のことは話さず、将来の話をしました。
「君は今は子どもだから、自分の時間を全部思い通りに使えるわけじゃない。でも、いずれはすべて自分で使えるようになる。そのときになって後悔するようなことはするべきじゃない」
そんな話でした。
 
図工準備室の窓から』で紹介したように、僕はどの学校でも、準備室を「面白い部屋」にしようとしてきました。



その原点にあるのは『ドリトル先生航海記』の一場面、トミー・スタビンス少年が初めてドリトル先生に出会う場面です。
僕が子どものころ読んだその本の、その場面には挿絵がありませんでした。
不思議な、楽しいものがいっぱいあって、机には肉汁の舌たるおいしそうな料理が乗っている…そんな場面をイメージしていました。長い物語でしたが、ストーリー自体は忘れてしまって、ただその場面だけが記憶に残っていたのです。
ドリトル先生の部屋、それは、僕にとって「人生は信じられる」「人生はやっていける」ということを教えてくれた場所です。


 
「好きだというだけで、本は自分の味方」
この話は、講演を依頼されるといつも話します。でも、話しているうちに、思いは重なり、話す内容が増えるのです。
子ども時代の僕は、世の中というものが不安だった。
僕の家は破産して、一家で夜逃げをしたという体験をしています。
スタビンズ少年もまた、貧しい靴屋の子で、ふつうならそのまま靴屋になるはずが、ドリトル先生と偶然出会ったことで、学問の世界に引き入れられる…僕の中の何かが、物語に共鳴したのでしょう。
何かが好きになるには、理由があります。
では、世の中に不信や不安を持った子は、だれもがこの場面に惹きつけられるのか?それは違います。
 
いつか父と近くの商店街を歩いていた時、「地の塩」と書かれた木箱を見つけました。宗教団体が行っている自主的な募金を入れる箱です。
「あんなところに置きっぱなしで、悪い人が持って行けへん?
と、父に尋ねると、彼は言いました。
「世の中、悪い人ばっかりじゃない」
その父は、だまされて破産している。
母も、愚痴を言わない楽天家でした。そういう両親と毎日暮らすなかで、僕の中には「人を肯定するイメージ」が育っていったのだと思います。
 
そいうい心の用意があったから、その場面は僕に生きた。
僕たちの毎日に大切なのは物語ではなく、現実の日常です。ですが日常というものはあまりにも雑多すぎる。嫌なところもたくさんある。でも、本の中のドリトル先生にはそういうところはありません。本の人物の素晴らしさは、余分なものをそぎ落とした「象徴」としてあらわれてくるからです。
本はだから重要、人生の大事なことを、きちんとした姿に変えて見せてくれるものだからです。
僕は図工準備室をそんな場所にしようとしていたのかもしれません。
 
絵本『ヤマダさんの庭』は
定年退職する4か月前に見た、僕の夢です。



いとうひろしの『ラウルさんの庭』という絵本を読んだばかりだったから…
夢から出てくる「ひらめき」は努力しないで出てきたものですから楽ですが、本にできかとなると話は別です。
「一つの世界」になりうると思えるような「大切な一瞬」が、今回はありました。
そういう世界はどこから出てくるのか。
ヒュー・ロフティングがあの場面を書いたのは、「素敵な場面」を書こうと思っただけでしょう。僕もそうです。
そういう人生の種になるような場面を生み出したいな、と思って、毎日物語を書いているのです。

「ひらめき」が
どこからくるのか、わからない。
でも「ひらめき」を支えるものはわかります。
それは「肯定感」です。やれるぞ、と思うことです。
 
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コメント

コメント(2)
No title
今、子どもたちを見ていて、ひらめきあらばこそ次の「やってみよう」という、言わば自己肯定感ですか、どうやったら心に火をつけることができるか、チャンスを窺っているところです。毎日スマホばかり見ている彼らに。sige

toy**ero

2014/01/31 URL 編集返信

No title
子どもたちに、意図して肯定感の灯を灯すのは並大抵ではありません。60年代、日本の児童文学は「希望としての子ども」を、70年代は「原点としての子ども」を描き、ひとつの盛期を迎えました。しかしそこには大人として、次世代に希望を託す姿勢、理想化された子ども像に寄り掛かる姿勢が見え隠れし、80年代以降の混迷期を乗り越える力にはならなかった気がします。ところが岡田さんの作品はそんな30年間を、絶妙なバランス感覚で縦断し、いまも堂々と「児童文学」として成立している。なぜでしょう。今回のお話には、その秘密を解き明かす手がかりがあるような気がします。

yositaka

2014/01/31 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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