「聞くことのコップ」を満たす物語

私には、あるイメージがある。子どもたちの体の中には、「聞くことのコップ」とでもいうべきものがあるのではないか。読んであげる「声」が、そのコップにそそがれ、やがて、それを満たしたとき、ようやく、子どもは、自立した読者になる…
 
『日本児童文学』2013.3-4』は、「子どもが読むはじめての文学」=幼年文学を特集している。



引用は宮川健郎の評論『「声」をもとめて―子どもが読むはじめての文学、その現在―』から。

注目すべき内容である。
 
編集部の提示した「幼年文学=子どもが自分で手に取って読む文学」という定義づけにまず宮川は疑問を述べる。
「まず、読んでもらう本なのではないか」
学齢期前後の子どもたちは「声の文化」を生きている。
「声の文化」と「文字の文化」は別のもので、どちらが優位ということはない。ではなぜ、後者にこだわるのか…
 
以前ネコパパも記事で触れたように、


宮川健郎は現代児童文学成立のおおきな要因として「声の別れ」を挙げている。
「声」と別れた佐藤暁以降の現代児童文学は、黙読される書き言葉として緻密化し、一般文学に接近した、という主張である。
戦争を経て児童文学は「戦争の悲惨」を、そして戦争を引き起こすこともある「社会」を描くようになった。「性」や「死」、「家庭崩壊」…「タブーの崩壊」は進行していった。
しかし。
 
…行くところまで行ってしまった現代児童文学は、音読する「声」をとりもどさなければならないのではないか。いま、子どもたちの「聞くコップ」を満たすことのできる物語はあるのか。
 
本論での新たな提言はこれである。
それにこたえるとびきり楽しい作品として例示されるのは
 
石井睦美『すみれちゃん』
竹下文子『ひらけ!なんきんまめ』
市川宣子『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは…』



中でも三つ目の市川作品には興味をひかれる。
ストーリーは毎晩遅く帰る父が息子に語る愉しい「いいわけ」…らしい。
 
宮川さん曰く…
 
私は、言訳こそ物語の起源ではないかとも考えている。言訳は、当然、虚構性を帯びてくる。「ほら話」へと発展していくのだ。
 
いや、言いますね…確かにそれなら、世の中に物語の種は永遠に尽きないわけだ…
 
さて、論は「声」をとりもどす楽しさを述べるだけで終わらない。
つづいて引用されるのは石井直人の言葉。
読書は二種類ある。「他人と共有する読書」と「私有する読書」である。…「後者こそが私を自立させる、あるいは私を孤独にする」
聴く読書よりも読む読書のほうが身になる、あるいは成長に資する…と考えれば、なるほど、常識としてなじみやすい考え方だろう。
だが筆者は、これにも「そうだろうか」と疑問を投げかけている。
 
「聞くことのコップ」を声で一杯にする読書は、石井直人のいう…前者にあたる。
だが、それらの作品の中にも「私有する読書」に劣らぬ文学の可能性を開拓したものが存在する。
 
「孤独」を抱え込んだもの。
長崎夏海『星のふるよる』



 

ナンセンスの手法で「成長」という枠組みからの「自由」を獲得したもの。
村上しいこ『図書室の日曜日』

内田鱗太郎『ぶたのぶたじろうさん』
 
そして「命」という原理を語る「童話」。
いとうひろし『おさるのかわ』



 
ここでは「童話」という言葉を、「原理を語るもの」という定義で使っていることに注目したい。

新美南吉浜田廣介のような「近代童話」は、原理というより「感情の原型」に傾きがちだった、という感想を踏まえての定義であり、宮川は現代の優れた「童話」は、かつての近代童話がもっていた「可能性の最大値」に近づいたのではないか、と考えているのである。

「童話」という概念の再定義がここから始まるのかもしれない。
児童文学という分野の持つ閉塞感を打ち破るエネルギーを感じる提言だ。

 
ところで、ここで次々に示された作品は、未読の作品ばかりだった。
これにはネコパパ、ちょっとがっくりしている。

しっかりと維持しているつもりだった児童文学への関心が、実は相当偏っていて…自分が読みたいものに偏向している現状を、思い知らされた。
 
初孫も生まれたことだし、
この機会にネコパパも「聞くことのコップ」を満たす作品を探す冒険に旅立たなくては…
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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