児童文学の錐の尖端-鳥越 信氏逝去

児童文学者の鳥越信氏ががなくなった。
朝日新聞に出た死亡記事は小さなものだった。児童文学に関心のある人にとっては、その実績の大きさに比して、寂しい扱いと感じるだろう。
この分野が「だれも知らない小さな国」なのは相変わらずだ。

 
児童文学者の鳥越信さん死去
20132151111
 
鳥越信さん(とりごえ・しん=児童文学者)が14日、老衰で死去、83歳。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男恭(きょう)さん。
 
神戸市生まれで、早稲田大教授、聖和大大学院教授を歴任。「日本児童文学史年表」で日本児童文学者協会賞を受賞。蔵書など約12万点を大阪府立国際児童文学館(同府吹田市)に寄贈したが、同館が橋下徹知事(当時)の府立施設見直しで2009年に閉館されたため、府立中央図書館(同府東大阪市)に移された寄贈資料の返還を求める訴えをほかの寄贈者らと大阪地裁に起こした。



 
ウィキペディアに掲載されている氏の実績も引用。
 
旧制姫路高等学校から1950年早稲田大学国文科に編入、早大童話会に参加しつつ在籍中に、小川未明、濱田広介らの童話を、未来への展望がない形式だとして批判し、古田足日らとともに「少年文学宣言」を起草、1954925日発表。童話会を早稲田大学少年文学会に改称した。
詳細は「早大童話会」を参照
1953年卒業後は岩波書店編集部に勤務しながら児童文学の研究に努め、1957年退社後、東京学芸大学非常勤講師、1960年早稲田大学教育学部講師、1966年助教授、のち教授。この間、1976年、『日本児童文学史研究』で日本児童文学学会賞、日本児童文学者協会賞受賞、1982年、赤い鳥文学賞特別賞、日本児童文学学会賞受賞。
1978年早大を退職後、「鳥越コレクション」と呼ばれた約12万冊の児童書・研究書を大阪府に寄贈した。これらをもとに、大阪府立国際児童文学館が開館し、鳥越はその総括専門員となった。その後、聖和大学大学院教授を務めた。聖和大学を定年退職後、中京女子大学子ども文化研究所客員教授を務めた。1993年、国際グリム賞受賞。
古今東西の児童文学に通じ、書誌的研究や児童文学史に業績がある。初期には自ら創作もした。
1960年代から1970年代、翻訳児童文学のリライト、ダイジェストを非難して完訳主義を提唱し、そのため岩崎書店などの抄訳ものが衰退し、岩波書店、福音館書店の完訳ものが生き残った。また永井豪『ハレンチ学園』などのマンガと、これを擁護する阿部進を批判した。近年、宮崎芳彦は『ネバーランド』(てらいんく)で、鳥越を共産党員と断定し、批判を展開していた。
2009年には、大阪府が国際児童文学館を経費節減のため中央図書館に移転させる決定を行ったことに対して、橋下徹知事を相手に寄贈図書返却と文学館長としての収入の確保についての争議を起こし、同年3月に一部の寄贈図書の返還を求め、提訴すると表明した。同年226日、これに対して知事が全資料の返還に応じる発言をすると、鳥越は会見を開き「単に戻せというのではない。予算は凍結し、資料が生かされる道を原点にもどって考えようと言いたい」と述べた。
2013214日、老衰のため死去。83歳没。
「九条の会」傘下の「子どもの本・九条の会」代表団員を務めていた。

 
かつて一度だけ、大阪国際児童文学館を訪れたことがある。主任研究員だった北欧児童文学の研究者、高橋静男氏とお話をし、館内を案内していただいた。
書庫の一角にソファが置いてある。窓際にあって、明るい光が差し込んでいる。
「鳥越先生は、毎日ここにこられて、あのソファに座り、本を読みふけっておられるんです。でも、今日はまだ来られていないみたいですね…」
思いがけず児童文学研究の第一人者にお会いできるのか、と喜んだネコパパだったが、結局その日お会いすることはできなかった。
それきりになった。
 
鳥越氏が「児童文学の京都学派」と呼んだこともある今江祥智、上野瞭両氏の著作を読んだことがきっかけとなり、高校生だったネコパパは「児童文学」という分野に関心を高めた。
その関心から、日本児童文学者協会機関誌『日本児童文学』のバックナンバーにも目を通した。
現代児童文学の拠点のひとつに早大童話会があり、
主要メンバーだった鳥越信、古田足日、神宮輝夫の三人による「少年文学の旗の下に(少年文学宣言)」が、戦後の日本の児童文学の進むべき指針を示したとされていることも知った。
 
「大阪国際児童文学館を育てる会」会報99号(2010.3.12)に、神宮輝夫氏へのインタビュー記事が掲載されている。聴き手は畠山兆子氏。
「少年文学宣言」発表当時の証言がなされているので、引用したい。

 
早大童話会に入りましたのは、私は鳥越さんより一年早くて、私が大学二年生の時に彼が入ってきたのかな。そして彼が入ってきたことで、会はがらりと性格が変わったんですね。それ以前は創作中心の会で、機関誌「童苑」に作品を載せたりしていました。ところが鳥越さんがきたところで思想が入ったというのか、あるいは児童文学がおかれている状況に対する認識が変わったというのか、そういう驚きでした。
それまでは例えば、小川未明がいいとか坪田譲治がいいとか、みんなで書きたい方向を見定めながら作品を書いていって、そしてみんなの前で朗読するんですね。それを聞いていて、先輩から後輩から自由に批評するわけです。…そこで文体が変わり文章が洗練されるね。それが童話会がもともと持っていたものだったと思うんです。
しかしそれは、一人一人が自分の童話観をもって書くことですから、ある意味個人の営みの集合だったわけです。鳥越さんがきたなかで、結局子どもの文学には基本的な思想がなければならない、各モチーフがはっきりとした方向性がなければいけない、それは時代にあったものでなければいけない、というようなことを彼は強く主張して、私たちは目から鱗で「ああそうなんだ」ということですね。…それ以後、一つの作品を書く場合には、自分のモチーフというのはなんなのか、何をテーマに語ろうとしているのか、そういうことをみんな考えていくようになりました。それは一番大きいことでしたね。
…そもそも童話作家になりたいなとは思っていましたが、同級の山中恒さんが書くものは、大学一年あたりから構成があって実に見事な物語になっているんですね。そういう人が傍らにいましたからかなわないんですね。…鳥越さんは非常に優れた組織者でしたね。彼は評論をやって、山中さんは創作をすることになっていました。僕も創作をするつもりだったんですが、鳥越さんは、これから一番必要なのは外国文学に対する知識なんだから、お前は英文科だから英米の児童文学を研究しろと割り当てたわけなんですよ。
…卒業して大学院にいたとき、鳥越さんは岩波書店にアルバイトで少年文庫の編集をしていました。当時、出版社は創作でも翻訳でも新しいライターを求めていたわけです。「お前ランサムの本を持っているんだったら訳したらどうか」って言ってくれたんです。そういう意味ではあの人は、私の翻訳の大恩人ですよ。
あの人は錐の尖端みたいな人で、
私は要するに一緒にくっついてきたんですよ。
そういうふうにきちんと組織して新しい文学を作るためのプログラムが彼にはあったんですね。

 
児童文学をめぐる1950年代の状況が、手に取るように伝わる証言だ。
あの時代、戦後児童文学の骨格作りの中心に鳥越信はいた。
彼の構想した「子どもの文学の基本的な思想」は
 
子どもの論理
変革への意思
 
という二つのキーワードで受け継がれていき、1970年代まで、作品を評価する有力な物差しとなった。



 
神宮輝夫、古田足日、山中恒の三氏は、その後も鳥越氏の示した道を歩み続けた。
しかし1980年代以降、鳥越氏自身は、評論活動から、国際児童文学館の管理運営と並行した書誌文献研究に軸足を移していく。
それは、彼の提示した「基本的な思想」が既に過去のものとなったことを暗示しているのだろうか。
それとも…
今後の検証が必要だろう。
 
2008年、大阪国際児童文学館の閉館問題は、彼の論客魂を再び燃え上がらせた。
しかし…残念ながら、残された時間は少なかった。
 
戦後児童文学の隆盛は、良い点、悪い点も含め、彼の示した方向性によるものが大きいことは確かだろう。
しかし「時代に合ったモチーフの探求」「新しい文学を作るためのプログラム作り」は、私たちに引き継がれた課題である。
 
ご冥福をお祈りします。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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