学会報告④ファンタジーの死滅?

「批評性」と「文学性」の狭間で小沢正「ファンタジーの死滅」『目をさませトラゴロウ』における「ファンタジー」の問題
井上乃武
 
<発表要旨より>
小沢正「ファンタジーの死滅」(1966)は、「子ども」「ファンタジー」が、近代あるいは近代が生み出した諸制度によって規定されていることを明らかにした評論と考えられている。ファンタジーが現実に「悪漢を追いえない」子どもの現実的な状況から生み出されるとともに、この現実的な状況から子どもたちの目を閉ざしている、という彼の主張の背景には、戦後日本児童文学に大きな影響を与えた『子どもと文学』(1960)に対する批判が存在している。「ファンタジーの死滅」における「批評」と[創造]の在り方を見ていくとともに、この議論が、同時代の、あるいは異なる時期のテクストとどう重ね合わせられるのかについても考えていきたい。


 
小沢正は『目をさませトラゴロウ』の作者で、60年代の注目すべき作家のひとりである。
この『トラゴロウ』という作品、もしお読みでなかったら…お勧めです。
社会に対する鋭い皮肉と、個人のアイデンテイティの確立、という「大人好み」のテーマを潜ませつつ、
「こりゃまいった」と読者を唸らせる「面白い物語」として成立している。
時代を超えて読み継がれる、神業的な作品だと考える。




山のたけやぶに、とらがすんでいた。なまえはトラノ・トラゴロウといった。
山の発明家である、きつねが、たるのかたちをした、1つのものを2つにする機械をつくった。
さるは、りんごを、うさぎは、にんじんを2つにふやしてもらうが、トラゴロウには、2つにしてもらうものがない。そこで、自分を2つにしてもらおうと思う。そうすれば、1ぴきが竹やぶで昼寝をしているあいだに、もう1ぴきが肉まんじゅうをさがすことができるというわけだ。
トラゴロウは、無事2ひきになる。けれど、2ひきは、それぞれ、自分がほんとうのトラゴロウだと主張して、たちまち大げんかになる。…(第1話「一つが二つ」)



発表者の井上さんは、これを15分の発表時間で?と思うほどの、膨大なレジュメを携えて登壇。
発表は4つの柱建てで行われた。

 
・『ファンタジーの死滅』の内容
・『ファンタジーの死滅』の問題
・『目をさませトラゴロウ』の問題
・ファンタジー児童文学をめぐる問題


予想通り、時間オーバー。でも、興味津々の内容だった。

 
『ファンタジーの死滅』という評論で小沢正が主張しているのは、こんなことらしい。

子どもとは、学校に代表される独自空間に閉じ込められた存在で、ファンタジーは現実に「悪漢を追いえない」(リアル世界で冒険ができない)子どもへの「貸与物」であるに過ぎない。
児童文学の重要なジャンルとして、この「ファンタジー」というジャンルを重視し、今後の日本の子どもの本の救世主とばかりに、普及に努めようとした評論集が『子どもの文学(1960年、石井桃子、いぬいとみこらによる、当時を代表する児童文学啓発の書)である。



小沢は、石井桃子らの主張は、本来そのような「企み」を持った作品から「貸与物としての痕跡」を消し去ろうとする行為(陰謀)ではないか、と「批判」した…ということのようだ。


「今や僕たちにとって子どもたちの目を、悪漢を追い越しえないこの現実的な状況に向かって開かせるべき時が来ている」
「僕たちは何よりも<そらとぶジュータン><バターになったトラ>自身にに自らのファンタジー性を告白させるための方法を考えなければならないのだ」


かくて、小沢の語る物語はファンタジーでありながら、登場人物にその虚偽性を告白させることで(メタテクスト性)作品世界の内部崩壊を意図的に誘い、読者である子どもたちはそれを読むことで「ほんとうの現実に目覚める」というわけ…らしい。
そうした『ファンタジーの死滅』こそが、小沢ののぞむところ…
こんな理解でいいのだろうか。
 
井上さんは、小沢のこうした主張、もしくは仮説が、
『目をさませトラゴロウ』をはじめとする作品にどのように生かされ、
あるいは生かし切れなかったのかを、検証しようと試みる。
その対照的な位置にある作品として、いぬいとみこ木かげの家の小人たち』(1959)を置き、『子どもと文学』の主張が生み出した「徹底して受動的な人物像」との対比を試みる。

 
短い発表時間では到底収まりきれない構想の研究だ。
現代児童文学の中でも「ファンタジーの成立と変遷」という分野は、ネコパパにとっても関心の関心事。
井上さんのチャレンジには、正直「血沸き肉躍る」思いを感じた。

 
ただ…私見を述べるなら、小沢正はすぐれた作家ではあったが、「業界」に論陣をはり、論争を仕掛けていくにはあまりに「ストーリー・テーラー」に過ぎたのではないか…という思いがある。
この『トラゴロウ』のナンセンス、あるいはアンチ・ファンタジー的な面白みは、
はたして上記のような、当時盛んに言われていたような「社会変革の論理」や、「そのための戦略」として生まれたものなのだろうか?


現在出版されている小沢正の著作は、かなりの数だ。でも、それはすべて創作、もしくは翻訳で、神宮輝夫との対談集を除き、評論と呼べるものは一冊もない。
だからこそ、こうしたエッセイに着目することは大切かもしれないのだけれど
生涯を「いち物語作家」として貫いた人。そういう観点からすれば、
この『ファンタジーの死滅』も…ネコパパには一種の「反評論の物語」のように、思えてくる。


関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(0)
コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR