うさぎの時間はよい時間

児童文学作家 岡野薫子講演会を聞く。
 
201287日 新城文化会館
演題は『創作の原点は子ども時代に
 
おかの・かおるこ 1929年、東京生まれ。
1945年、財団法人調布高等女学校(現・田園調布学園)卒業。戦時中を両親の郷里藤枝にて過す。1948年、官立東京農業教育専門学校附設女子部卒業。科学雑誌の編集、科学映画脚本家を経て、作家となる。『銀色ラッコのなみだ』(実業之日本社)でサンケイ児童出版文化賞・NHK児童文学奨励賞・動物愛護協会賞、『ヤマネコのきょうだい』(実業之日本社)で野間児童文芸推奨賞、『ミドリがひろったふしぎなかさ』(童心社)で講談社出版文化賞(絵本部門)を受賞。
他の著書に童話『森のネズミ』シリーズ、『うさぎのお店やさん』シリーズ(以上、ポプラ社)、『太平洋戦争下の学校生活』(平凡社ライブラリー)などがある。
現在、東京と黒姫の仕事場を往き来するなかで創作活動を続けている。自著の挿画なども手がける一方、定期的に銀座・鳩居堂画廊にて絵画個展を開催。
草思社ホームページ 著者紹介より
 

 
砂時計』『銀色ラッコのなみだ』で1960年代、颯爽と登場した動物文学の旗手は、80歳を超えてなお現役だった。
背の曲がった小さい体躯でステージに上がってこられたときは、さすがに…と感じたものだが、お話が始まってみると、今も若々しい知の輝き、孤高の作家を思わせる風格にすっかり魅せられた。
といっても、ネコパパは彼女の熱心な読者ではない。
児童文学愛好家と称しながらも、動物文学・リアリズム小説の分野には随分と抜けがある。いまだ、勉強中なのである。
 
それでは…メモを頼りに、講演の概要を報告したい。
 
 
講演の前に2002年製作の映像作品『岡野薫子の作品世界──文と絵と──』の前半が上映された。
生い立ちから『銀色ラッコのなみだ』出版までの半生を描いたものである。
 
子どもの時代は誰もが通ってきた道です。多くの名作が子ども時代に題材をとって書かれてきました。有島武郎山川方夫、重松清
黒澤明の『』という映画にも、子ども時代の話が出てきます。お祭りのようなお葬式のシーンです。
 
父が30歳で亡くなったとき、私は小学3年生。それまではとても幸せな日々でした。そのことが自分の支えとなり、陽気に生きてこられました。
父は器用で、電気蓄音機を自作し、マンドリンを演奏しました。洋風の生活にあこがれ、お洒落でした。
母は父とは対照的に和風を崩さない人。
父が亡くなると、私が岡野家の戸主となりました。母と二人の生活がさびしく、二人で映画を見ました。大人向きの映画もたくさん。一日おきくらいに映画館に通ったのです。
その記憶は、頭の中に映像として記録されました。
 
子どものころの思い出は、心に深く刻まれます。それは縦糸の時間で流れていく人生に、横糸の時間となって彩を添えていくのです。オーソン・ウェルスの映画『市民ケーン』に出てくる謎の言葉「薔薇のつぼみ」のようにね。
第1短編集『砂時計』にも、私のそんな思い出が詰まっていました。
 
いい思い出は割合はやく忘れますが、失敗や心にぐさりと突き刺さるようなそれは、いつまでも覚えているもの。
母は私の顔を醜いといった。それで私は容姿コンプレックスになりました。
イーデス・ハンソンという人も、同じような話をしていましたね。
でもそれは、自分を生かすばねにもなっていくと思います。
 
ふるさとというと、田舎を思います。私のような東京育ちには、ふるさとが無いかのように思われがちです。でも昭和の始めころまでは、東京にも田舎はありました。
路地裏に縁日。
そこにはたくさんの郷愁があります。
女学校では寮生活でした。故郷の人で作る県人会があったのですが、東京の県人会はないのです。
だから、東京人は孤独。でもそれはどこにでもいける自由があるということでもありました。
縁日で出会う小さな生き物。
ハッカ水に綿菓子。海ほうずき。
そこから、非日常の空間が生まれてきます。
薄暗い路地裏からは、少し怖い空間が。
 
私は動物好きでしたが、母はそうではありませんでした。
それで自然に、小さな生き物に目が行くようになります。
昆虫の姿や生態を自分の目で観察し、記録することに熱中しました。
そんなことが一つのきっかけとなって、科学映画や教材映画のシナリオ作りや製作を仕事にしていくことになります。
今の子どもたちは疑似体験ですべてが見えてしまう。
パソコンを上手に操る子どもたちは魔法使いのようです。
でも、すべてが見えるところからは、「不思議」はなかなか生まれてこない…
 
桃花片』は、映画製作から創作に移り変わる時期、日記帳の中に書いていたものです。
映画づくりは創作の助けにもなりました。『銀色ラッコのなみだ』はカットバックの手法を用いたものです。狩人の少年ピラーラと狩られる側の銀色ラッコ、 二つの視点が交互に物語をすすめていきます。
 

 
創作に軸足を移したとき、私は童話の大御所だった坪田譲二先生に作品を見てもらうようになりました。
はじめは壷井栄のような、しばらく後には有吉佐和子のような作家になりなさい、と言われたりしました。
先生は作家という生き方にはひとつのスタイルがあると考え、世の中への出ていき方とか、作家らしいファッションに至るまで、いろいろとこだわる人でした。
私はそんな師にわずらわしさを感じるようになり、やがて離れることになります。
 
『銀色ラッコのなみだ』は、売れました。
そのお金で黒姫山に三百坪の土地を購入。山荘の生活に入ります。多くの作品が生まれました。
山荘には、いろいろな動物がやってきました。熊、姫ねずみ、ムササビ。
スケッチをするうちに、絵筆も取るようになりました。そこから習い始めて水彩、油彩、スクラッチと技法も広げました。
『銀色ラッコのなみだ』の講談社文庫版は、初めて挿絵にスクラッチを使用したものです。
見る目を養うために、骨董的な人形なども購入。収入の大半を費やして、良いモチーフを入手しようとしたのです。
 
あぶを追い払いながらの山でのスケッチ。
山荘に住み着き冬ごもりするアナグマや姫ねずみ。
雪に埋もれ、眠った木々が、春先の地熱で跳ね起きる瞬間。
とびこんでくる蝙蝠やモモンガ。
たくさんのお話をもらって、『森のネズミのおひっこし』に始まる28冊のシリーズが生まれました。
 

 
 
 
80歳を過ぎると世の中が見えてきます。怒ったり、憂いたりするのは、まだ若い。
どうしようもないことは、あきらめるようになりました。でも、物書きに向いていると思うのは、なんでも話になると思えることです。
 
絵を描きすぎて家に入らない。東京に家を借りて置き場にしたのですが、庭の手入れもできず、雑草園に。するとポピーとカラスノエンドウの勢力争いが始まります。次はドクダミ。
『夢の庭』というタイトルが生まれ、物語が動き始めます。
庭で大きなアリと小さなアリが争っている。噛まれると痛そうだ。観察していると、時が昔に帰っていくような気がしてきます。
 
アイデアはいくらでも出てくる。
でも、書く仕事は億劫になってくる。読書も苦しくなってくる。読まなくても読書はできます。背表紙だけを見ていても、読んだ気持ちになっていきます。
画廊に行きます。自分の絵がそこになくても、みんな自分の絵に見えてきます。
 
年をとってから書くことで、ふくらみが生まれてくる気がします。
えみちゃんとくまおばさん
えみちゃんはぬいぐるみのくまを持っています。昼間はえみちゃんが熊野お母さん役。でも夜になると、今度はくまがお母さんになります。
近所に、いつもぬいぐるみを二匹持ったおばあさんがいるんです。幸せな毎日なんだな。お年寄りたちを見ると、よく生きているなあ、と思います。年をとると、生きることは大変なのよ。
私自身は、ここまで「孤独な魂」で生きてきました。書けるうちは書きたい。そうすることで人の役に立つことをしていきたいなあと思っています。なあに、子ども時代に戻れば、すぐに書けます。
中勘助も、レフ・トルストイもそうだったように。人の一生も自然の摂理。うまく出来ています。前を向いて、何も考えずに走っている世代もあれば、引き継ぐ世代もある。
うさぎのおみせやさんシリーズ』は
うさぎ村という理想郷を作る試みでした。
 
うさぎのじかんはよいじかん
いつものびたりちぢんだり…
 

 
12冊シリーズだったのですが、10冊で中断して、完結までいきませんでした。
最後は一人の旅人が、うさぎ村をトランクに入れて運び去る…そんなエンディングを考えていたのです。
 
学校も、一つの理想郷じゃありませんか。
そう思うと、皆さんがうらやましいと思います。
ちょっと見方を帰ることで、ファンタジーはいくつも生まれてきます。
洗って、ハンカチの模様が消えたことだって
コップが割れたことだって…自由になって、どこかに行ったんだ、と見ることが出来るじゃないですか。
まだまだ。私自身も知らない、いろいろなやり方があるはずなんです
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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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