ほとばしるもの せきとめるもの

2012/ 07/ 11
                 
ぼくのこえがきこえますか
 

 
田島征三
2012/6/20
童心社
1650円
 
 
理不尽な戦争に駆り出され、命を失った少年が
心の目で家族や兄弟、人々の悲しみ
怒り
憎しみ
空しさを見つめ
「ひとがひとをころす」
戦争の悲惨を訴えようとする。
 
見開き画面いっぱいに描かれた、少年に襲いかかる真っ黒な砲弾。
兄につづいて戦争に行った弟が死ぬ場面では
大きな血の色の奔流の上で倒れていく弟の姿がちいさく描かれている。
二人の子を失った母親の姿を描いた画面では
涙の湖に沈んだかのように空色の背景の中に沈み
悲しみのなかに肉体を失い 骨だけになって解けていくような抽象化された母の姿が描かれる。
田島さんの命のエネルギーが、絵筆を通してほとばしる。
抽象化されているのに
いや抽象化されているからこそ
作品のテーマが普遍的なものとして浮かび上がってくる。
 
確かにこれは、田島征三だけに可能な、絵本表現のひとつの極北。
 
ところが、どういうわけだろう。
感覚の鈍くなったネコパパには
田島さんが講演の最後に朗読された『しばてん』が、今も持ち続け、噴出ざせ続けている痛切な喚起力が、本作では、何かにせき止められたように溢れ出してこない、
そんなもどかしさを感じて仕方がなかったのだ。
 
せき止めているのは、絵ではなく「言葉」、テクストかもしれない。
 
 
「くにのためにたたえ」とはげまされて、
ぼくは せんそうに いった。
 
 
作品の視点は「ぼく」ではじまっている。読者は自然に「ぼく」に入り込み、体験を、死を、さらに死後を、共にすることになるだろう。
 
ところが、視点はいつのまにか転換している。
 
 
ぼくたちの すがたは だれにも みえないけれど
あなたに つたえたい
ひとが ひとを ころす せんそうの こと。…
 
 
「ぼく」と一体になって物語を生きていた読者は、ふと気づくと、自分ではない「ぼくたち」に置き去りにされ、「あなた」として突き放されている。
読者はここで他者として「ぼくたち」の伝える「こえ」を聞く「聞き手」にならなければならない。
 
最後に語りはふたたび「ぼく」に戻る。
でも、一度切り離された同化の感覚は、再び読者に戻ってくることがないだろう…。
 
 
日・中・韓 平和絵本」と銘打たれた企画絵本であることが、本作にこうしたテキスト、こうした構成を選択させた。おそらく、そういうことだろう。
『しばてん』の、人間世界を突き放したような非情さ、研ぎ澄まされたクールな鋭さは本作のテクストでは慎重に回避され、企画に即した、明瞭な「メッセージ」を打ち出すものとなっている。 
でも、そのことが、もしかして絵本の持つ喚起力をせき止めているとすれば…
 
そこには、読者の出番がある。
 
読むという行為は、村中李衣によれば「ものがたりの中に潜む閉ざされた扉を押し開けようとするエネルギー」を持つものという。
本作は「読まれることによって完成する」作品なのかもしれない。
 
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