アトミック・インディふたたび


8月号の「キネマ旬報」で、以前記事にした『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』における核実験の扱いについて興味深い批評が掲載されていた。

「大高宏雄のファイトシネクラブ」という連載コラムで、該当号のタイトルは「インディー・ジョーンズと核爆発」である。
以下、部分引用。


…本作を語る上で避けて通れない問題がある。前半部分で、米ネバダ州の軍事施設内で核爆発が起こる。明らかに被爆したジョーンズだったが、彼はまったく無傷であった。ふつうの人であれば、このあたりで大いなる違和感を持つ。つまり、核(爆発)の扱いが、いくらなんでもイージーに過ぎるのではという当然の考えである。
 早速、本誌のREVEIWで、寺脇研が大きな憤りを持って批判の刃を振り下ろした。要するに娯楽映画のダシとして、核(爆発)が安易に使われていることに対する批判だった。こうした視点から、本作に対する意見を述べる人がいたことで、私は正直ホッとした。私も前出のシーンが、その後繰り広げられるアクション描写を見ている間中、頭にこびりついて離れなかったからだ。
 結論から言おう。私は寺脇のようには、本作における核(爆発)の扱いを批判する気にはなれなかった。少々回りくどいい方になるが、こう指摘できるのではないか。スピルバーグは核(爆発)さえ、ジョーンズの永久不死身体、究極の危機脱出男としての超人ぶりの前で、決して“差別”することはなかったのだと。つまりジョーンズは、地球上のありとあらゆる危機を回避できる超人伝説を有する男であり、その前では核(爆発)さえ例外ではなかったのである。
 さて、これからが真の問題である。人類史上最も邪悪な兵器であり、わが日本の同胞がかつて甚大な被害を被った核(爆発)の存在を、“差別しない”“例外ではない”といって果たして危機を誘発する諸々の他の“道具”等と同一視することができるかどうか。これがなんとも微妙なのである。(中略)今回のケースはだから、作家的な信念から少々勇み足的な描写に踏み出したのだと判断していいのではないか。
(引用了)


このような方向性で批評がされること自体はよいが、
スピルバーグが「究極の危機脱出男」を表現するという作家的信念からあの場面を設定したと考えることには異論がある。
「シンドラーのリスト」の監督をしていることからもわかるように、スピルバーグが戦争や核について勇み足を踏むほど「軽い思想」の持ち主なのかは検討の余地があるのではないか。

むしろ、私が感じるのは、スピルバーグは1950年代という時代の、アメリカ人の行動規範や価値意識に対する
「痛烈な皮肉」をこの作品に織り込みたかったのではないか、ということである。
それはすでに述べたように、映画「アトミックカフェ」やロズウェル事件、先住民へのあからさまな蔑視といったいくつかの要因が
作品の各所に明らかに意図してちりばめられていることから推察される。
ただ問題は、それがわかる人にはわかる、というやり方で行われていることで、
多くの観客に鋭いメッセージとして伝わるほどには至っていない点にあると考える。

娯楽性を優先した上で、という製作方針が崩せないのは当然かもしれないが、
結果からすると問題が多い、パロディやアイロニーとしても喚起力が不足している、と言わざるを得ないのではないか。

むしろ、大高のいうように、私たち日本人は「かつて甚大な被害を被った」者として、本作品の内容について、「核と他の危険な道具との違い」について、積極的に発言していくことが必要ではないだろうか。
そんな声が上がることを、もしかしたらスピルバーグも望んでいるのかもしれない。

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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