死ぬ言葉こそ美しい、か

内田樹街場の読書論』から、もう1題。
 

 
『死ぬ言葉』
 
美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。
私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。
一度死ぬと、もう死ねないからである。
すべての人間的価値を本質的なところで構成するのは「死」である。
「仮死性」というものがあらゆる人間的価値の中心にある。
昨日書いたように、私たちが定型的なことばを嫌うのは、それが「生きていない」からではない。
それが「死なない」からである。
個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。
「世論」は死なない。
個人としての誰が死んでも、「世論」は死なない。
それは「プラスチックの造花」と本質的には変わらない。
だから、世論は私たちに深く、響くようには届かない。
深く、骨の中にまで沁み込むように残るのは「死ぬ言葉」だけである。
 
かつて白川静先生は孔子について司馬遷が作った伝記は虚構であるとして、『孔子伝』にこう書かれたことがある。
「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁)
それについて、私は白川先生を追悼する文集にこう書いた。
「『思想は富貴の身分から生まれるものではない。』
このような断定は万巻の書を読破し、手に入る限りの史料を渉猟すれば口にすることが許されるという種類のものではない。
このような言葉は発話者がその身体を賭して『債務保証』する以外に維持することのできぬものである。
私は白川先生がどのような前半生を過ごされたのか、略歴によってしか知らない。けれども、それが『富貴』とほど遠いものであったことは知っている。さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」(「白川先生から学んだ二三のことがら」)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。
「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」だけが真に発信するに値する言葉であるということを昨日ここに書いた。
それは言い換えれば、「ひととともに生き死にする言葉」だけが語るに値し、聴くに値する言葉だということである。
 
 
①自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉
とは
②ひととともに生き死にする言葉
であって
③その人が語った場合に限って真
…ということだろうか。
 
通常、私たちは「自分が死んでも死なない言葉」をめざそうとしていて、
自分が死んでしまえば一緒に死んでしまう言葉などは言いたくない、と思っているのではないだろうか。
自分にしか言えない言葉とは、自分が死ねば死んでしまう言葉と同義なのだろうか。
 
内田さんは「死」というものに対する概念が私などとは違うらしい。死生観の違いがあるのか。「死」こそ物の価値の源泉、死ぬるからこそ美はある。
そういう考えがあってもいい。惹かれるところもある。
 
たとえばデータよりも古いアナログLPを好んだりする趣味は、
音楽そのものも大切だが磨耗し、年月が刻まれて死に近づきつつあるものに美的価値を見出すという一点で、この死生観に接近している。
 
ただ、それは虚無的方向や死を賭すことを称揚する、あの忌むべきイデオロギーにも近い。
その引っ掛かりがあるためなのか、これは本書で妙に苦く、脳裏に残る一章なのである。
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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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