歩哨的資質

内田樹はフランス現代思想を専門とする哲学者であり、合気道の武道家でもある。
現代思想で鍛えた論理と
身体訓練で鍛えた「理性を超えた」直観力を、
巧みなレトリックを駆使して、繰りだしてくる。そこが他の論客には見られない個性で、読み味は痛快だ。
とくに後者の部分、亡き河合隼雄の「コンステレーション」「共時性」論に通じ合うものがある。


『街場の読書論』



内田 樹
太田出版/2012.4

 
さて、本エッセイ集、400ページを超える分量だが、一気に読んでしまった。
とくに心をひかれたのは、次の章である。
一部を引用したい。

 
『歩哨的資質について』

 

『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
(
・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』 38:3-18)



ヨブはこの問いの前に絶句する。
私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてはほとんど何も知らない。
私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線がある。
「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、手で触れることもできない境界線がある。

高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも「フロントライン」に近づいた感覚がした。
弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
機能的には「かんぬきと戸」なのだ。
髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。
「かんぬきと戸」がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行くことができる。
聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおしとどめる」人のことである。
私たち全員がそのような仕事をしなければならないというわけではない。
けれども、ときどき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検をすることは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。


私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。
私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。
福島の原発事故は「恐るべき力」を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されていなかったことを示した。
そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思っている人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならないという人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。…

 
 
そう、これはまたも「境界線」の話である。
 
内田樹は、このエッセイで「崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、『歩哨』の備給であり、宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのもの」と述べた上で、
 
警察官
司法官
医師
教育者
 
を「歩哨的制度」の例として、挙げる。
いずれも「わからないはずのことが、わかる」という人間の潜在能力を勘定に入れ、
「存在しないもの」とのフロントラインに位置する。
フロントラインとは「存在しないはずのもの」が「存在するもの」にかたちを変える、生成の場である。
「歩哨的資質」を持った人々をいかに見出し、育成し、そのような場に配することができるか。人間社会の命運はそこにかかっている、と、内田は本エッセイで主張している。

 
思えばこれは、児童文学、特にファンタジーに登場する「彼ら」の話ではないか。

 
富安陽子描く「月の目」の持ち主たちも。
シヴォーン・ダウト『ボグ・チャイルト』のファーガスとオーウェインも。
ジェリー・スピネッリ『ひねり屋』のパーマー・ラルーも。
 
いや、思い起こせば
ゲドとテナー。
ライラ。
バスチアン・バルタザール。
エリン。
ネモ船長。
そして作家だけれど、宮沢賢治…
 
みんな「歩哨的資質」を持った者たちではなかったか。
もちろん、資質にはひとりひとり違いがあり、
境界線を行き来できることで、ときには瀬戸際で世界を救う力を持つこともあれば、「外部」にとりこまれて落命したり、生き伸びたとしても最も大切な何かを欠落させてしまう、ことも決して少なくなかった。
「歩哨的資質」の持ち主といえども、決して無傷でその力を発揮できるわけではない。
けれども、「フロントライン」に彼らが身を呈して立つことで、私たちは
 
「高ぶる波」のすぐ近くまで

行くことができたのだ。
彼らが物語に登場する意味も、そして「物語」が世に存在する理由の一つも、おそらくは、そこに存在している。

「歩哨」もまた、世界を読み解くキーワードのひとつなのだ。

ところで…内田さん、ぜひ児童文学も論じてください。
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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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