わずかな不足は引き込む力~続々EMIの名盤

雑誌『レコード芸術12月号がらみでもう1題。
新譜月評の「優秀録音」評を担当している蜂尾昌男の評文にこうある。


 
該当なし
…今月のCDの新録音についてはほぼ90点以上をつけた。特にシフのシューマンやバレンボイムのリストのピアノの音はとても良かった。しかし両方とも私がイメージするピアノの良い録音とは、どうしても若干の乖離があるという感覚は最後までぬぐい切れなかった。簡単に言うと、どうも聞こえすぎるのである。また同じくバレンボイムのリストにおけるオーケストラ、ガーディナーのモーツァルト、ともに良かったが、ここでもやはりほんのわずか聞こえすぎるような気がしてしまった。聞こえないよりは良いだろうと言われそうであるが、わずかな不足は引き込む力という考え方もあるだろう。


 
こういう理由で「該当なし」と決断するとは、蜂尾氏、なかなか大胆だ。
 
わずかな不足は引き込む力
 
その「わずか」をどのようにとらえるかは程度問題だし、人によって違うと思うのだが、このごろ特に感じている「1950年代から60年代はじめ」の頃の録音が持つ「引き込む力」と何かの関係があるのでは、と思えてしまうのだ。蜂尾氏の論評を気をつけて読んでいきたい。


 
続けてつぶやいているEMIグレート・レコーディングス・オブ・ザ・センチュリー・ボックスの中の録音にも、それを感じるものが多い。


 
リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェエラザード』
トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1956年キングズウェイホール録音




 
これだけ表情豊かな、歌にあふれた愉しい演奏だったとは、知らなかった。全編が音楽を聴く喜び。しかも録音が素晴らしい。当時の機材は入力6本、3チャンネルのワンポイント設定だったそうだが、それでこんなにリアルで音楽性豊かな録音となるのだ。しゃれっ気に満ちたヴァイオリンソロも聴きもの。
 
ビゼー 『アルルの女』第1・第2組曲
トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1956年アビー・ロード・スタジオ録音





これも『シェエラザード』と同じころに録音されたもの。アビー・ロードスタジオの特性もあり、音楽の細部が手に取るようにわかる。しかし、以後の同じスタジオでの録音と違ってつやや潤いもあるおと。一節一節に共感に満ちた表情が満ち溢れ、それが嫌味にならなない。
ビーチャムの音源をボックスに多く収録した韓国EMIのスタッフは「きっとあまり聴かれていないだろうけど、こんなにいい演奏なんだよ!」といいたいのかも。
いわゆるオーディオ的なクオリティはともかく、こういうのこそ「わずかな不足は引き込む力」ではないか。
 
ドウォルザーク チェロ協奏曲
ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団1977年 ヘンリー・ウッド・ホール録音




 
77年なら、ずっと音が良くなっていていいはずだが、そうではない。音像薄手でモノクロ的な録音。発売当時、色彩感のあるカラヤンとの共演盤とはずいぶん違っていて驚いた。スラヴァ氏は7回も同曲を録音したが、どの演奏も別々の個性を持っている。ここでは海のように分厚いジュリーニのオーケストラに合わせるように、躍動感を抑え、ゆったりと弾き込んでいる。
 
ダヴィッド・オイストラフ 悪魔のトリル 1956年アビー・ロード・スタジオ録音




 
オイストラフの珍しい小品集。曲が珍しい。最初のタルティーニとそれに続く「月の光」スークの「愛の歌」がのびやかに歌う名演。ところでこのドヒュッシー/レレンス編月の光」チェロ用も同じ編曲に思えるが、ヴァイオリンの節が最初の音を飛ばして2音目から始まるのは、どうにもいただけないと思うのだが…。56年の録音は奏者を眼前に聴くようだ。
 
では、もっと古いものを

カザルス(Vc)ティボー(Vn)コルトー(P)


御存じ、カザルス・トリオ。ベートーヴェンのピアノ三重奏曲『大公』は1928年、大戦で焼失したクイーンズ・ホールで録音。シューベルトのピアノ三重奏曲第1番は、さらに古く1926年。キングズウェイホールでの録音。





ネコパパがこれまで愛聴していた独EMICDは、これより10年くらい前の復刻で、エンジニアも違っている。レコードチェーン店のS堂が独自に帯を付けて販売していたものだ。




聴き比べると、古い方も決して悪くない。でも、今回のものは音が一段と前に出て、ダイナミックレンジも広くなっている。
大公』の第2楽章で3人が音を弾ませるところなど、すごい臨場感だ。カザルスのピチカートの上を激しいタッチで駆け抜けるコルトーのピアノ音が部屋の中をはじけ飛ぶみたい。
一方のシューベルトは、以前から『大公』以上の名演ではないかと思ってきた。
特にカザルスのチェロが主役となる第2楽章アンダンテの演奏は言葉を失う。
こちらは『大公』よりもマイクを離し、全体の音の溶け合いを重視した音作り。キングズウェイホールの響きも美しい。

そういうことが分かるほどのクオリティなのだ。1926年なのに。これだって「わずかな不足」のうちに十分入るものでは。
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コメント

コメント(2)
No title
蜂尾昌男氏の「聞こえすぎる」「わずかな不足」の意味するところは私にはよくわかりません。
ずっと以前にNHK-FMがいろいろな時代のN響ライヴを聴かせてくれたのですが、時代によって録音のコンセプトが異なっているのが興味深かったです。DECCAのようであったりEMIのようであったりと。
最新の録音は、PCMやDSDでの高品位録音が可能となったためか、(個人的には)自然な音づくりが多いように思います。それが「聞こえすぎる」ということなのでしょうか。昔は各社とも味付けで勝負のようなところがありましたが、それが引込む力であったと言えるかもしれません。

ところで、ビーチャム/ロイヤル・フィルでは、1956,57年録音の「ペール・ギュント」が演奏・録音共に子供の頃からのお気に入りとなっています。ご紹介の「シェヘラザード」も同時期なので、是非聴いてみたいと思いました。

ハルコウ

2011/11/29 URL 編集返信

No title
こんばんは、ハルコウさん。
「聞こえすぎる」には、二つの意味があると思います。ひとつは、音場といいますか、音楽の行われている空間すべてをとらえようとするあまり、かえって音楽そのものが見えにくくなっている場合。もうひとつは、楽器の音そのもののリアリティに拘って、「木を見て森を見ず」になっている場合。どちらも、素直に音楽に浸れない…もちろん、私の主観にすぎませんが。
「最近の録音は自然」で「昔は各社の味付けがあった」という論、ちょっと前の私なら、たちまち賛同するところですが、最近は、ちょっとそうは言い切れないな…と感じています。「自然に聞こえるように人工を尽くしている」とでも。

ビーチャムと言えば『ペール・ギュント』というのが、あのころの印象でした。それをわざと抜いているこのセット、意図を感じます。
『シェヘラザード』の表記、これまたEMIだけの国内表記でしたね。懐かしいです。そう書けばよかった。

yositaka

2011/11/29 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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