6月某日
恒例の愛知大学国文学会に参加。
卒業してはや30余年、ほとんど毎年参加させていただいている。毎年入れ替わりがあるとはいえ、お元気で活躍中の恩師の方々と言葉を交わすのは嬉しいことだ。
母校も来春は本部を名古屋笹島に移転。
この豊橋キャンパスは三学部を残すだけになるとのこと。
広大で自然豊かなこの場所で、青春時代を過ごしたネコパパとしては、なんとも寂しい限り。
さて、今回の学会では二つの研究発表のあと、
特別講演として観世流の能楽師 中所宜夫氏による「丸山薫の詩による新作能舞『鶴の葬式』」が演じられた。
丸山薫の詩と、東日本大震災・福島原発事故に対する中所氏の思いが生み出した「能楽らいぶ」である。
『鶴の葬式』『十年』『日本の空』の三篇を中心に、丸山の詩の断片や震災の悲劇を伝える創作的な言葉を加え
ひとつの流れとして形象された上演。
抑制された動きと磨かれた発声でゆっくりと歌われる韻律は、聴き手の呼吸と次第に一致していき、凛とした空気を会場に生み出していく。
フェイスブックに当日の台本が挙げられていた。
赤字部分は原詩である。原詩は能楽の韻律や全体の流れに沿うように一部改編されている。また、モチーフとした三篇以外にも引用があるとのこと。
独演のための小品「鶴の葬式 ~丸山薫作品より~」
次第
「破れた羽根の羽ばたきは。破れた羽根の羽ばたきは。泥を引きずる竹の杖。
名乗り
「これは福島浜通りのものです。思いがけずもふるさとをいでて十余年。生母は未だかの地にあり。この度は故郷の家を訪ね。この仮住まいの三河へ戻って参りました。
カカル
「さても故郷の有様は。見るも無残なガレキの宴。打ち捨てられた毒の汚染に。
下歌
「残るは思い出と。この地に朽ちぬ老い人。
上歌
「我が家の。柱時計の茶の間では。柱時計の茶の間では。私のいない十年を。振り子がゆっくり動いていた。
振り子の下では。母の顔がゆっくりと。老いの皺を刻んでいた。
ああけれどもう。取り返しのつかぬ。老いの皺を刻んでいた。(「十年」)
「あの日から十年が過ぎました。
クリ
「恐るべき大地の震えにあらがう眩暈が。私の踏む足元を。甲板のように揺らし続け。わずかな脳髄の思考力を。惨めな星のように破裂させた。
サシ
「破片のひとつはよろめきながら波だと叫んだ。
「二三歩走って敵だと言った。立ち止まって煙と呟いた。
「それから何事かを叫びながら。迫りくる黒い波を見ていた。
「重さが柔らかい腹をつぶして乗り越えようとして。気を変えたようにごろりと。反対側へ転がっていった。
クセ
「ある日私は。晩春の晴れた午前にいた。高台に立っていて。街をはるかに見下ろせば。家々の。屋根と壁はだんだんに低く。瓦は。思い出の絵の本でなつかしい。あの浮彫のような。陰影をつらねていた。
「遠近に。節句の幟が立っていて。けれど鯉は泳いでいず。矢車だけをつけている。矢はどれも古風な。金色を放っている。そして気まぐれのように。所々で軋んでいたが。ついに。風が吹き渡ったのか。
「いっせいに忙しく廻り始めた。
「みやびて無心なそのきらめき。日本に生まれて大人となり。なお不思議にもこんなにも。日本の空がまぶしかった。(「日本の空」)
「今ふるさとの高台は。毒を含める雲の波。いらかの波は消えうせて。節句を祝う子らもなく。風は吹けども音とてなし。ただ十年の月日のみ。流れて空しく。重くもつらや悲しや
クドキ
「その高台から遥かに望めば。骨ばかりとなった巨大な廃屋が。広島のドームのように立っている。三基の毒は三乗の汚染を撒き散らし。繁栄に酔った私たちから。虚飾の衣を剥ぎ取った。
「幼い日に飛べない鶴を見て。輝きの陰の悲しさを知り。まばゆい春には虫の死臭。都会の一画を行く時も。巨大な無機質の塊に。人の心の吸い寄せらるるを。確かにいつも感じている。
「夕暮れとうとう。陽に瞼を。泣き腫らした雲がひとりで。築山のかげにおりて来た。風を待っているらしかったが。やがて曲がらなくなったその羽根を。かつぎ上げると。逃げるように。裏門から出て行った。
「松の枝の垂れた坂から。姿はしばらく西の空に。寒く見えていた。雨はまだ二三日はふりそうになかった。(「鶴の葬式」)
震災とは直接のかかわりのない詩群にもかかわらず、選ばれ、連ねられた言葉の持ひとつひとつから、底知れない喪失感と悲しみが伝わってくる。
この喚起力の強さは、さすがに詩人だ。
もちろんこれは、中所宜夫氏の磨き抜かれた発声と所作を伴って初めて完成するものだが。
中所氏は今後、被災地への義援活動にも取り組まれていくという。このような表現の力が被災者の皆さんの力になることを願う。
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