長田弘さん講演『読むという冒険』②

フォークナーというアメリカの作家は、どういうときに小説ができるのか、と聞かれて
構想はない。少女の赤いパンツが目に浮かぶ。そこがはじまり。
瞬間、自分に呼びかけてくるものがあり、その中にすべてがある。それは突然やってくる、と答えたそうです。
聖書の中で、唯一姿を見せないものがいる。ところが、彼の言葉は膨大に書かれている。
それは神です。
プラトニックという言葉のもとになった哲学者、プラトンの本には、彼の言葉はありません。彼は師ソクラテスの言葉を書きとっただけです。
 
マルコ伝
論語
仏教経典

同じです。すべて聞いたことを書きとったものです。
源氏物語の真本は残っていません。多くの写本があるだけです。
 


本は、読んだ人の作るもの。
伝えられたことを
受け止めた人が書きとめてゆくもの。
「受」です。いまの人たちは、「受」を忘れてしまってはいませんか。
歌も同じです。
エルヴィス・プレスリーは歌とは「送り手への返送」と言っていました。

 
「子どもの本」に僕が誘われた秘密はここにあります。
子どもの本では、どんなものでもしゃべります。人も動物もものも区別なく話します。
大人の本ではそれはない。大人の本でしゃべるのは、「自分と他人」だけだから。

 
「読解」と「読むこと」は違います。
読解は答案を書くこと。教育の世界ではそうなっています。
正解は、あいまいでないこと。
でも、あいまいとは何か。それは、言葉では言えないが感じ取ることができることがあるということです。
犬も、猫も、鳥も、語りかけてきます。
はっきりこうだとは言えないが、必ず語りかけている。列車の音も、車のエンジン音も、語りかけている。
それがなぜ、「読む」となると、正解か。
 

読解のとき、人は時代で区切ろうとする行為を必ずします。
あの事件があったころとか、世代とか。
でも、この詩集、これは、決して僕が20歳のころを懐かしむために出したのではない。
今、現在の言葉として読めるかどうかを知るためです。
問題は時代ではない。むしろ年齢です。
子どもたちは質問する。何歳のときには何をしていたの?
 
僕は高村光太郎が亡くなった年と、僕は今年、同年齢です。でも、感覚的には20歳以上年長の人にしか思えません。


松川事件を覚えていますか。僕は福島で裁判を見ました。でもどれくらいの人が覚えているでしょうか。
この詩集が出たころ、洗濯機というものはありませんでした。
ソノラマというものがありました。
わからないでしょう。その頃僕は20代。
いつの時代にも、20代の人はいます。当たり前の「年齢」というものは、人の一生には意味を持つのではないでしょうか。
 
僕はよく年齢を聴かれます。本人を見てもわからないようです。でもパスポートも免許証も持っていないから、証明はできない。唯一、信じてくれるのは、映画館です。
 
このごろでは、年に似あわず、がほめ言葉。でも、以前は「年齢にふさわしい」という物差しがありました。
年齢は時代を超えたものだとわかります。
そして、発達で時代は語れない。

『かいじゅうたちのいるところ』のマックスは、今、何歳なのかな。ぐりとぐらは?



本は、年齢をそこにとどめる。そのときにしかできなかったこと、できないことをかたちに残すものです。

(つづく)
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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