神宮先生との10分間、そして補説

神宮輝夫先生にお聞きしたかったことは三つありました。
 
一点目は「飛ぶ教室」22号掲載の「戦後児童文学史」にある「子どもに向かってイデオロギーを説き、それを基礎とした政治を子どもに教える創作は無意味だと思う」という一節について。
二点目は60年代末に転換期を迎えたリアリズムが70年代に生み出した「理論社の大長編シリーズ」などの長編群の位置づけについて。
三点目は「戦後児童文学史」最終回で言及されている「物語」と「ものがたり」について。
 
一点目については、
「確かにそう断言しています。間違いなくそう思っています」とのお答え。
もしや問題提起のために、あえて思い切った挑発的表現を使われたのでは、と感じていたのですが、どうやらそうではなく、言葉通りの考えをお持ちとわかりました。
二点目については、
―あれほどの点数が世に出ながら、現在その多くが入手できない状況にあります。力作揃いでしたが、やはり大人向けの要素が大きいために、子ども読者をつかむことができなかったのが理由なのでしょうか、という私の意見にうなづかれながら、
「でも、すべてではありません。傑作があります。たとえば上野瞭さん。彼の作品は評価すべきだし、いずれきっと再評価されると思いますよ」
と付け加えられました。
 


 
上野作品に強い共感を持っている私としては、思いがけない発言で、胸が熱くなる思いでした。
そして、三点目。
―もしや先生は「物語」と「ものがたり」という二つの表記を意識して使い分けていこうと考えられているのでは…
「よく精読していただけましたね。そのとおりです。この二つをはっきり区別して、論を展開していきたいと考えています」
と、明確なお答えをいただくことができました。
 
 
最後の質問について補説します。

『飛ぶ教室』23号に掲載された「戦後児童文学史」最終回に、次のような部分があります。
 
>物語とは、一族、氏族、人種、国家などが創られ、確立し、継続してきた記憶を土台にしてきた文学のはずなのだ。本来。(それに対して、柴田勝茂は)現在を、自分が属している集団―地域社会、職能集団、国家などの今を、それらをつくっている人々の集団の記憶にするような「ものがたり」を主張しているのではないかと思われる。そして、その考えは、現在、物語を創作している作家たちに共通しているような感触がある。
 
本論ではこの部分に先立って、伝統を引き継ぐリアリズムは現在、おもに女性作家によって書かれ、男性作家は「リアリズムの進歩した一フォームとしての物語」の創作に「加速的に傾斜」していったとしています。
柴田勝茂の『ドーム郡ものがたり』はその例として挙げられたもの。

こうした物語にはむき出しのテーマやポリティカルな要素が組み込まれていることに特徴があり、これを神宮氏は大きな特徴とみて平仮名で「ものがたり」と記して区別しているように思えます。
「共同体」という言葉を使わせてもらうならば
 
物語=共同体の記憶を土台にしてきた文学(過去の記憶の蓄積)
ものがたり=共同体の現在を、それをつくっている人々の記憶にする文学(未来への送るべき記憶の蓄え)
 
という意味になるのでしょうか。
残念ながらこの概念について神宮先生と対話を深める時間がありませんでした。
また
本論の結びで述べている二点の問題提起
 
>子どもの成長に資する文学はエンターテインメントと分類される作品なのではないか
>常に付きまとう、子どもの文学にリアリズムは成立するかという疑問
 
についても、お訊ねしたかったことが残ってしまいました。

「戦後児童文学史」の連載がここで終ってしまうことは残念ですが、さらに改稿された上で本にまとめたいとのことですので、期待して待ちたいと思います。
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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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