8月某日
宮崎駿率いるスタジオジブリの、新作アニメ映画『借り暮らしのアリエッティ』を見てきました。
原作はイギリスの児童文学者、メアリー・ノートン作。
『床下の小人たち The Borrowers(1952)』(日本語版 林容吉訳 岩波書店1969年初版)
です。

すこし昔、イギリスのある家に、小人の一家が住んでいました。
といっても、それは小さな小人たちの住む、小さな家ではありません。年老いた人間の女主人が、家政婦と庭師とともに住む、古い屋敷です。
小人の家族は、身長が15センチしかなく、床下に暮らしていること以外は、まったく人間と同じ。
父親ポッドは床上へ、生活に必要な物を借りる仕事に出掛け、母親ホミリーは家事で、主人公である14歳の娘のアリエッティは母親の手伝いです。
必要なものすべてを人間から”借りて”暮らしている。だから「借り暮らし」というわけです。
彼らの掟は、決して人間に姿を見せないこと。
ところがある日、この、小人たちが住むのに最適な、変化のない、淡々と日々が過ぎる屋敷に、病気の少年がやってきます。
一家の生活は一変します。
予想のつかない少年の行動で、ついに「見られ」てしまうのです。
アリエッティは、少年に姿をみられたばかりか、仲良くなり、この家を取り囲む世界の広大さを、圧倒的思いとともに、発見します。
少年は、棚にしまいこまれたドールハウスから家具を持ち出し、床下に運び込み、いわば、一家の生活援助を始めます。
しかし、やがてその事実が、家政婦のドライヴァおばさんの知るところとなります。
彼女は、小人たちにとって、最悪の敵でありました。
さあ、小人たちの運命は…
こう書いてくると、なんだか古臭く、なつかしい童話の世界と思われるかもしれません。
でも、少し本文をお読みになれば、これが見事な「小説」であることがすぐわかることでしょう。
虚構に真実味を与える巧みな導入。誰が語り、誰に伝えたものか、にわかに分からないよう、謎めいた迷路のように慎重な語り口で、物語は進みます。
イギリス児童文学のお家芸である、いかなる細部もおろそかにしない緻密な描写が、読書好きの心を湧かせます。
林容吉訳文にやや古めかしさがあるために、ちょっと読み進めるのに抵抗感があるかもしれません。でも、腰を据えて読みこめば、みなさんは、きっと小人たちの目になって、物語にのめり込んでしまうことでしょう。
かつて、鋭い評論でも知られた児童文学者の上野瞭は、『現代の児童文学』(中公新書1972/01)で、この物語を「現代における魔法の衰退を象徴する、エブリディ・マジックの傑作」と紹介。
ネコパパも大いに共感し、シリーズに読みふけったものです。
いまあらためて読み返してみて、上野の視点は、たしかに児童文学の(ファンタジーの)歴史からみて、するどい見解でしたし、「魔法」と人間とのかかわりについて深く考えさせるものでした。
でも、今回再読してみて思ったのは、なによりこれは「人間そのもののありよう」を、ファンタジーでしか書けないやり方で、描きだした作品ではないか…という実感を強く持ったのでした。
たとえば、アリエッティと男の子の、こんな会話。
>「きみ、飛べる?」
「飛べないわ」アリエッティは、びっくりして答えました。「あなた、飛べるの?」
男の子は、まえより、もっと赤い顔をしました。「飛べるもんか!」と、怒ったように言いました。「妖精じゃないもん!」
「あら、わたしだって、ちがうわ」と、アリエッティがいいました。「だれも、ちがうわ。わたし、妖精なんて信じない」
男の子は、アリエッティをふしぎそうに見ました。「妖精を信じないって?」
「ええ」と、アリエッティがいいました。「あなたは、信じて?」
「信じやしないさ!」
(中略)
「きみみたいな人、たくさんいるの?」
「いないわ」と、アリエッティがいいました。「ひとりもいないわよ。みんな、ちがうんですもん」
「そじゃないよ。きみみたいな、ちいさい人さ」
アリエッティはわらって、「まあ、おかしなこと、いわないでちょうだい!」と、いいました。
「まさか、あなたの大きさの人が、たくさんいるとでも、おもってるんじゃないでしょうね?」
「ひとりもいないわよ。みんな、ちがうんですもん」
アリエッティのこの言葉は、訳知り顔の、カテゴリー分けを好むネコパパの気分を、あっさりと打ち破ってくれました。小人と人間の区別なんて、もともとないんじゃないか…いるのは、一人ひとりの違う人間にすぎない。
でも、そのひとりひとりだって、この話でいう「人間」と「小人」ほどもちがう。
それでも、時には気持ちを共有しあうことができる。それが、互いを揺さぶり、運命を変えていく…
床下の小人、という存在を設定したことで、人間というものの姿を、鮮やかに描き出すことができる。
それは、大きな力を持った魔法が生み出す、痛快な物語とは少し違うかもしれないけれど、大きくはないが深い、ゆたかな魔法ではないでしょうか。
さて、映画の感想も、少し。
今ご紹介したあらすじの範囲でいえば、『借りぐらしのアリエッティ』は、原作にとても忠実な作りです。
ことに、小人たちから見た「世界の見え方」の描写力は圧倒的です。
映画の舞台は現代の日本に移し替えているので、小人たちの借用物も、その活用具合も、原作とは違っていますが、その「無駄なく使い尽くす精神」はしっかりと伝えています。
床下、台所、庭、窓辺。
そこに存在する世界の描写と、人物の機敏な動きのリアルさ。この「手に取るようにわかる」感じは、よく作り込まれたアニメーションだけが実現可能なものでしょう。
原作を信じ、その「思想」を信じて、オリジナルな世界観の中で生かしきろうとする製作者たちの志が、まっすぐに伝わってきます。
いい映画です。
そのうえで言いたいのですが、この映画に心ひかれた人は、ぜひ「原作」も読んでほしい。
そして、両者の違いがなぜ生じたのかを、見た人同士で語り合ってほしい。語り合いたい。
そこから、たくさんの、価値のある会話が生まれてくると思うのです。
例えば
物語の舞台を日本に移すことで、描かれた世界はどう変わったのか。
アリエッティの性格の大きな違いはなぜ生まれたのか。
アリエッティと男の子が交わす「人類問答」が原作と映画では、全く違ったものになっている理由は。
物語の結末が、原作と同じようで違う、むしろ正反対の気さえするのは、なぜだろう。
「わたし、うれしくて‥‥うれしくて」という、原作の結末近くに登場するアリエッティの涙しなからのひとことを、製作者はどう受け止めていたのか。(正直、これだけは、映画は生かしきれていないと思いました)
小人を追い払おうとする家政婦の無茶な暴虐ぶりの意味するものは。
などなど…
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