100分de名著・中江兆民『三酔人経綸問答』

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NHKの番組、「100分de読書」を欠かさず見ている。
気になったものはテキストも買う。
番組をきっかけに、取り上げられた作品を読んだり、講師のコメントに惹かれて、その人の著書を読んだり、興味関心が広がっていくのも面白い。また、聞き手役をつとめる伊集院光の鋭い突込みも楽しみだ。この人、相当な読書家とお見受けするが、聴くところによるとこの番組では、取り上げられた作品をあらかじめ読まずに番組に臨んでいるという。視聴者目線、というわけだが、なかなか勇気のいることだと思う。

さて、ご紹介するのは昨年12月放送の『三粋人経綸問答』。
講師は劇作家の平田オリザ氏。
ネコパパは中江兆民にちょっと関心がある。それまでは「日本のルソー」ということで社会科の教科書に載っていた名前だけ知っていたが、学生時代の1976年、精神科医で作家のなだ いなだの著『TN君の伝記』という児童向きのノンフィクション作品を読んで以来、長くその名を記憶することになった。なだ は一貫してイニシャルだけで書いているのだが、ひとたびこの本を読めば、明治期の人とは思えない、先進的なリベラリストの人生に驚き、どうしても本名を知りたくなるに違いない。実にうまい作戦である。
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平田氏は、その兆民の代表的な著書を「思想」伝達よりは「対話」の極意を学ぶ書として読み解いていく。

明治20年、自由民権運動の高揚が沈静し、しかしまだ、言文一致の文体も模索中だった時代、一般の人々に、民主的近代国家の在り方を伝えるにはどうしたらよいかと考えた兆民は「問答形式」という画期的な方法を考案した。
当時の書物の主流はまだ文語体、しかし小説などの会話文を口語体で記すことは自然。それなら、考えの違う者同士が会話する形式の書物はどうか。兆民の策は功を奏し、『三酔人…』はベストセラーとなった。
本の内容は民主的・平和的な理想主義を唱える洋学紳士と、侵略的覇権主義をとなえる豪傑君が現実主義者の南海先生を訪ね、各自の主張を展開したのち、最後に南海先生が総括するというものである。

平田氏はそこに「対話」の重要性を見出す。
氏によると「会話」と「対話」は違う。「会話」は親しい人同士のおしゃべりだが、「対話」は異なる価値観を持った人とのすり合わせで、その基本原理は、この行為によって自分が変わることを潔しとする、あるいは喜びを見出すこととしている。すり合わせた結論が仮に当たり前だったり、最初と変わらないように見えてもそれは最初とは違うのだ。これがヨーロッパでの「対話」の伝統で、「互いに譲らず対立する」のではなく「エンパシー(共感)のリテラシー」をもって話し合うこと。『三酔人』の話し合いはその好例だという。なるほどたしかに、洋学紳士と豪傑君の意見ははっきり対立しているのに、それは決して相手を論破しようとする「議論」にはいかない。

そうならない要因として平田氏が挙げるのは「冗長率」という言語学の概念だ。
ここがおもしろい。

「一人が自説を述べていると時々そこに他の人からの合いの手が入る。この『合いの手』が対話においては非常に重要なのです」と平田氏。冗長率とは意味伝達に関係のない言葉の割合で、普段の会話では意外に低く「対話」では高くなる。
「いやいや、億劫がらずに最後まで続けてください」
「まあ、おっしゃることもわかりますが」
などの、意味としてはなにもつたえないが、クッションとしての役割を果たす言葉がないと、対話は成り立たない。
これは、文章の読みやすさにもつながる。上手い文章を書く人は、冗長率のコントロールが上手いのだという。
酒を飲みながらの談義という設定にも意味があり、それが適度に冗長率が上げ、参加者に席を立たせない要因をつくる。平田氏は「対話とは席をたたないこと」とも語っているので、ここにはまさに、対話の極意が書かれているというわけだ。
洋学紳士と豪傑君が自説を述べる間、南海先生はひたすら合の手を入れるだけで意見は述べず、最後に二人の説を「要約」して良い点を認め、問題も指摘する。
そうした丁寧な手順を踏んだうえで、当時の時代に即した、現実主義に徹した所感を南海先生は述べる。
注目されるのは、そのなかで国と国が恨み合う原因となるのは「事実ではなく風聞」だとしている点で、それはネットや、メディアによって生み出された「一種異様な幻影」が社会を覆う現代を鋭く予見している。

平田氏はこうした兆民の思想から「対話」の重要性を読み取り、そのために必要なことは「演劇教育」であると主張。兆民の時代よりも、現代はさらに「対話」の困難な時代であるという。「対話」は精神的な余裕がなければ成立しないからである。「現実は一つではない」からこそ、お互いに「異なる現実」をかかえる人同士の「対話」が必要だ。それを機能させるのに最適なトレーニングが「演劇」である。
コロナ禍では「命にかかわるもの」と「不要不急」が分割され、アート、表現にかかわるものは簡単に後者と位置付けられてしまったが、実は、それらの中にあるものこそが「命にかかわるもの」ではなかったか…

ネコパパが惹かれたのは「冗長率」という概念の幅の広さと包容力である。

言葉のクッションー頷き、促し、転換ーそれに、飲み物とか音楽とか、ちょっとしたグッズを挟むことで目の血走った「勝ち負けを競うディベート」とはひと味ふた味違う、お互いが変わるための「対話」が生まれる。
それは…無駄を削ぎ落し、合理化、軽量化、省エネ化、今はやりの言葉で言えば、タイパ、コスパとは対極の概念かもしれない。ではあるけれど、怠け者で饒舌な老後を過ごしているネコパパには、親和性が高い言葉であった。「冗長」なんて、どう聞いても「いい意味」には受け取られそうもない語感だが、それにもちゃんと存在価値はあったのだ。
ここらでひとつ、ネコパパも、「ジョーチョウリツの達人」いや達猫を目指してみるとしようか。
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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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