菰野ピアノ歴史館・蓄音機コンサート/リアル・ショパン②

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第2回 蓄音機コンサートin菰野ピアノ歴史館
2023年6月4日(日) 午後2時
菰野ピアノ歴史館
使用蓄音機 EMG MarkⅨ

テーマ ショパンを愛した名ピアニストたち 第2部

菰野ピアノ歴史館 蓄音機コンサートプログラム 第2回第2部_page-0001 (2)

1  ウラディミール・ド・パハマン
ショパン ノクターンop32-1 Ⓡ1925 


パハマン(1848年7月27日 - 1933年1月6日)は、演奏中に呟く奇癖が有名だったため、普通に黙って演奏していると聴衆が失望して席を立ったという話がある。「小犬のワルツ」で演奏前に前口上をしゃべっている録音は有名だが、この「ノクターン」では、演奏の終わりの方で何やらしゃべっている言葉が聴きとれる。グールドのような「唸り声」とはちがってパハマンのは「言葉」になっているのが面白い。

2、3 ワルター・ギーゼキング
ショパン 小犬のワルツ
ショパン プレリュード op28-23 Ⓡ 1936 


ギーゼキング(1895年11月5日 - 1956年10月26日)は、ドイツのピアニストかつ作曲家、アマチュアの蝶類研究者。
本能的で直感的なピアニストであると言われ、自ら意識して練習したことはなかったとも言い伝えられている。譜面を検討し、その演奏をイメージしてから、曲を完璧に弾きこなすのが常であった。ギーゼキングは「私はスケールとアルペジオの練習のみで、全てのテクニックを習得しました」と皮肉まじりに語ったと言われている。レパートリーは幅広いものであった。しかし今日ギーゼキングは、もっぱらモーツァルトとドビュッシー、ラヴェルの伝説的な演奏家として記憶されている。ショパンの録音は、SP時代にわずかに残されているだけの貴重品である。
ギーゼキングの演奏は曲の分析力が明晰で、ニュアンスに富んだ繊細な音色と、多彩な表情の変化に満ちている。

■ギーゼキングの愛用ピアノ・グロトリアン・シュタインヴェーグ⇒グロトリアン

ドイツのピアノメーカー。ゲオルク・フリードリヒ・グロトリアンと、スタインウェイ一族でひとりドイツに残ったテオドール・シュタインヴェークとともに、1835年に最初のピアノを共同で製作した。
1865年、テオドールは権利をグロトリアンに譲りアメリカに移住。以降はグロトリアン一族が運営し現在に至る。1919年に社名がグロトリアン・シュタインヴェークとなり、1927年には生産高が3,000台にまで増大した。
大戦では打撃を受けたが1940年に復興し、現在は「グロトリアン」と名乗る。
ヨーロッパの王室でも使われ、クララ・シューマンはこのピアノを初めて弾いて、「今日からこのピアノしか弾かない」と語り、生涯愛用した。樹齢百十年以上のアルプスの古木だけを原料に、均質性のとれた材質を響板に使用している。(ホモジュナス響板)低音重厚、高音控えめの渋い音色が特徴。

4 エマヌエル・フォイアマン(チェロ)フランツ・ルップ(ピアノ)
ショパン 序奏と華麗なるポロネーズ Ⓡ1939 

ショパンの作品のほとんどはピアノ・ソロのために書かれたが、歌曲、室内楽などもわずかながら残されている。
ピアノ以外で好んだのがチェロで、この作品はチェロとピアノのためのオリジナル曲。晩年の大作、チェロ・ソナタも、ロマン派のこの曲種のなかの名作である。
フォイアマン(1902年11月22日 - 1942年5月25日)は、オーストリアおよびアメリカのチェリスト。
幼少時から公開の演奏会に出演し、名教師とうたわれたチェリストのユリウス・クレンゲルの門下として、伝統的なチェロ奏法を極めつつ、カザルスの革命的な奏法に呼応して演奏に磨きをかけた。ユダヤ系だったため1930年後半以降は主にアメリカで活躍、ルービンシュタイン、ハイフェッツとともに結成した「百万ドル・トリオ」は大きな人気を博した。1934(昭和9)年秋には日本を訪れて東京と名古屋、関西でリサイタルを開催。1936年4月の二度目の来日では日本コロムビアのスタジオでレコード録音も行った。カザルスに次ぐチェロの巨匠として期待されたが、第二次世界大戦中の1942年に惜しくも39歳で病死。

■フランツ・ルップ(1901年2月24日 - 1992年5月27日)は、ドイツ系アメリカ人のピアニスト、伴奏者。1916 年から 1922 年までミュンヘンで学び、ベルリンで伴奏者としての名声を確立した。バリトンの、ハインリヒ・シュルスヌス、ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーと共演、クライスラーとは1935/36年にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲を録音。歌手のロッテ・レーマン、シグリッド・オネーギン、マリア・シュターダー、ベニアミーノ・ジ-リ、チェリストのエマヌエル・フォイアマンらと共演。時にはソリストとして、フルトヴェングラーらの指揮で協奏曲を演奏することもあった。
1938年にはニューヨークに移り、コントラルトのマリアン・アンダーソンの常任伴奏者を1965年に彼女が引退するまで継続した。最後の録音は、今回は日本人ヴァイオリニスト浦川隆也と共演したもの。

5 、6アルフレッド・コルトー
ショパン ノクターンop9-2 Ⓡ1929 
ショパン 舟歌 Ⓡ1933 

■コルトーと孤留島
コルトーは1952年に来日、4か月の滞在で日本が大いに気に入り、山口県下関市では無人島を購入している。響灘に浮かぶ無人島で実名は厚島。コルトーは景色に魅せられ、島を買いたいと申し入れたところ、当時の村長は「永住するなら差し上げましょう」と快諾。感激したコルトーは島を孤留島と名付け「私の思いはひとりあの島に残るだろう」と言い残して帰国したという。帰国後コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していた。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたという。
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7 アルトゥール・ルービンシュタイン 
ウィリアム・スタインバーグ指揮NBC交響楽団
ショパン ピアノ協奏曲第2番より 第1楽章 Ⓡ1946

ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)は、ポーランド出身のピアニスト。特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている。
ユダヤ人の家庭に生まれ父は富裕な工場主であった。2歳の時に姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を真似して見せたことから神童を自覚。7歳でデビューを飾った。1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆には支持されたが、評論家から批判が多く、4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかける。1912年にはロンドンデビュー。
ストラヴィンスキー、ティボー、カザルス、モントゥー、などと交流を重ねる。第二次世界大戦中はアメリカに暮らし、1946年にアメリカ国籍を取得。1935年(昭和10年)3月29日に初来日し、4月2日から11日にかけて5日間、日比谷公会堂で演奏した。
レコード録音もSP期から約50年近くにわたる。1928年に、ディレクターのフレッド・ガイスバーグによるテスト録音の音質に感激し、積極的に録音に取り組むようになったといわれる。ショパンは、エチュードの一部の作品を除く全作品を録音している。
私生活では遊び人であり、演奏ツアーにはいつも女性秘書を連れており、妻から嘆かれていた。美食家でもあり、ミラノの高級料理店などでは専用特別メニューが作られていた。指揮者の小澤征爾は、ルービンシュタインには何度もご馳走になったと回想している。

8 マルグリット・ロン
ショパン 子守唄 Ⓡ1935 

ロン( 1874年11月13日 - 1966年2月13日)は20世紀前半のフランスを代表するピアニスト・ピアノ教育者。ドビュッシーやフォーレと親交が深く、ラヴェル「クープランの墓」、ピアノ協奏曲の初演者。
1891年、パリ音楽院ピアノ科を一等賞で卒業。1906年パリ音楽院の予備科講師となる。夫は1907年、高等科教授に立候補したが、院長であったフォーレはロンより3歳若いコルトー教授にしたことが原因で夫妻はフォーレと決裂する。1914年8月、夫が第一次世界大戦に従軍し、8月24日戦死したショックから一時ステージから遠ざかったが、1917年に演奏活動を再開。1919年4月初演のラヴェル『クープランの墓』の第6曲「トッカータ」はロンの夫に捧げられている。
1920年音楽学校を創設し、1941年にはロン=ティボー音楽学校となる。
1943年、ヴァイオリニストのジャック・ティボーとともに第1回ロン=ティボー国際コンクールを開催。このコンクールは現在でも行われ、若手音楽家の登龍門となっている。
ロンのレパートリーは古典派のモーツァルトやベートーヴェン、ロマン派のショパン、リストなどからドビュッシー、フォーレ、ラヴェルなどのフランス近代音楽まで幅広い。自在なルパートや崩しを生かした独特の奏法が古きパリの雰囲気を伝える。
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コメント

コメント(4)
リアル・ショパン②
第1部の続き

パハマンの演奏は、B面の夜想曲op32-2が、演奏に興が乗ると「独り言」を言うのがはっきり聴こえ良かったです。第1部の練習曲と舞曲は、「独り言」が無かったのでやりたい放題の感があります。
家では、B面を聴いていませんでした。ウクライナ語でなんて言ってるか分かりませんが「ヨッシャー」ではないですよね。

ギーゼイキングの「子犬のワルツ」蓄音機で聴いても速弾きのテクニックは、変わらないが何処か温かみのある演奏でした。

エマヌエル・フォイアマン(チェロ)フランツ・ルップ(ピアノ)今迄に聴いたことが無いゆったりとした落ち着きのある演奏で深い眠りに落ちロンの「子守唄」でパッチリ目を開けました。

蓄音機で聴く1920~1930年代のピアノは、ゆったりとした温かみのある音色でした。
IW館長は、1部・2部の総評で「スタインウェイの音色は、ハンブルグ(ドイツ)製です。エラール、プレイエル、等当時の演奏家が愛用したピアノがありますので試弾して下さい。」と忠実に再生するEMG Mark IXに感激しておられました。

チャラン

2023/06/05 URL 編集返信

yositaka
Re:リアル・ショパン②
チャランさん

後半は10人くらいの入りで、かえってリラックスして話ができました。パハマンの喋りが鮮明に聴こえてきて、これをこのまま発売するレコード会社もおおらかというしかありません。でも演奏会も喋りを期待してくる人が多かったそうだからこれでいいのかも。

ギーゼキングは昨年5月にもかけてもらったものです。10吋片面に2曲というのが面白かったから。今回も、小犬のワルツよりも短いプレリュードのタッチの美しさに惹き込まれてしまいました。驚きはフォイアマンのチェロで、盤の状態は決して良くないのに、素晴らしく鮮明な再生ができたことです。伝統と革新のハイブリッドであるチェロ奏法がこの曲にはぴったりでした。

それにしても歴史館の充実ぶりは凄いです。昨年より7台も増えているし、名ピアニスト愛用のピアノを借用展示したりと、館長の恐るべき人脈が、展示に反映していますね。湯の山温泉の観光名所になるのも時間の問題でしょう。
若手ピアニストのTAKさんが、ピリオド・ピアノの音色のよさに聞き惚れていたのも印象的でした。

yositaka

2023/06/05 URL 編集返信

御在所は第二の故郷(?)
高校一年生の春、山岳部に入部した私は近鉄湯の山温泉駅からバスにも乗せてもらえず、重い荷物に喘ぎながらバス道を歩かされてやっと温泉街に到着してホッとしていると、ここからが本当の山道。地獄の御在所登山でした。あれから60年、凝りもせず月に一度はこの地に来ます。もちろん今はマイカーで登山口まで行くので地獄の歩荷訓練とは雲泥の差です。
前置きが長くなりましたが、噂の菰野ピアノ歴史館、早朝登山(いつもは午前5時頃当家出発)を早く切り上げて午後の部に行って見ようと思っておりましたが他に用事ができてしまい断念。またこんな企画がありましたら教えてくださいね。クラシックもピアノも全くの門外漢(以上に疎い)ですが60年も馴染んでいる地(通過するだけですが)なので親近感が湧きます。

IK

2023/06/06 URL 編集返信

yositaka
Re:御在所は第二の故郷(?)
IKさん

湯の山は心の故郷でしたか。私は子供のころから何度かロープウェーには乗って、温泉旅館には止まった記憶がありますが、長らくご無沙汰でした。昔は「カモシカセンター」というのがあって、なかなか好きだったんです。児童文学者の岡野薫子が書いた『カモシカの谷』のモデルとなった場所で、そこでしか買えない「特装版」を販売していました。今も大切に持っています。
IKさんは本格的な登山で通っていたんですね。さすがアウトドア派‼

4日は、蓄音機鑑賞会の後、館長に連れられて最近できた広大なリゾート施設に行き、お茶の時間を楽しみました。最近は観光地としても充実していて音摺れる人も増えてきているとのことです。

「菰野ピアノ歴史館」を訪問されるのでしたら、ぜひコンサートなど、イベントのある日に行かれるといいと思います。大方は入館料だけで参加できるのでお得です。

yositaka

2023/06/06 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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