片山杜秀氏のコパチンスカヤ評。

2023年3月31日、朝日夕刊。片山杜秀筆、東京でのコパチンスカヤ、アホネンのリサイタル評。
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なんというエキセントリックな演奏会批評だろう。
片山氏、凄絶を極めた。
この人、『レコード芸術』に趣味が嵩じて異界をさまようレコード亡者の小説を目下連載中だが、その文体が演奏評にも出てしまったみたい。
まあ、コパチンスカヤの演奏を聴いたネコパパには、彼の気持ちは十分わかる。

コパチンスカヤはゴッホか。
演奏者は作品に込められた情念を解放した。

ここまではまあ、普通か。これがベートーヴェンのソナタになると…

どぎつい軍楽に覆われた恐怖映画だ。
鮮血が飛び、肉片が散る。
これぞ、今時のベートーヴェン!

「今時」は、ちょっといただけないけれど、片山氏の受けた衝撃はわかる。
でも、ここまで言っていいのか。いくら誇張されているように思えても、それは確かに「楽譜に張り巡らされた指示」に、コパチンスカヤが忠実なだけだ。
ネコパパは聴いていて、そう思った。どぎついというより、よほどベートーヴェンらしく、爽やかな演奏にも感じたのだが、聴きようによってはこれは「恐怖映画」なのだろうか。それとも東京では、長久手とは全然別の演奏をしたのだろうか。まあ、コパチンスカヤならやりかねない…と思いつつ、いや、そうじゃないだろう、基本線は変わらないはずだ、とも思ってしまう。

残念ながら後半はプログラムが違い、アンタイルは聴けなかったので、コパチンスカヤが「春の祭典」の生贄の乙女と化したのかどうかは確かめようがない。結びの一文「狂気の時代に正気を取り戻させようと、祈って弾いて踊っているに違いない」を読むと、片山氏がこのリサイタルを一編の小説を読むように聴いたらしい、と感じられてくる。こういう音楽の聴き方もあるのだ。筆者にとっては、批評も演奏も小説も、一つの同じ根っこから生じるものなのかもしれない。
こう聴こえるからこう書きたい、というのと、こう書きたいからこう聴こえる、というのが、氏の中ではかなり接近しているような気がする。
危ない!

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コメント

コメント(2)
東京と地方。
特に変わらないと思いますけれどね。
ただミュージシャンによっては東京のライブと地方のライブとでは少し違うということもあるようです。
東京でのライブには評論家やマスコミが来るし、それが雑誌等に載ったり世界に報道されるかもしれない。
そのため、衣装が違ったりするんです。
地方は微妙に手抜きだったりするのです。
演奏内容は気負っていないため、地方の方が良かったりもしますし。

不二家憩希

2023/04/03 URL 編集返信

yositaka
Re:東京と地方。
不二家憩希さん
コパチンスカヤとアホネンは2019年にも同じ曲目でリサイタルを行っていて、YouTubeで見ることもできます。ただ、前半のシェーンベルクとベートーヴェンだけなんですが。表現は私の聞いたのと基本的に変わっておらず、やはり、凄いですが、必ずしも時流に合わせたものではなく、研鑽を重ねた彼女独自の解釈だと思います。「今時」というのは、私にはしっくりきませんね。衣装は違ってましたが、それはそれで良かったですよ。東京のハルトマンはどこかで放送してほしいです。「生贄の乙女」の演奏は、聴きたい。

yositaka

2023/04/03 URL 編集返信

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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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