少なくとも1862年には書かれていたイギリスのフアンタジー作家、ジョージ・マクドナルドの作品。モーリス・センダックが挿絵をえがいたこの版は1969年の出版とのことです。
はじめて読みましたが、いやあ、面白い。
「昔むかし…」ではじまり「…ということです」と、昔ばなしの枠組みを援用しているんですが、内容は、昔ばなしとは異質の「ぶっとんだ」現代感覚のストーリーなのです。
語り始めは「いばら姫」よろしく、王女の洗礼式に招かせなかった伯母の魔女が、生まれたばかりの姫に呪いをかけます。それは、姫の身体から「重力」を失くしてしまう魔法でした。ちょっと油断すると、姫は空に向かって「落っこちて」しまうのです。
その魔法を、たまたま配偶者探しをしていた異国の王子が解いて、二人はめでたく結婚し、悪い魔女は罰をうける…
これだけ聴けば、どこがぶっ飛んでいるのと思うかもしれません。しかし、問題は姫の「かるさ」が、物理的な重さだけの問題ではなく「中身の空虚」をも意味しているってことです。姫はやりたいほうだいしほうだい、喜怒哀楽もなく、叱られたって反省しない。魔法は姫から人間らしさも奪ってしまったのです。
そんな姫に恋する王子というのも、物好きですが、それには秘密がありました。実は、姫がただ一つ感情を取り戻す場所があり、それは森の中の湖。その水に入って泳ぐときだけは、姫はいくぶん人の感情を取り戻すのです。そこに出くわした王子は姫がおぼれている、と思い込み、水から引き上げるのですが、それは姫にとっては、空に落とされたのと同じでした。王子は水の中での姫に恋して、逢瀬を重ねることになります。
これを知った魔女は激怒して、持てる力を振り絞り、湖を干上がらせ、地上から水を奪ってしまう恐ろしい魔力を発動させます。この場面が恐ろしい。数ページにわたる、これがクライマックスかと思われるほどの迫真の描写です。湖が干上がることを知った王子は、命を投げうって、危機を乗り越えようと決意します。
そこから終盤までの展開は、なかなかスリリングで、感動的でさえあるのですが、おかしいのは、王もお妃も家来も、この件への関心は薄く、何とも白けた態度なことです。それどころか、自分のために人柱になろうとしている王子に対して、姫はまるで気のない、空々しい態度なことです。どうやら「かるくなる魔法」にかけられているのは、姫だけではなかったようです。もちろん最後には、魔法は破られて、姫は身も心も回復するわけですけれどね。
1862年という時代に「子ども向きの物語」として、マクドナルドはよくぞ、このような風刺的で、しかも面白いナンセンス物語を書いたものだ、とネコパパはすっかり感心しました。
身も心も内実を失って、空虚に漂う姫、そして人々。なんだか自分たちのことを言っているような気もします。些細な嫉妬からこんな魔法を、そしてそれがうまくいかないと思いきや、世界を破滅に導くような次なる魔法を発動させる魔女の存在感もまた、人間の暗黒面を暴き出しているようにも感じます。
モーリス・センダックはこの作品に、100年後の挿絵をつけています。
銅版画的な描画を真似た、19世紀的なタッチを使いながら、描かれた人物の表情、とくに「目の演技」には凄みとリアリティーがあります。まず、生まれたばかりの姫が、窓の外から裸で乳母を上から目線で見ている、1枚目の挿絵が怖い。それから、全身に大蛇を纏い、蛇を巻いて魔力を発動する魔女の、白目をむいた憎悪の顔。そしてクライマックス、姫のための人身御供を買って出た王子に、姫がいやいやビスケットを食べさせようとしているところ。魂の抜け殻のような、虚ろな二人の顔がもう、壮絶というしかありません。センダックも、本作の現代性、普遍性を鋭く見抜いていたのでしょう。
本書を読んだきっかけは、先日ZOOMで拝聴した、この研究会が切っ掛けでした。
隈部さんのご発表は「規範に合わせることで身体性を回復するというのは、価値観として保守的」とする意見や、ビクトリア朝の道徳主義による「セクシャリティの描写が露骨すぎる」といった批判を退け、本作を「湖」を自身のうちに統合し、身体と魂を得た、王女の『真の誕生』、新生ウンディーネの誕生ととらえる、新たな見方を提示する内容でした。
たしかに本作、旧来の道徳観の押し付けと見たり、性描写の暗示を無理やり見たりと批判するには、あまりにも多くのメタファーを含んだ作品でありすぎますね。子どもにとっては、多くの忘れられない引っかかりを残し、大人にとってはいろいろな読み取り方に挑戦できる、刺激的な作品と見るべきでしょう。
この場をかりて、あと二つのご発表についても、簡単に感想を記しておきたいと思います。
梶原さんの「『ガリヴァー旅行記』における『異化』」は、大人の文学として出版された本作が、なぜ児童文学になりえたかを考察したもの。そのキーワードは『異化』。本作のとくに第1部の「小人国」と、第2部の「大人国」の物語では、小人の目で見た現実、大人の目で見た現実が巧みな描写と言い回しで活写されており、それが子ども読者にとっても「謎解き」の楽しみとして受け止められたのではないか、既存の価値観に挑戦する大人向けの風刺文学は、子どもにとっては「謎解きや推測の愉しさ」を感じさせる、わくわくする物語だった、という趣旨でした。
確かに、この最初の二篇について考えると、読者に「微視的な視点」と「巨視的な視点」を持たせるという方法が大きな効果を上げていると思います。この二つの視点は大人には風刺を子どもにはファンタジーを提供した、と言い替えることができるのかもしれません。大人にとっての「異化」は、子どもの視点と絶妙に一致した、ということになるのでしょうか。スウィフトは、意識せずして子ども読者にぴったりの作品を描いてしまったんですね。
渡邊さんの取り上げたル=グウィンの『さいはての島へ』は、所謂『ゲド戦記』の第3部です。
邦訳刊行当時、夢中になって読んだけれど、この第3部に関しては記憶があやふやでした。生と死の境界が破壊され、世界の秩序が脅かされる状況を主人公ゲドと後継者アレンが食い止める…
確かそんな話だったな、とご発表を拝聴しながらだんだんと思い出しました。「言葉の意味の喪失」か「アイデンテイティの喪失」に繋がることを暗示した作品で、言葉の多面的な役割について読者に再認識を迫る作品である、とのこと。
本作に提示されている問題は、現代においてもリアリティをもってますね。渡邊さんは作品構造と込められた意味について解き明かされました。
ただ、今になってみるとこの第3巻はシリーズ中盤。ここから物語は意外な展開を見せ、主人公だったはずのゲドは「魔法」を使い果たしてタダのおじさんになってしまう。さらには「魔法」の根幹だったはずの「真の名前」も、魔法の修業場であったローグ学院の権威も、終盤では驚きの相対化がなされてしまいます。
今後は、シリーズ全体を見たうえでの第3巻の位置づけも必要なのかも、と感じました。ネコパパも、機会を見て、シリーズ全体を読み直してみたいと思います。リアルタイムで読んできた体験から言うと、このシリーズ、本当に面白いと感じたのは第4巻以降だったのです。
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コメント
お姫様と王子様の物語は、幾つになっても永遠の物語です♪
でもね、最後に痛風の魔女の足を踏みつけるシーンが^^;)
あれって原作でも痛風なのかしら?
「風が吹いても痛い」と日本では言われているから、
風で飛ばされる、かるいお姫さまの復習に痛風にしたのかなぁ…とか思ったわ。
ユキ
2023/03/23 URL 編集返信ライトシーンでの魔女への「おしおき」は、本物の昔ばなしの「半端なさ」に比べれば、可愛いものだと思いました。
そもそも私は伯母さんにはかなり同情的です。
湖を干上がらせる二度目の魔法は命がけでしたし、一体何が彼女をこの行為に駆り立てたのか、と思いましたね。そもそも、この魔法が成就していたら、当然彼女の命もないわけです。この物語の中で、最も真剣に生きていたのはもしかしたらこの伯母魔女だったのでは、という思いに行きつきます。たとえ闇のものだとしても、魔女の魂には内実があり、その意味で魔女と姫は好対照、ことによると二人は「分身」ではないかという考えが思い浮かびました。
yositaka
2023/03/23 URL 編集返信素直に感情移入出来るんでしょうが・・・。
エエ年になると「おいおい、王子よ、この姫に命を投げ出すのか?」とか、
仰るように「この魔女は、何故そこまで!」とか、
オトナ故の疑問が沸いて(ツッコミどころ満載で)、
それが私の読書の愉しみでもあるのかもしれません。
子宝に恵まれない設定で始まる物語というのも、
(あの王様の台詞や態度とか)
イマドキはNGなんでしょうねぇ💦
ユキ
2023/03/24 URL 編集返信古典作品に現代のメジャーを使うというのも「子どもが読者」という金科玉条で通ってしまうんでしょうか。そこのところ、ネコパパは考えがまとまっていません。
>この魔女は、何故そこまで!
もう自分だけ招待されなかった、無視された、という程度の自尊心の問題じゃなくて、そんな姫がなぜモテる、という激しい嫉妬心と、そんな理不尽に対する、どうしようもない憤怒の情を描いているのかもしれません。マクドナルドはこう書くことで「状況によっては、誰だって魔女になるんだよ」と言っている気がします。
yositaka
2023/03/24 URL 編集返信