Y-XYZさんのブログを訪問させていただくと、あまりに情報量が多く、興味深い楽曲分析や演奏分析に満ち満ちていて、途方に暮れてしまう。ネコパパ、クラシック愛好家なんて自称するのは、10年早いと痛感する。
そんな記事の中で、ルドルフ・ゼルキンが主催し、カザルスが支援した「マールボロ音楽祭」に関する記事が続いて掲載され、興味深く拝読した。そこに、1963年録音のカザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団、メンデルスゾーンの交響曲第4番『イタリア』の話が出てくる。同音楽祭がレコーディング活動に踏み出した最初の成果という。
Y-XYZさんのLP復刻音源からこの録音を拝聴した。いつも以上の優秀音質。そして今回は、重要な「ボーナストラック」があった。『イタリア』のリハーサル場面とカザルスのメッセージの録音である。
これ、聞き覚えがある。
ネコパパの架蔵している、CBS-SONY国内盤LP『ホワイトハウス・コンサート』SOCO69 の特典盤として添付されていたLP『Casals,A living portrait(カザルス、人生の肖像)』 の冒頭部分だ。この2枚組は、カザルスが亡くなった1973年に追悼盤として急遽発売されたもので、価格は2500円。
高校生だったネコパパには一大決心が必要だったが、とにかく買って、何度も聴いた。ホワイトハウスのライヴ盤よりも、特典盤の方を繰り返し聴いた。
1971年にTV放送された、国連コンサートで初めて聴いたカザルスの肉声がたっぷりと聴ける50分、カザルスのソロやリハーサル、公開レッスンの録音など、様々な音源で構成されている。大きなインパクトがあった。
ただ、この特典盤には、一つ問題が。
ライナーノーツには内容の概略が1ページ分記されているだけで、全文の対訳がなかった。実際、聴きながら読んでみると、ほんとに簡単な「抄訳」で、細かいところ、特にマスタークラスでの生徒のアドバイスなどは、ほとんど訳されていなかった。
カザルスの人生や思想は、当時新潮社から出ていた、アルバート・カーン編のカザルス自叙伝『喜びと悲しみ』 (吉田秀和訳)によって、ある程度把握していたし、カザルスの英語の発音も、ネイティブでない聴きとりやすさもあり、大まかには理解できたけれど、細かなニュアンスまではわからない。
隔靴掻痒の気分は、ずっと残り続けたのである。
今回のY-XYZさんの記事には、緻に聴きとられた英文と、日本語訳が記載されていた。
冒頭だけの数分とはいえ、内容は中身が濃く、素晴らしいものだった。
記事へのリンクだけでは足りない。訳出された部分のみ、引用させていただこう。
オーケストラのテューニングが終わると、カサルスが指揮棒で指揮台を叩いて、静粛を求める。
冒頭部を歌って見せる。どうやってフレイジングして欲しいかを伝えようとしている。
実際に、録音を聴けば、この箇所のうねるような演奏が、カサルスがここで歌っているのを実現していることが解る。
And it was not very ensemble, at the number 2 =
2のところ、アンサンブルが甘いと、スコアの箇所を示す。
三連符と四分音符が続く箇所、アクセントを四分音符につけるのではなく、あくまで三連符の頭につけるという、やや破格な指示を出す。
Not notes, one after the other=
団子にせず、一音一音を分離して(3連符のこと)。
(中略)
ここから、Casalsの語りが続く。
私は単純な人間だ。複雑怪奇なことは嫌いなんだ。
音楽でも同じだよ。自然のままを愛するんだ。音楽が求めることをやるんだ。
私はそのためにベストを尽くす。人生だって同じだよ。そして、私にとってはこれこそ文明なんだ。
不正義なること、良くないこと、私たちはそれに対して行動を起こさねばならない。
それを受容するか、拒絶するか、しかし常に行動せねばならない。 ただ、生きているというだけでは十分ではないのだよ。 善なることに自ら参加し、全力で推進し、言葉に出し、著述するのだ。
これは「我々すべての」義務なんだよ。
幸いなことに私は、世間の注目を集めている人間だ。そういう 「特別さ」を受容する人間には、通常の生活を送り、普通に食事し、普通に生きることは許されんのだよ。 世界に影響を与えるべく行動せねばならんのだ。
不正義や醜い出来事を訂正すべく発言する義務を持つ人間が、沈黙を決め込み、日常生活で事足れりとしているのを見ると我慢がならんのだ。私の理解の範疇ではないのだ。
善なることに行動を起こすことは世界のルールであり、一人一人が自分の意見を述べる術を所有しているのだ。
「イタリア」冒頭のリハーサル。
ほとんどの演奏は、軽いピチカートのあと、最初の3連符反復をレガートで繋ぎ、次の4分音符を強めに演奏することが多い。これに対して、カザルスはピチカートを強く打ち出したあと、最初の3連符にアクセントをつける指示を出す。
これによって、音楽の印象は優美な清涼感から一変し、決然と力強いものになる。この交響曲が、まるでベートーヴェンの第5のように演奏されるのだ。まさにカザルスの音だけれど、楽員たちも自分たちの音楽として、強く思いを込めて演奏している、共感音圧が伝わってくる。それを醸成する緊迫した、しかも温かい空気感も、また。
続けてメッセージのパートに入る。この内容をここに持ってきたプロデューサー、トーマス・フロストの意図はわからない。が、この言葉は『イタリア』のリハーサルの延長にあるような気がする。
メンデルスゾーンの譜面が「ただ、生きていることの喜びを肯定し、爽やかに歌おう」とするのに対して、カザルスは鋭く楔を打つ。それがアクセントだ。
「善なることに自ら参加し、全力で推進し、言葉に出し、著述するのだ」この畳みかけが、人生のアクセント。
カザルスは言っている。「普通に食事し、普通に生きることは許されない」
それは、誰もがするような「普通の演奏」に流れるのをあくまで拒む姿勢に直結している。
快楽主義者だったジャック・ティボーは、晩年、カザルスに全幅の信頼を込めつつも、彼のことを「狂った政治家」と呼んだ。冗談半分だったのかもしれない。でも、このメッセージを読むと、ティボーがそんな印象を持ったのもわかる気がする。マールボロ音楽祭に集った音楽家たちは、そういう厳しい姿勢で音楽に対するカザルスを、どう受け止めていたのだろうか。
最近、ある雑誌を立ち読みしていたら、カザルスの録音についての記事が掲載されていた。筆者はカザルスの姿勢は正しくなかった、と論評していた。音楽は政治ではない。音楽家ができることは音楽である。音楽家が「自分の意見を述べる術」もまた、音楽することでしかないのだ…という論旨だった。
これはこれで、まっとうな意見にも思うが、でも、簡単には頷けない。あのフルトヴェングラーも、ナチスの宣伝塔とも見なされていた戦争中の音楽活動について、同じようなことを述べていたような気がするから…
生きることは複雑だ。でも、それぞれのやり方で、流されず、アクセントを刻む。そこに一つの確かさを見ることは、決して無駄ではないと思う。
話を『Casals,A living portrait』に戻そう。
このLPは残念ながらCD化されていないし、特典盤だったから、多くの人の手にはわたっていないだろう。
ネコパパは現在LPをデジタル化する手段を持っていない。しかし幸い、YouTubeでは視聴できる。膨大な資料数を誇るサイト、Internet Archive から、ダウンロードも可能だ。
同サイトから、オリジナルジャケットも発見できたので、ここに掲載し、リンク先も貼り付けておきたい。
興味関心をお持ちの方は、ぜひ聴いていただければ、と思う。
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