ムーミンパパの思い出

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講談社2019.6.25

猫町読書会のムーミン全集を読むシリーズが最終回となり、寂しく思っていたら、2月に番外編で全集全体をテーマにした回が催されるとのこと。
ネコパパ喜んで参加しました。まとめ役の方のお話では9回参加、今回が10回目ということです。えっ、そんなに参加していたとは意識していませんでした。定年後の隠居生活というのは、時間の感覚がないものなんですね。

読書会に参加して何よりの収穫は、翻訳を徹底的に改定した「新版」の存在を知ったことです。それなら全部読み返さなくちゃいけないが、読書会に気づいた時にはもうだいぶ進んでいて、あらためて読み直すモチベーションが出てこなかったのですが、番外編があるのを機会に一番気になっていた一冊『ムーミンパパの思い出』を読み直すことにしました。以下、内容の簡単な紹介と感想を述べたいと思います。

■若きムーミンパパの冒険

本作はムーミンパパが若い頃を振り返って書いた回想録という形をとっています。
楽しいムーミン一家』でパパが書いていた、あの本ですね。
途中、しばしば話が切れて、ムーミントロールやスナフキンやスニフたち、おなじみの面々が顔を出すのは、ムーミンパパがこれをみんなに読み聞かせている設定だからです。

ムーミンパパの出生はもの悲しい。
紙袋に入れられて捨てられていたところを、擁護院「ムーミンハウス」の院長ヘムレンおばさんに拾われ、学校のような厳しい規律の中で育てられます。けれどパパの自由への欲求は耐えがたく、とうとうそこを逃げ出して、放浪の旅に。
やがて、親友となる発明家のフレドリクソン、もの集めの好きな小心者ロッドユール、自由を愛する怠け者のヨクサルに出会い、フレドリクソンお手製の万能汽船『海のオーケストラ号』に乗り込んで、大海に乗り出すことになる…
こう書くと、なんだか血沸き肉躍る冒険譚のように見えますが、そういう展開にはあまりならず、奇妙な登場人物が織りなす、ちまちまとした、ユーモラスなエピソードが続いていくことになります。

ロッドユールはスニフの父、ヨクサルはスナフキンの父で、陽気で豪快なママミムラ(ミムラ)とミムラねえさん(ミムラのむすめ)と、35人の妹も登場。末の妹「ちびのミイ」の誕生や、ムーミンママとの出会いなど、シリーズの全体像をつかむのに不可欠の一冊です。ところが、50年以上前に読んでいたはずのネコパパは、そんな話だったことをすっかり忘れていました。当時のネコパパは何かもっと別の物語を期待していたんでしょうね。

さて、感想です。
全体に感じることは、ムーミン一家の登場する最後の話『ムーミンパパ海へ行く』との関連の深さ。
時間軸としてみると、シリーズ全体の「始まり」と「終わり」にあたること、中心人物がムーミンパパという共通点など、両者を合わせて考えることで「ムーミン・シリーズの基盤』が明らかになってくるように思いました。ポイントは二点。
ひとつ目。ムーミンパパの二面性。
ふたつめ。ムーミン谷の住民は「去り行くもの・消えゆくもの」であること。

まず一点目から考えてみましょう。

■ムーミンパパの二つの顔

今回、シリーズ全体を対象にした猫町読書会で、真っ先に話題に上がったのが『海へ行く』におけるムーミンパパのヘタレぶりです。パパとしてのプライドが保てない、平和な日々を嫌って、家族を道連れにして、無人島に移住してしまう。そのくせ、口で言うほど頼りにならない…傍若無人のワンマンぶりに、読者のみなさんは、よほど頭に来たようです。
そのパパの性格は、既にこの『想い出』に、しっかりと出ています。
自分がとにかく一番目立ちたい。だから、つい大げさに、友だちの気をひく言動が出てしまう。ムーミンパパは回想しながら、そんな自分のことを自己分析しています。
「恐ろしいものというのは大げさに考えるとかえって恐怖心は小さくなるものです。さらに、自分のことを人に強く印象付けるのは、たのしいことですからね」
自分のことを人に印象付けたくて仕方なく、ついつい大げさになってしまう…相手にされないとすっかり落ち込む。
なんと明確な自己分析。その後のパパの行動のとんちんかんぶりのすべては、この屈折した性格から来ていたようです。もっとも、困っている人がいれば、状況も読まずに助けに飛び出すような善良さもパパにはあって、憎めないキャラではあるのですが。
そんな性格の一方で、パパには誰の手も借りずにやり遂げたいことがある。
それは、ほとんどパパそのものと言えるくらいに一体化した希望でした。自分の手で「家=ムーミン屋敷」を作ることです。
思えばヤンソンが書いた最初のムーミン物語『小さなトロールと大きな洪水』は、行方不明のパパをムーミントロールとママが探している場面から始まります。やっと最後に登場したパパは、家を作っていたことがわかり、話の終盤では、洪水で押し流されたはずのその家が、ムーミン谷に流れ着くのです。

『思い出』でも、ムーミンパパがホームを脱走してフレドリクソンたちに出会う前、最初にしていたのは、砂浜に理想の家の設計図を描くことでした。
仲間を得て『海のオーケストラ号』に乗り込んだあとは、家のイメージは「船の操舵室」に託されます。船が島にたどり着き、村での生活が始まると、フレドリクソンは操舵室を切り離し、『海のオーケストラ号』の大改造に取り組みます。ひとりになったムーミンパパは、切り離された操舵室を半ば本能的に「理想の家」に作り変えてしまうのでした。
「ムーミン屋敷」とは、物語にとってただの住処ではない、重要な場所です。そこは住むもの、立ち寄るものが自由を保障され、生きる意味を見出せる「魂のアジール」でした。ムーミン物語は「ムーミン屋敷」の物語でもあったのです。
『ムーミンパパの思い出』は、その出自が自由の船『海のオーケストラ号』の操舵室だったことを語る物語でした。ムーミンパパの役割は、その主であり、総舵手であること。その奥深いメタファーに気づいた時、ネコパパはほとんど目が眩む思いでした。

そんなムーミンパパには、もう一つの顔があります。
「アジールの主」であることを投げうって、謎に満ちた海に出たいという欲望、抑えがたい放浪癖です。
フレドリクソンにとって生きることは、船を造ること。ロッドユールにとっては、宝物を集めること、ヨクサルにとっては、何物にも縛られぬ自由。そう考えると「冒険家」への渇望はパパが最も強いのです。けれども、パパは口ばっかりの意志薄弱な人でもあり、簡単には実行できません。それでも海を旅するニョロニョロの姿を見るたびに、じっとしていられなくなり、ときどき家出する。
ニュロニョロのしているのは「わるいくらし」と誰もが言うのですが「わるいくらし」の内容は、物語では「伏字」になっており、確かに短編『ニョロニョロのひみつ』ではパパの放浪譚が語られてはいるのですが、それがすべてとは、ネコパパにはどうも思えない。
パパには読者に隠された暗黒面があるのかもしれません。

■去り行くもの、消えゆくもの

そしてふたつ目。
ムーミン物語は、そこへいけば、いつでも同じ仲間に会える、というような単純な「キャラクターもの」とは違うということ。住人たちは「どこからともなく生まれ、人知れず去り行くもの」として描かれていることです。いろいろな人々が登場しますが、ムーミンパパが『思い出』を書いている時点ではみんな行方知れずになっている。「別れ」のシーンはないのに、です。

ムーミン谷では、人々は前触れもなくあらわれて、さよならも言わずに、いなくなる。

猫町読書会でも、話題の一つになりました。
「ムーミンの話は。今いてほしいひとがいないね。ムーミンパパのそばに賢明な友フレドリクソンがいたら、パパは無謀な『海へ行く』の旅には出なかったかもしれない」
確かに。
そういえば、最後の旅で無人島に行くのはムーミントロール、ミイ、パパとママの4人だけです。
自由の旅人スナフキンがいないのは、仕方ないとしても、いつも一緒で家族同然の、スニフも、スノークのおじょうさんもいない。
別れの場面もなく、消え去っているのです。
『ムーミンパパの思い出』に登場するロットユールはスニフの父、ヨクサルはスナフキンの父なのですが、この親子は実は、会ったこともありません。彼らの出自はさらに曖昧で、ムーミンパパが紙袋に入れられた捨て子だったことは、さきに触れました。ヨクサルの出自は語られず、ロッドユールは父母が「大そうじのときいなくなった」と書かれています。この言葉は駄目押しみたいに二回出てくるのですが、意味は不明のまま。
フレドリクソンには兄がいました。船の名前『海のオーケストラ号』は、兄の書いた詩集の名前です。ヤンソンは挿絵に素敵な詩人の肖像を描いているのですが、彼については「行方不明になった兄」とあっさり書かれているだけです。書いた詩が紹介されるわけでもない。
終りの方では、ロッドユールの結婚式が唐突に語られ、スニフの出自が暗示されるものの、ヨクサル、ミイ、スナフキンの関係は曖昧なままです。ミイの誕生は描かれても、父親は不明ですし。ヨクサルがママミムラを気に入ったことは書かれているのですが…

存在のはかなさや悲しみを漂わせる、こうした人物の扱い方は、ムーミンシリーズ全体に、無常観にも似た哀愁をただよわせるものになっています。
人も動物も、トロールたちも、現れては消え、一瞬の出会いの中で命を燃やす。これがムーミン物語の世界観なのでしょう。こういう一種突き放した姿勢が、ヤンソンの作品をすぐれた文学にしているのだ、とあらためて思いました。
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コメント

コメント(2)
ムーミンパパはわたしだ! が多いのでは?
ネコパパさん、最近、のってますね。
文章に勢いを感じます。

さて。ムーミンパパについてですが、ぼくは息が小さなころにパペットムーミンを家族で見続けた記憶が強くて、本で読んだのはほんの少しです。

だから、今回、ムーミンパパの若いころのようすを初めて知りました。そうして思ったのは、なんだ、ぼくたちとおんなじじゃないか、ということです。だから、すごい!
 トーベ・ヤンソンがですよ、すごいのは。
 普通の人と異なる人を描くのは、そんなに難しくないとぼくは思います。想像力さえあれば、なんとかなると思います。けれども、なんだ、ぼくたちとおんなじじゃないか、と思わせるのは、想像力以上に他者への観察力、あるいはじぶんを客体視しての観察力が必要になるのではないかと思います。
 ネコパパさん、違っていたらごめんなさい、ネコパパさんはムーミンパパの若者時代を読んで、あ、これはじぶんの若いころのことだと感じませんでしたか?
 あこがれている世界や暮らし方はあって、いまの暮らしに不満はたくさん、でもじぶんには弱いところがたくさんある。

 読んでみたくなりました。

シュレーゲル雨蛙

2023/02/18 URL 編集返信

yositaka
Re:ムーミンパパはわたしだ! が多いのでは?
シュレーゲル雨蛙さん

ムーミンシリーズのキャラクターの中ではスナフキンの人気が高くて、次はミイかな。ムーミンパパはアニメなどでは目立たない紳士的な人物として描かれることが多いけれど、小説ではそうとうぶっちゃけた人物で、読書会でも「困ったパパ」に話題がいくことが多かったのです。
おそらくそれはご指摘通り、自分の中の、見たくない部分なわけですね。ほかの登場人物でもそれはあって、例えばフイリフヨンカなんて、なんとも心配性で神経質なばかりのおばちゃんで、若い頃は何でこんなのがしょっちゅう出てくるんだと思ったものですが、女性読者は切実に自分のことのように感じておられる人が何人もいらっしゃって、やはりヤンソンはそういう人間観察が鋭いんだ、と改めて感じました。

この年になって再読すると全然違う世界が見えてくる。ヤンソンはべたな描き方や読者サービスの説明をしない人なんです。わかる人にだけわかる繊細な書き方をしている。
ちなみに私は、ムーミンパパを昔の自分のようだとは、あまり感じませんでした。あれだけのへこたれなさや集中度は私にはありません。むしろ自分のようだと感じるのは、スニフの父のロッドユールですね。もの集めが好きで、いつもおどおどと自信がなく、でも面白いことがあるとじっとしていられない…そんな感じです。

yositaka

2023/02/18 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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