小澤征爾、兄弟と語る

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岩波書店 3022.3.16

2022年12月、無観客「宇宙放送」で久々に指揮姿を見せた小澤征爾、87歳。
近年は、一夜の演奏会を指揮することはなく、コンサートの一部を指揮する形での参加が大半だったが、それでも、この年齢まで現役。畏敬に値すると思う。
本書は2017年、小澤征爾の過去の記憶を、兄の俊夫、弟の幹雄のふたりが聴き手として引き出していく方法で進められた「会話集」である。内容は、満州移民の家族の子として中国で生まれた小澤征爾が、本人の才能に加え、数奇というしかない巡り合わせや幸運によって「世界の小澤」と呼ばれる指揮者となるに至る経緯を述べた前半と、小澤の音楽観も加え、音楽家との交流や近年の活動を追った後半とに分かれる。

前半の内容は、ドキュメンタリーTV番組などでもしばしば語られ、既視感のある内容も多い。あらためて読んで思うのは、1950年代から60年代にかけて日本が持っていた「才能を押し出す力」の強さである。
この国を覆っていた戦後復興に向かう熱気、「成長への渇望」が、才能ある一人の音楽家を、世界に向けて押し出した。その歩みは、本人も言うように「ちょっと違っていれば指揮者にはなれなかった」はずの綱渡りだった。何か歴史の必然があったとしか思えない。そうでなければ、音楽好きで、当時としては豊かな人脈をもってはいても、経済的には困窮していた4人の兄弟が、各自の才能を生かして「適材適所」の成功者にのし上がることはなかっただろう。

小澤俊夫と征爾のふたりが、縁故を頼って3000円で入手した中古ピアノをリアカーに積み、数日掛けて小田原の自宅まで運搬したエピソードに始まる、サクセス・ストーリーを読み進むことは、痛快であるとともに、今や失われたかもしれない「他者に自らの渇望を託す」ことの意味を考えさせてくれる。

ただ、そこには十分には語られていない、影の部分も暗示されている。

小澤兄弟にはもうひとり、長兄の克己がいた。表紙写真の一番左に移っている人物である。56歳で早世したこともあるが、三人の中では「小澤家に芸術を運んだ」存在としてわずかに語られる。彫刻家を目指しパリ留学もしているが、本書での言及は少ない。小澤征爾の長兄へのコメントも屈折気味で「確執」めいたものが伝わってくる。このことも含め、副題に「ほんとうのこと」と銘打たれてはいても、結局のところ、小澤家、小澤兄弟の「光の当たる部分」だけが主として語られている印象は否めない。肉親による談話記録という方法の限界もあるだろう。
小澤征爾の大きな転機となった、そして、多くのファンが知りたい「N響事件」(1962)の真相も、さらりと触れる程度だ。ただし、征爾自身がこの件について「当時の自分への批判は9割は当たっていた」と述べていることの意味は小さくない。
ちなみに「N響事件」は、単なるスキャンダルではなく、日本のクラシック音楽受容史のに特筆すべき出来事だったと個人的には考えている。マスコミの報道で、小澤征爾の名は全国に知れ渡ったが、それは「N響」の名も同じだったからだ。以後両者は、「良くも悪くも」日本のクラシック音楽を代表するブランドになっていく。

さて、ネコパパ自身が本書で最も印象的だったのは、カルロス・クライバーとの愉快な親交や、マルタ・アルゲリッチの彼氏を全員知っている…云々ではなく、「音楽の深さ」について語られた「第4回」から「第5回」にかけての部分だった。ここでは小澤俊夫も、専門である「昔ぱなし」研究に絡めてコメントを入れてくる。
その部分を少し詳しく紹介したい。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の話題から、小澤征爾は「音楽の深さ」について語り始める。
「音楽は、技術のほかにも『深さ』を要求されたりする。『深さ』なんてなんだかわかんないわけよ」と口火を切ると、小澤俊夫は「文学でも同じだよ」と受ける。征爾はなんとか抽象論から抜け出そうと言葉を探り、親友であったチェリスト、ムスチスラフ・ロストロポーヴィチにたどり着く。
「弦の場合は、弓の先に行くと、ふつう力がいかなくて深さがなくなっちゃうことがある。ロストロポーヴィチは弓の先に行っても根本と同じ音を出す。そういうことはすごく研究しているからできていたんじゃないかな」
弓の先まで力がいって、音が満ちることを、小澤征爾は「音楽の深さ」ととらえるのだ。
これを受けて俊夫が「文学は深さを探求するのに1ページにとどまれるが、音楽は一瞬だからな…それだからこそ、深さが大きな役割を持っているんだ」と語る。
次に征爾が例に出すのは合唱。日を改めた談話の席で、俊夫の奥様の牧子さんも加わって「ハーモニー」の重要性が俎上に上がる。コーラス体験者の牧子さんが「音楽の深さは(歌っていて)ゾクッてする感じ」と話すと、征爾が「合うときがね」と応ずる。
次いで話はチェリストの宮田大と共演した、2012年、水戸室内管弦楽団とのリハーサルの話になる。「あの時征爾さんが宮田さんに伝えたかったことが深さってことなのかなあ」と牧子さんが話を向けると、征爾はまたしてもロストロポーヴィチを引き合いに出して「結局、低音なんだよ。低音ってことは、ハーモニーなんだ」
低音がハーモニーのベースだから、チェロはハーモニーに意識を持っていきやすい。だから低音をしつかりと意識することで「深い音楽」が生まれてくる、というのが小澤征爾の考えのようだ。話題があちこちに飛ぶので、文脈が追いづらく、また確信をもって何かを断言する展開にはならないが「深さ」とセットでロストロポーヴィチと低音の話になるのは一つのパターンのように繰り返される。
低音とハーモニーの関係がどうなっているのか、ネコパパにははっきり読み取れない。けれど、2012年の水戸でのリハーサルの模様はTVで見た記憶がある。曲はハイドンのチェロ協奏曲第1番。どちらかというと繊細で抑制気味に弾こうとする宮田に、小澤征爾はより強く、強靭なフレージングを要求し、リハーサル時間はどんどん伸びてしまう。結局その疲労がたたって、小澤征爾は本番の指揮を降版し、指揮者なしでの本番になってしまうのだが、この画面を見ていてネコパパは「小澤はきっと、ロストロポーヴィチのように弾かせたいようだ。でもそれは、小澤がオーケストラに求める音楽のスタイルとは違うんじゃないのかな…」と感じていたことを思い出した。

「低音をしっかりと響かせ、弓の先まで根本の音を出す」深い音楽。
小澤征爾の指揮した演奏で最もそれに近い者と言えば、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」と、モーツァルトの「ディヴェルテイメントK136」だ。特に2010年、病気療養から久々に復帰して第1楽章だけを指揮した「弦楽セレナード」は、壮絶だった。いずれも師、斎藤秀雄直伝の2曲である。斎藤の楽器もまた、チェロだった。小澤征爾にとって音楽の深さとは、師の音楽にどれだけ肉薄できるか、という問題だったのかもしれない。

もうひとつ、面白い記述がある。
ロストロポーヴィチとのエピソードが続くと、小澤俊夫が「おれもスイスのマックス・リュティに会ったのは大きかった」と、自身の話につなぐ。リュティに学んだ「昔ばなし」理論に音楽との共通性があるという。「昔ばなしは三回の繰り返しがあって、同じ場面を同じ言葉で語る。しかも三回目のが一番大事で強い。音楽も同じ。パーフォームと同じなんだよ。同じメロディーが二度出てくる。本当に似ているんだよ。僕も音楽が好きだからね。その意味でもおもしろかったんだ。(昔ばなしと同じように)音楽も形が問題でしょ」リュティと自身の交友と研究姿勢に、小澤俊夫はロストロポーヴィチに似たものを感とったのだろう。
「三回の繰り返し」が音楽の深さとも結びつくのかどうか、ネコパパにはちょっとわからないのだが。






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コメント

コメント(2)
3回のリフレイン
<「昔ばなしは三回の繰り返しがあって、同じ場面を同じ言葉で語る。しかも三回目のが一番大事で強い。音楽も同じ>
うん、なるほど・・・と思わせてくれる話しです。というのも・・・先日、拙ブログ(夢見るレコード)で取り上げた、キース・ジャレットの「シェナンドー」という曲(と演奏)、あれ・・・「昔話し」ではないけど、アメリカの開拓史時代の労働者たちの郷愁みたいな感じを歌った、(一般的な意味での)アメリカ民謡・・・という曲だったわけで、そのキースのピアノのソロ演奏が素晴らしい!ということで記事にしたのです。その演奏の中の、特に素晴らしい・・・と感じた場面を、あえて自己分析していくと、演奏の最後の方、メロディーを繰り返す場面があって、それがやっぱり3回、リフレイン(ポピュラー曲のエンディングではよく使う手法ではありますが)するんですよ。
そのメロディーの箇所をあえて説明しますと~「ド=・シ・シー・ラ・ラーー・ソ・ラ・ソー・ミ・ミー」(ハ長調に直すと)の箇所なんですが、この3回のリフレインを強弱、音の深さの微妙にニュアンス変えて、なんというか・・・じわっじわと心に響いてくるような感じなんですよ。3回目にグっと音圧が上がってくると・・・もうなんだか素直に感動・・・という気分になりました。僕自身、キースjジャレットという人のピアノにこれほどソウルフルなものを感じる、とは思ってもみなかったことなのです。

まあその辺も好みの違いもありますから、こういう「3回」リフレインが、「くどい」「しつこい」「わざとらしい」と感じる方も、居られるであろうし、だから・・・「3回」というある種の手法も、その表現の仕方次第、ということかもしれませんね。

bassclef

2023/02/10 URL 編集返信

yositaka
Re:3回のリフレイン
やあ、bassclef君、いいコメントをありがとう。

>3回のリフレインを強弱、音の深さの微妙にニュアンス変えて、なんというか・・・じわっじわと心に響いてくるような感じなんですよ。3回目にグっと音圧が上がってくると・・・もうなんだか素直に感動

3回が「くどい」と思う人もいるのかな。でも、2回ではいまひとつ気勢が上がらず、4回ではそれこそ「またかい」と感じるかもしれなくて、3回はちょうどよい、っていうかギリギリの線じゃないでしょうか。「感動」はそう簡単には訪れてくれない。ほんとにぴたりと狙いを定めないと。それが昔ばなし、物語でも、音楽でもそうなのかもしれない。
今パッと具体例が上がらないけれど、例えばソナタ形式も、主題提示、主題展開、主題再現で、その再現部でクライマックスに達するように書かれているわけで、人の『琴線触れの法則』は「3」にあるのかもしれないですね。

yositaka

2023/02/10 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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