「星野君の二塁打」をめぐって④

新聞記事によると、書籍「『星野君の二塁打』を読み解く」で、テクスト本文の考察を担当した米津美香助教(教育学)は、原作版と教科書版の違いについて書かれているそうだ。記事から再度、引用する。

処分を言い渡された星野君が「異存ありません」と答える原作版に対し、教科書版はその発言が削られ、「うつむいたまま」で話が終わる。この変更を米津助教は「学習者に対して葛藤を生じさせ、特定の道徳的価値を導く」ものだと説明。その上で「『教育効果』を高める一方、本来、原作が持っていた広がりや多様性を矮小(わいしょう)化してしまう可能性がある」と述べる。

教科書版の変更が「学習者に対して葛藤を生じさせ」るためのものだという点は、まあそうだろう。けれどもそのあとの論旨がわからない。書籍は注文したが、版元品切れらしくなかなか届かない。
ということで、今回の記事は、先行研究はひとまず無視したネコパパ独自研究である。
教科書版は東京書籍版https://nekopapaan.fc2.net/blog-entry-2013.html
をそれぞれ使用する。
まずはプリントアウトして、ざっと異同をチェックしてみると…

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結末が違うだけでなく、設定、人名、細部の詳細さなど、少なからぬ違いがあった。
内容を検討する前に、原作の出典から確認しよう。

初出:雑誌「少年」光文社   1947(昭和22)年8月号

「少年」とはまた、懐かしい。
ネコパパも昔定期購読していた。「鉄腕アトム」「鉄人28号」の連載で名を挙げた少年雑誌である。1947年は創刊の翌年で、もちろん、あの2本の漫画も始まっていない黎明期てある。ネットで同号の書影を探したが、それは見当たらなかった。
かわりに同年3月号をアップしておく。
掲載の5か月前のものだが、戦後2年で、野球がすでに少年たちのあこがれのスポーツの一つだったことが伝わってくる。当時の少年雑誌は漫画中心でなく「読み物」と呼ばれる挿絵付きの連載、および読み切りの小説が多く掲載されていた。
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■少年野球ではなく、高校野球の話だった

原作では、星野君の所属チームはR町少年野球チームではなく、R中学野球部であり、試合に勝ったチームは、郡内少年野球大会ではなく、堂々、甲子園出場を決めたのである。
第二次世界大戦中、1942年(昭和17)から、旧制中学を対象とした全国中等学校野球選手権大会は中止されていたが、戦後1946年(昭和21)の夏には早くも復活。全国中等学校野球連盟と朝日新聞社の共催で、第28回大会を挙行した。
新制中学校制度は昭和21年4月から発足している。
しかし旧制から新制への移行は3年かけて行われ、当初は同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって24年度に全学年の義務就学が完了した。23年度から新制高等学校が発足し、旧制中等学校の2年生と3年生は、新設の高等学校に中学校を併設するなどの経過措置がとられている。
「星野君の二塁打」は戦後再開されたばかりの甲子園大会を背景とし、旧制中学から新制中学の移行期にある生徒たちを登場人物としている。レギュラー選手の星野君は、今なら高校生の年齢だろう。
当時としてはリアルタイムの題材を扱っているわけである。

■星野君の判断は冷静だった

では、二つのテクストの違いを見ていこう。まず目につくのは、登場人物の名前である。
監督の名前は、原作では別府ではなく今井。一塁に出ている前打者は、原作では岩田君ではなく山本君である。
そして星野君は星野三郎とフルネームで登場する。
序盤での大きな相違点は、星野君がバントをやめて独断でヒットに切り替えるまでの経過が、とても詳細であること。三人称だが、星野君の視点で内面の描写がされている。
原文を引用。

安打が出そうな氣がしてならないのだ。それも、二壘打か三壘打になりそうな氣が、しきりにするのだ。バントのギセイ球で、アウトを一つとるのは、もつたいない氣がする。
だが、野球の試合で、監督の命令にそむくことはできない。自分の意見をよく話して、今井先生に賛成していただくひまがないのが殘念なだけだ。[中略]
ランナーの山本は二壘手だつた。そして、足の早い選手とはいえなかつた。だから、できるだけ壘からリードして、走壘に有利な態勢を取ろうとした。
T中學の投手は、なかなか投げない。バッテリ間のサインは、よういにきまらない。
そのあいだに、ランナーは少しずつ壘からはなれはじめた。ああ、少し出すぎた。バッター・ボックスにいる星野がそう思うのと同時に、敵の投手は一壘へケンセイ球を送つた。速い球だ。あぶない。
山本は砂けむりをあげて、すべりこんだ。
壘審は、たなごころを下にして、兩手をひろげている。セ-フ!
あぶなく助かつたのだ。
一壘のコーチャーが、おお聲でランナーに何かいつている。
山本の張りきつた動作を見ているうちに、星野の打ちたい氣もちが、また、むくむくとあたまをもたげてきた。「打てる。きつと打てる。確実にヒットが打てさえすれば、むりにバントをするには及ぶまい」…

星野君は、打席に立つ以前から、時間さえあれば、自分の意見をよく話して、今井先生に賛成してもらうだけの自信を持っていたことがわかる。
打席に立ってからも、彼は冷静で、ランナーの山本が、足の遅さをカバーしようと危険な盗塁をする様子を観察し「むりなバントをするには及ぶまい」と判断したことがはっきりと書かれている。
ネコパパは、野球のことはよく知らない。
が、こうした選手の動きを的確に観察して状況を読み取る力があるからこそ、星野君は、その存在が試合の勝敗を左右するほどの「いいピッチャー」なのではないか、という想像も膨らんでくる。
教科書版では、盗塁のシーンも含め、このような部分がそっくりカットされているため、(山本あらため)岩田の張り切った動作を見て、星野君も「血気にはやった」としか読めなくなっている。

■監督の処断に対する「大人の対応」

試合の翌日の練習日の場面は、原作版、教科書版の異動は少ない。
監督が選手たちを前に話すときに「ポケットから煙草を出してライターで火をつけ、深く吸い込みながら」説諭する描写と、星野君の名前を出す直前に「吸いかけのタバコをぼんと、すてた」描写をカットしているのは、読んでいてイラッとするが、当時は当たり前のことで、今では時代に合わないからカットした、と、好意的に解釈しておこう。
しかし、今井監督が、選手たちに向かって、顔を真っ赤にしてまくしたてる言葉は、どうだろうか。

「まわりくどいいい方はよそう。ぼくは、きのうの星野君の二壘打が氣にいらないのだ
「學生野球は、からだをつくると同時に精神をきたえるためのものだ。團体競技として共同の精神を養成するためのものだ。自分勝手なわがままは許されない。ギセイの精神のわからない人間は、社會へ出たつて、社會を益することはできはしないぞ」
「統制をみだしたものをそのままにしておくわけにはいかない。罪にたいしては制裁を加えなければならない

「気に入らない」は、これまで「気持ちよく」練習を続けてきたが…というさきの発言と対応して、監督が個人の感情とメンツで野球の指導をしていることをはっきりと伝えている。
今井には、指示を聞かないことは罪で「罪にたいしては制裁」なのである。

教科書版では、これらの恫喝的な言葉をすっかり書き改めて、いくぶん棘のない、ソフトな言い方に変更している。R中野球部の今井監督と、R町少年野球チームの別府監督は別人なのだ、といわんばかりである。たしかに教科書版の別府さんの言葉遣いは、一見紳士的だ。
しかし、言っている内容は、二人ともまったくおなじである。
ネコパパはむしろ、資料化するにあたって、改竄が行われたという事実に着目したい。
子どもたちにこの二つを比較する時間を作ってみたら、彼らはどう思うだろうか。このような「言葉の巧みなすりかえ」こそが「罪」であり「罪にたいしては制裁を加えなければならない」と考える子も出てくるように思うし、むしろ期待してしまうのだが…いやいや、こっちまで顔を真っ赤にしてはいけないね。

そして、教科書版ではバッサリと削除された、結末部分を引用しよう。

「ぼくは、星野君の甲子園出場を禁じたいと思う。當分、謹愼していてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは甲子園の第一予戰で負けることになるかも知れない。しかし、それはやむを得ないこととあきらめてもらうより仕方がないのだ。」
星野はじつと涙をこらえていた。いちいち先生のいうとおりだ。かれは、これまで、自分がいい氣になつて、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。
「星野君、異存はあるまいな。」
よびかけられるといつしよに、星野は涙で光つた目をあげて強く答えた。
「異存ありません。」
今井先生を中心とした若い中学生の半円は、そのまま、しばらくくずれずにいた。
はげしい太陽が、ひと氣のないグラウンドをまつしろに光らしている。(おわり)

教科書版では丸ごとカットされて「オープンエンド」になっていた部分が、原作版では以上のようになっている。
米津美香氏は、教科書版のカットは「『教育効果』を高める一方、本来、原作が持っていた広がりや多様性を矮小(わいしょう)化してしまう可能性がある」と述べているそうだが、この部分の「広がり」「多様性」とは、何をさすのだろう。どうもよくわからない。
星野君は「いい氣になつて、世の中に甘えていた」というのだが、具体的には、どの行動をさしているのか。打席に立った彼が、周囲の状況を冷静に観察したうえでバントの指示を無視する判断をし、ヒットを狙ったことだろうか。
そうかなあ。
あのとき星野君は、監督も気づいていないかもしれない、ランナー山本の「焦り」を見極めていたのだ。バントをやめる判断は、気まぐれや感情だけでは決してなかったと読める。ヒットに切り替えた判断が「いい氣になつて、世の中に甘えていた」行為とはどうしても思えないのである。
だとしたら、あてはまる部分は一つしかない。

「自分の意見をよく話して、今井先生に賛成していただくひまがないのが殘念なだけだ」

監督にきちんと話し、筋を通すべきところを「ひまがない」として避けていた。
試合中の選手の動きは見極めても、感情的な監督のいらだちにまでは目が行っていなかった。
R中野球部にとって忌むべきことは、集団のルール云々ではない。
感情的、恫喝的な今井監督の機嫌を損ね、自暴自棄にさせることだった。つまり「世の中に甘えない」とはこの場合「長いものには巻かれよ」「出る釘は打たれるぞ」「忖度を旨とせよ」という世知に長けることを意味しているのかも…というのはまあ、半分冗談だが…

■道徳資料に良し悪しはない

原作版と教科書版の比較をしてみて思うことを述べてみよう。
まず原作版は、昭和22年という時代状況を色濃く反映した「少年向き娯楽読み物」で、当時の価値観を抜きにして読み解くことは、もはや難しいと思われる。
一方教科書版は、原作を現代の子どもに通用する(と信じた)内容に換骨奪胎したうえで、議論のネタにふさわしいオープンエンドに改作したもの。内容を「軽くうのみ」にさえしなければ、批判的検討の素材として授業の使用に耐えるだろう。

ただ、これを使って道徳の授業を行う場合、教師が原作版を読み込んでおくことは、事前準備として大きな価値がある。監督の、一見いかにも筋が通っていそうな言い分の中に「相手を下に見る者特有の、高圧的な意識や恫喝」が隠れていることが、原作版を読むことで実感できると思われるからだ。
価値観を代弁する人物、この場合は監督の物言いに違和感を覚えることが、道徳的批判意識の始まりである。
「ほんとうに、そうなのか」と疑うことから「考え・議論する」時間が生まれるのだ。
その意識を持った教師が、この「星野君の二塁打」をつかって道徳の授業を行うなら、たとえ指導案上はオーソドックスな「指導書なぞり」だったとしても、実際の授業で生徒にかける言葉がけや反応は、指導言はきっと違ってくるし、生徒の発言の内容も「建前」から「本音」へ、目に見えて変わっていくはずである。
ネコパパは、教師生活の相当な時間を道徳授業の研究に費やしたから、これはかなり体験に裏打ちされた実感である。

とすれば、道徳の資料、題材、教材に、いい、わるいはない。

すべては教師の使い方(包丁さばき)次第だからである。
資料に偏向を見て取れば批判的に、心から共鳴できる資料なら、共感的に扱えばよいのである。わずか1ページの「寓話」にも「考え・議論する」観点は数多く見つけることができる。
「優れた授業には優れた資料が必要」と、探し回ることも大切だが、多忙すぎる教師の仕事のなかに、その時間を取るのは容易ではない。教科書でも副読本でも、身近にあるもので効果を上げる。そのために「目」と「耳」を鍛えるのが、教師の研修なのだと思う。
これは、決して道徳の分野に限ったことではない…と書いたところで、連続記事はここで一区切り。あとは書籍の到着を気長に待つことにしよう。
(おわり)

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コメント

コメント(4)
論旨には沿わないコメントですが
猫パパさんが取り上げた「星野君の二塁打」の問題ですが、正直な話、みっちには何が問題なのかサッパリ分かりませんでした。(笑)
そもそも朝日新聞の記事がよく分かりません。『「監督への服従の押しつけだ」との批判も多い』『指示に背いた選手が処分されるこの作品が「軍国主義的だ」と批判された』というのですが、これが本当に世間の多数の評価なのでしょうか。
天ケ瀬正博なるお方は、これがアイヒマンの裁判における弁明につながる、とおっしゃっている。こりゃあまた大層な例を持ち出したものです。また、米津美香なる方は、原作と教科書版(短く書き直されている)を比較して、何か述べられているが、これがさっぱり理解不能の文言である、とこんなところなんです。

みっちは野球ぜんぜん詳しくないですけど、いちおう50年代60年代の少年時代には野球見るの大好きでした。ですからルールはむろん分かります。同点に追いつかれた9回裏の攻撃で、先頭打者が幸運なヒットで1塁に出塁した。次のバッターは今日はあまり当たっていない3番打者の星野君である。このシチュエーションで監督が出した送りバントの指示というのは、どう見ても理不尽な指示とは思えません。

どうも、みっちは自分では気づいていないが、そろそろ認知症の気が出てきて、物事のとらえ方が根本的に間違ってきているのだろうかと不安になり(笑)、ネットを検索してみました。
https://withnews.jp/article/f0180825000qq000000000000000W03z10101qq000017680A
これなんですけど、憲法学者の江藤祥平に朝日新聞が取材した記事です。内容はおおかた、みっちの考えと違わないものだったので、ちょっと安心いたしました。(笑)はは〜ん、始めに引用した主張は、少なくとも世間のすべてではないんだな、と気付いたわけです。この江藤祥平氏の記事中では、彼自身の少年野球の経験が語られています。彼は監督からルールに反してはいないけれど、星野君よりももう一歩犠牲を強いられる指示を受けて、それに逆らうのです。この述懐が、取材記事をとても面白くしています。 

みっち

2021/07/14 URL 編集返信

yositaka
Re:論旨には沿わないコメントですが
みっちさん
いささかマニアックな記事で面食らってしまったかも。それでも読んでいただけたんですね。
道徳の授業は、いろいろな考え方があり、なかなかひとつには決められない課題を教師も生徒も一緒になって考えるところが面白いのです。
「星野君の二塁打」の世間の多数の評価がどうであるとかは、あまり問題ではなく理不尽、妥当、軍国主義的、いろいろな意見があっていいのです。
ただ、授業ではそれを「言いっぱなし」にするのではなくて、複数の意見をすり合わせ、根拠も含めて一致点や不一致点を探っていく。そうすることで、物事を多面的にとらえるトレーニングができると思います。
新聞記事には、大人の意見がいろいろ出ていますが、その「すり合わせ」がないのがよくないのですね。場合によっては「そっちかよ」と思うような「放言」になってしまうんですね。私などは、普段、世間の話題にもならない「道徳」がこんな形ででも新聞記事に取り上げられることが嬉しいんです。
米津美香氏の発言の真意は、私にもまるで見当がつきません。それで気になって件の本も注文したのですが、なかなか来ません。

yositaka

2021/07/14 URL 編集返信

往時茫々、昭和22年
 そうか、少年野球はいまの高校野球なのか。時代が移ると、言葉の意味が変わりますね。「少年」の指す範囲がかわったのでしょうか?
 思い出したのは、「少女」という言葉の変遷です。古い小説ですが、田山花袋の『少女病』という小説があります(日清戦争の頃の作)。これがもし現在ならばストーカー扱いされるような話ですが、主人公の中年男性が郊外の新興住宅地の原宿・代々木界隈(!)から職場のある飯田橋だったかな、まで鉄道での通勤途中出会ういろいろな「少女」を追尾し観察するが悲劇的な結末(?)を迎えるというお話です。が、ここでの少女はいまの少女よりはやや年長さんでして、20代前半くらいまでが少女という括りでした。
 1947年の少年も少女と同じく、旧制中学くらいを中心にして、やや年長に及んだのかも知れません。我が父はその年17歳でした。旧制中学ではないけれども、実業学校の一つ、永山農業学校の林科(リンカ)5年生だったかと思います。ところがそのころ、学生改革があり、新制中学と新制高校との移行期に当たります。生徒はそのどちらで卒業してもよいということになりました。多くの生徒は旧制実業学校を卒業して就職しました。当時は労働力不足で、林科の多くは営林署勤務となりましたが、我が親蛙は高等学校同等が気に入って、1年残ったら景気が悪くなり、就職ができなかった(無職)そうです。
 それはさて、この当時の少年の、というよりも社会の男性の言語生活は、やはり帝国陸軍、空軍のそれの擬きであったと思います。というか、帝国の軍隊の物言いは、ずいぶんと残り続けました。戦後20年以上経ったウルトラQ、ウルトラセブンを見ていても、うわー、これはって思いますもん。先々週だったか、ウルトラQは「東京氷河期」、そのちょっと前に見たウルトラセブンのM3から来た男。どちらも戦争引きずっている感ありありです。マンガ雑誌だって、サブマリン707だとか読んでましたもん。「ダン、ソガ隊員、出動だ」「ハイッ」みたいな。そういう時代の文脈から切り取って教材とするのはタイヘンだなー。
 というか、教材といえども、それらの教材が書かれた当時のコンテクストを無視し得ないのでなかろうか、と考えるぼくはダメダメなんでしょうか、と思います。文学研究なんかしていると、たとえば鱒二の『山椒魚』なんかは、プロレタリア文学全盛+エロ・グロ・ナンセンス流行の当代にあって、そのどちらにもつかずに閉塞する売れない鱒二という境遇を抜きにして、これは読めないのだろうけれども、教材はそういうコンテクストに引っ張られずに、「普遍的な読み」の可能性を目指すって偉そうに言っている教科教育学者もありそうだけれども、それじゃあ、あんたは何様? 時代や地域などのコンテクストから超絶した普遍のGod1? ってぼくは思ってしまいます。

じつは教材が宿命的に抱えるこの「引き裂かれ」こそが普遍的だと思うのですが。ネコパパさんの授業はそこを問題にしている辺りがおもしろそうですが、これ、誰にもできるわけでないと思います。教科書会社の学習指導書が幅を効かせていたり、ね。

あ、また長くなってしまいました。ごめんなさい!

シュレーゲル雨蛙

2021/07/15 URL 編集返信

yositaka
Re:往時茫々、昭和22年
シュレーゲル雨蛙さん
長く真摯なコメントありがとうございます。
>教材が書かれた当時のコンテクストを無視し得ない
まったくその通りだと思います。
でも教育現場には、なかなかそういう発想がない。
コンテクストはコンテクストでも、教育的有用性のコンテクストに引きずられがちなのです。
ネコパパが指導員として市内の各校にお邪魔するときなどは、できるだけ資料の出典にさかのぼって助言するように心がけていましたが「本時のねらい」に直接関係のない話として、スルーされてしまいがちでした。
道徳だけでなく国語でもそうなんです。
ましてや最近は、実用文を重視せよという風潮があり、設問では、事故の読みではなく、つまらなく典型化された、仮想読者による複数の読みの表面的な比較ばかりやらされるというのでは、書かれた当時のコンテクストの重視からはますます遠くなるばかりです。

それにしてもこの作品が本来昭和22年を舞台にしたものだということは、無視できない事実です。しかも「少年向き娯楽読み物」です。
のちのスポ根漫画にもつながる傾向ですが、その種の読みものの方向性は「人情話」で、少年主人公は、絶えず理不尽な「試練」「逆境」「無理解」にさらされながら「なにくそっ」と頑張り、涙の勝利をつかむというストーリー。
つまりこれは道徳的な話というより星野君の「試練」を描いた続き物の一部みたいなものなんでしょう。だから監督の言い方や態度もそれにふさわしく盛っているわけです。

「ウルトラセブン」そうでしたね。
彼らは地球防衛軍、軍人なんです。前作「ウルトラマン」はパリに本部を置く科学特捜隊、つまり捜査を本務とする団体でしたから「セブン」のほうが武装も一層強力で、隊員職員の数もずっと多い。リアルタイムで見ていた私に何の違和感もなかったのは、今考えると不思議です。
のちに作られた「ウルトラマン80」は、当初主人公が教師と軍人を兼務するというヤバイ設定でしたが、さすがにこれはまずかったのか、途中で設定変更となりました。

yositaka

2021/07/15 URL 編集返信

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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