「星野君の二塁打」をめぐって③

まず「本時のねらい」を検討してみよう。

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「態度を養う」「気づく」と、道徳らしい書き方になっているが「きまりは守ろうとする」「守らなければならない」と、実質、行動目標のようで、これは「道徳」の目標としてはなじまないし「考え・議論する」前に結論が出ているようなもの。具体的に努力目標や行動目標を決めるのは「学級活動」の領域に任せることにして、ここでは例えば「意義」に着目して「きまりや規則の意義について議論し、考えを深める」と変更してみてはどうだろう。

次に導入である。
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道徳の時間は「開始3分、できれば1分で子どもをハッとさせ、期待感を持てるように演出する」
これはネコパパが指導員として、いつも強調していたことである。
子どもは大方道徳なんて「眠い」時間と思っている(教師もそうかも)。
それでは「考え、議論する」モチベーションは生まれてこない。
この案は日常から入る、典型みたいな導入になっているが、「きまりや規則」といっても「学級のきまり」と「野球のルール」は、そもそもまったく別のもの。本題に入りにくい状態で、つまらない反省会を続けるのは避けたいところだ。
ではどうするか。
例えば、実際にあった事例だが、教師が野球のユニフォームを着用して登場。ビニールのバットもあるといい。そこでいきなり「僕は星野だ。今、試合中で、打順が回ってきた。得点のチャンスだ。だけど、今僕は困っている。みんな、相談に乗ってくれるか」と語りかける。野球利子愛らしい効果音をつけるのもいい。これだけで子どもたちは「え、どうしたの?」と身を乗り出すだろう。
方法はいろいろあるが、「導入とは子どもに身を乗り出させること」と考えたい。

次は、展開の前段。
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二つの葛藤場面がある。
ひとつは、監督にバントを命じられた時の星野君の葛藤と、監督の指示を無視して二塁打を打った後の気持ち。
もう一つは、試合に勝って大会進出が決まったのに、星野君は指示を無視したことを咎められ、処分されることになった、そのときの内面に渦巻く思いだ。

一つ目は、悩むのはわかるが、やはり打ちたいという星野君に共感する意見が多いだろう。ここではあえて「議論」するよりも、そこを共感的に受け止めさせたい。
問題は、二つ目の部分だ。◎になっているのは「中心発問」という意味である。授業の山場だ。
多くの生徒は星野君に共感的な考えをもつと想像できるので、監督の話に対しては怒りを覚えたり、不当な仕打ちと感じる子どもが多いと思われる。
そこで教師は、意見を多様化するために、一度書かせてみたり、グループで話し合いをしたりして「多様な意見」が出るようする。
そのうえで、子どもの考えの「変容」を求めるために「補助発問(切り返し発問)」を繰り出すことになる。
たとえば、こんなふうに。

T:いろいろな意見が出たね。ほかの人の意見を聞いて、発見はあった?
「僕が打ったから勝てたのに」といったS君、「みんなが指示に従わなくなったらチームワークも崩れてしまうかも…」というKさんの意見を聞いて、どう思った?
ぜひ聞きたいな。
C:うーん、Kさんの意見もわかる。星野君は、自分のことだけ考えていたかもしれない。野球はチームワークだから、星野君もいけないところがあったかも。
C:うんうん。
C:K君に付け足しで、今は勝っても、チームが監督の指示を聞いたり、聞かなかったりして、バラバラなら、大会ではきっと負けると思う。

前回の記事で示したシミュレーションの一部だが、こうして、ほかの子どもの意見に「気づかされる」という形にもっていき、さらに「S君のように思う人?」とか「最初の意見が変わった人?」と問いかけ、挙手させたりすると、教室の雰囲気は「ルール重視」に移っていくはずだ。ねらいに迫るための「教師の戦略」である。
そのうえで価値の内面化をはかる「後段」に移る。
なお、展開の「前段・後段」とは、「教科化」以前には広く流通していた概念で、道徳授業の根幹部分「展開」を「資料を用いて話し合う」と「資料から離れて、主題を自己の問題として振り返る」(価値の内面化、あるいは主体的自覚とも呼ばれた)段階に分け、前者を前段、後者を後段と呼びならわしたもの。ただ、最近はあまり使われなくなっている。
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教師がいつどの場面で補助発問をするかが、授業の方向性を決める。
これも、ネコパパが指導員として再三、助言してきたことである。
補助発問によって子どもの問題意識を引き起こし、形式的に流れやすい授業を「考え・議論する」時間にできる可能性は、高い。
だが、上のようなやり方では、むしろ「教師の求める価値観」に誘導してしまう印象が強くなる。
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道徳では、葛藤場面の検討は一人の主人公に絞られることが多い。
視点人物が増えれば複雑になるし、論点が絞りにくいからだ。
しかし「星野君の二塁打」の場合は、監督に対する「批判的なまなざし」を加えていくことが、どうしても必要なように、ネコパパには思われる。ここで扱われている「ルール」が絶対正しいという前提を崩さない限り「考え、議論する」ことは難しいからである。

展開前段では、前述のように、監督の話に怒りを覚えたり、不当な仕打ちと感じる子どもがきっと多いはずだ。とすれば、その意見を生かしつつ、議論のテーブルにもっていく道があるはずである。
例えば、指導案で見るなら「監督の話を聞いて星野君はどう思ったでしょうか」という◎中心発問を

「結果がよかったからと言って、規則を乱したことに変わりはない」という監督の発言をどう考えますか?

と変更してみるのはどうだろうか。
あるいは視点を変えて、

いまの状況で、R町チームは郡内選手権大会を勝ち進んでいけると思いますか?

と、大局的な発問にしてみるのもいいかもしれない。

そこは子どもの実態に合わせて柔軟に考えてみよう。「賛成」「反対」の立場でグループ協議、全体討論をしてみるのもよい。
発問のねらいは「考え、議論する」場面を生み出し、いかに「深堀り」できるかであり、結論を絞る必要はない。意見が活発で授業時間が足りなくなるかもしれないが、問題はない。
しかし「予想される反応=期待する意見」を引き出すために補助発問を打つのは、教師の大切な役割である。
ネコパパなら、次のような「予想される反応」を期待して、時にはいささか挑発的な一言も飛ばしたいと思う「別府監督って、尊敬できるか?」とか。

・ここで問題にしているのは、交通ルールや生活のルールではなく、スポーツのルールなのだから「よい結果」は最大限に尊重されるべきで、星野君は褒められるべきだ。結果を出した選手を褒めないで、強いチームになれるのだろうか。
・監督はさかんに「チームの作戦」って言ってるけど、それ、監督個人の「判断」だと思います。はっきりそう言えばいいのに。個人とチームをごっちゃにする監督の言い方は、おかしいと思う。
・バッターとしてしたことを話している途中で「星野君はいいピッチャーだ」というのは、おれ(例・野球部員)だったら、嫌だな。君はバッターとしては期待してないから、と言われているみたいな気がする。個人の評価で指示を変えるのが「チームの作戦」なのか。それにその評価、間違っていたし。

必要に応じて「補助資料」を示すのもいい。
ネコパパなら、例のニュース記事をもとに資料を別紙で用意し、必要に応じて配布したい。

2018年、日本の大学アメリカンフットボールの強豪校同士の試合での出来事です。
この強豪チームでは、監督の言うことに従うのは絶対的な「ルール」であったそうです。監督は「相手選手をケガさせるくらいのタックルをしろ、そうでなければ試合に出さない」という指示を出し、選手は監督の指示通り、パスをし終わった後の無防備な相手選手にタックルするという危険行為を犯し、全治3週間程度の怪我を負わせました。
これは、試合中に監督の言うことを守るという「ルール」に従った選手の事例です。
あなたはどう思いますか。

助言はここまで。
あとは、個人的感想を一つ、述べよう。
この話で一番印象に残るのは「試合で勝って上の大会に出場できる」という千載一遇の成果を得たわりに、幸せな気分が全くないことだ。
スケープゴートにされた星野君は無論のこと、監督は『これまで気持ちよく練習を続けてきたの』に水を刺されて、重く沈み込んでいる。
一方選手たちは「星野君をそのままにしておくわけにはいかない」という監督の言葉を聞いて、一斉に顔を上げ、監督を「見た」。
彼らの気持ちはいろいろ想像できるが、喜んでいるものなどひとりもいないに違いない。
「ルール」とは何のため、誰のためにあるのか。
少なくとも、その集団、その社会のーに属する人々の人権を守るために、つまり「みんなが幸福になるために」存在しなければならない、それこそ「きまりや規則の意義」ではないか、とネコパパは思う。一点の曇りもないはずのR町野球チームが、幸せでない、それがルールのせいだとしたら、それはルールというより「呪い」みたいなものではないか。
どんなルールも、人によって作り出されたものだ。だから不完全。人を救う時もあれば、呪いになることだってあるはずだ。その不完全性に寄り添いながら「適切に運用」することが、人間が「ルール」と付き合うやり方なのではないだろうか。

次は「星野君の二塁打」のテキストについて、少し述べてみたい。
(つづく)

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コメント

コメント(2)
なるほどです
読みを分厚くする授業ですね。勉強になります。中村雄二郎がどこかで書いていた第二の自然としての制度論ですね。昔、高校生相手に教材として扱いました。
小学校でもここまでできるのかとびっくりです。

シュレーゲル雨蛙

2021/07/12 URL 編集返信

yositaka
Re:なるほどです
シュレーゲル雨蛙さん
小学生でも中学生でもできますよ。条件は教師の「聞く耳」です。子どもの鋭い発言は、どんな言葉でやって来るのか、わからないからです。

誰かが「いいピッチャーって、なんだよ」とボソッとつぶやいたその瞬間。
「そんなん、チームの作戦じゃ、ないじゃん」と隣の子にささやいたその時。
「今なんて言った?」「それってどういう意味?」と問い返す機転。それによって、深まりや議論のきっかけが生まれてきます。

私はかなりの数の小中学校の道徳の研究授業を参観していますが、かなりの確率で先生方は、そんな子どもの「鋭い一言」を見逃し、聞き逃していました。
ということは、低学年から中学生まで、子どもの発言は常に傾聴すべき「深み」や「鋭さ」を孕んでいる、ということなのだと思います。
「聞く耳」を育てる研修が必要でしょうね。

ネットの記事の中で、ある先生が「星野君ってピッチャーだったんですね」とコメントしていて驚きました。本文中に2回も出てきますよ。
そういう先生は「何がいいピッチャーだよ」と子どもがつぶやいても、意味不明でスルーするしかないでしょう。ひどい場合は「そこ、うるさい」と注意したりして…

yositaka

2021/07/12 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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