「星野君の二塁打」をめぐって①

こんな新聞記事が出ていた。7月6日、朝日新聞家庭欄。
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少年野球で監督のバントの指示に従わなかった選手がメンバーから外される「星野君の二塁打」という児童小説がある。道徳の教科書にも使われているが、「監督への服従の押しつけだ」との批判も多い。戦後すぐに書かれた定番教材で描かれる「罪と罰」を、どう読めばいいのか。奈良女子大学の教員4人が今春、体育学や心理学、倫理学などの観点から考える本を出版した。

 集団生活でのルールを考えるための道徳教材として長く使われている「星野君」。2018年にあった日大アメフト部の悪質タックル問題を機に、注目を集めた。アメフト部の監督からの指示の有無が大きな社会的関心を呼んだことで、指示に背いた選手が処分されるこの作品が「軍国主義的だ」と批判された。

 奈良女子大の教員4人が、そんな批判を学術的に分析し、作品の教育現場での使われ方を考えたのが「『星野君の二塁打』を読み解く」だ。
 たとえば天ケ瀬正博教授(心理学)は、戦中のナチスに触れる。多くのユダヤ人を強制収容所に送り込む責任者だった官僚アイヒマンは、逮捕後の裁判で「祖国の法と旗に従っただけ」などと無罪を主張した。これを例に、「単に規則だから、みんなで決めたことだから、星野君は守らなければならなかった」と読解させてしまうと、子どもたちが自ら考えることなく集団に同調し、権威に服従するようになってしまう危険性があると指摘する。

 米津美香助教(教育学)は、原作版と教科書版の違いに着目した。処分を言い渡された星野君が「異存ありません」と答える原作版に対し、教科書版はその発言が削られ、「うつむいたまま」で話が終わる。この変更を米津助教は「学習者に対して葛藤を生じさせ、特定の道徳的価値を導く」ものだと説明。その上で、「『教育効果』を高める一方、本来、原作が持っていた広がりや多様性を矮小(わいしょう)化してしまう可能性がある」と述べる。

 出版を提案した功刀(くぬぎ)俊雄教授(体育学)によると、4人は執筆前、「どのように読むべきか」という議論をあえてしなかった。取材に対し、「まとまりに欠けるかもしれないが、その分、多面的に考える材料になると思う」と話した。
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引用終わり。

「星野君の二塁打」は道徳資料としては古くから使用されている、有名なものだ。
小学校で使われることが多いので、中学校勤務が多かったネコパパは自分では授業を行った記憶がない。小学校の高学年は担任したので、忘れているだけかもしれないが。
ただ、市の道徳指導員を7年ばかり務めたので、研究授業の助言は、何度かしている。どんな助言をしたのかはあとにして、まずは資料を読んでいただこう。
新聞に紹介されている漫画版はないが、平成15年に使われていた東京書籍版道徳副読本(まだ教科書ではなかった)『希望をもって』に掲載されていた指導用本文がネットにアップされていたので、まずはそれを引用してみる。
なお、出典となっている吉田甲子太郎の小説は、現在はパブリックドメインで「青空文庫」で読むことができる。
記事で米津美香氏の指摘している「原作版と教科書版の違い」に関しても、あとで検討してみたい。

では引用。
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物語をざっと要約してみよう。

少年野球チームの試合の場面。
7回裏R町チーム最後の攻撃で、R町チームは最初の打者岩田がヒットで一塁に。次の打者は星野君である。
監督の別府さんは星野君にバントの指示。今日の打席が不調な星野君は、名誉挽回を狙っていたので監督の指示は納得がいかない。
「打てそうな気がするので打たしてください」と頼むが、監督は認めない。「はあ」とあいまいな返事で打席に。その時はランナーの岩田をバントで二塁に送るつもりだったが、岩田が張り切った動作をするのを見てどうしても打ちたい気持ちが募り、姿勢を変えてヒットを飛ばす。二塁打だ。
この一撃でR町は試合に勝ち、都内野球選手権大会出場が決まった。
しかし翌日の練習で別府監督は、祝いの言葉をのべたあと「一つ大きな問題があるんだ」と、口を濁す。「ぼくは監督を引き受けるときに、君たちと相談してチームの規則を決めた。試合の時などにチームの作戦として決めたことには、絶対に従ってもらわなければならないという話もした。君たちは快く賛成してくれた。それでぼくも、気持ちよく君たちと練習を続けてきたのだ。だが、この約束が破られた。星野君にバントで撃たせるというのは、そのときのチームの作戦で、星野君は不服らしかったが認めた。ところがいったん認めておきながら、勝手に打撃に出た。これはチームの規則を乱したことになる」
続けて監督は「野球はただ勝てばいいんじゃないんだよ。健康な体を作ると同時にチームワークの心を養うためのものなのだ。星野君はいいピッチャーだ。だからといって、ぼくはチームの規則を乱したものをそのままにしておくわけにはいかない」と断ずる。
星野君はうつむいたままだった。

以上のようなストーリーである。
新聞記事に掲載されている「マンガ版」は見ていないが、写真を見る限り、同じ展開のようだ。ただ、監督の「このままにしておくわけにはいかない」がより具体的に「次の試合は控えとしてベンチで応援してもらう」に変更されている。

実際の授業では、これでどんな内容を教えようとするのか。
東京書籍版の資料が掲載されている平成15年度の指導案の指導内容(指導項目)は「約束や規則の尊重」
当時の指導要領番号4-(2)「主として集団や社会 とのかかわりに関すること、公徳心をもって法やきま りを守り,自 他の権利を大切にし進んで義務を果たす」となっている。まあ、この項目が順当なところだろう。みなさんが小学校の先生なら、どんな授業をされるのか、考えてみるものいいでしょうね。
道徳の授業では「資料の差し替え」もしばしば行われる。「こんな資料じゃ授業できん、他のをさがす」ということでもいいわけだ。そのあたりの柔軟さは、他の教科とは違う「特別の教科」の特別さの一つといえるかもしれない。
(つづく)
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コメント

コメント(4)
よくわかりませんが・・・・・・。
安全安心に万全を尽くして〇〇〇〇〇〇を無事に開催させるためには規律が必要だ。みたいなときに、居酒屋に馳せ参じる蛙を改心させるのに役立つ教材なのでしょうか?

道徳をどう解くかは、ほんとうに難しい。小学校で分かりやすい教材を、ということでこういうストーリーを使うのでしょうが、私が気になるのは、それが「譬喩」のストーリー、あえていうならば「寓話」になっていることです。

どういうことかというと、社会的な規範意識を涵養するのが目的ならば、社会的な規範意識に関わる現場での問題を取り上げるべきでしょう。たとえば、クラス担任の先生から廊下は右側通行を守りましょうと言われた。ところが太郎君は早く体育館に行って遊びたかったので、いつも人がそんなに通らないところだから大丈夫だろうと判断して、前を歩いている児童を追い越すために廊下の左側を走り花子さんとぶつかり、花子さんは転んで膝を擦りむいてしまった・・・・・・。みたいな教材はおもしろくないけれども、社会的な規範がなぜ必要か、規範を破るとどのようなことがおきるのかなど、一応矛盾なく説明できると思います。

けれども、ネコパパさんが紹介した「定番」教材は、社会的な規範意識を涵養するために社会的な規範意識とは異なるスポーツを使う。スポーツは社会的規範を使う場面とは異なるのです。それというのもスポーツは、「疑似社会的規範(スポーツのルール)」を守って行動する場面ではあくまでもそのルールに従うけれども、しかし、その行動はDOやWORK等ではなくPLAYと現されるものだという点で、行動自体はあくまでもPLAY GAME(「ごっこ」を遊ぶ)ものなのです。
「ごっこ」遊びで大切なのは「ごっこ」としてのルール(規範)であり、たとえばスリーアウトをツーアウトだと言い張ったり、ファウルをヒットだと言い張ったりするのはこれは規範に外れる行為だと批判されるでしょう。

しかし、そのルールに「監督」のいうとに従うというルールはありません。
そもそも大人の「監督」という存在そのものが、子ども中心の「PLAY GAME(「ごっこ」を遊ぶ)」というスポーツの基本精神に反する反社会的な存在だと言えると思うのです。子どもの自主性を奪ってしまう行為にほかなりませんからね。その「監督」が自分で示したルール(規範)はあくまでも私的な必要から設定した私的な規範(私法)だと考えるのですが。
子どもたちが自分たちから相談して決めた規範だったならば、ローカル・ルールだとぼくは認めますが、大人と子どもとでは、言葉に出そうが出すまいが、そこには無言の非対称的な権力関係が構造化されているのではないかと案じます。

これは「げなげなばなしは嘘じゃげな」という諺ではっきりとわかるように嘘という文学(※)である「昔話」に現実の社会規範を押しつけて断罪する、文学としての昔話を貶める俗悪番組「昔話裁判」と全く同様の、PLAY GAME(「ごっこ」を遊ぶ)として洗練された歴史を持つスポーツを貶める行為であり、PLAY GAMEの精神からすると極めて不道徳的な行為であると言えましょう。
(※「柳田國男は「嘘」を芸術=文学だと捉え、現実の人を騙す「偽り」と厳しく区別できるとしています(『不幸なる芸術』)。)

と、ひとまず、まじめに言ってみますが、しかし、こういうストレートに社会規範についての題材を扱うのでなく、あえて遊びという寓話(たとえ話)「教材」を使って、子どものためにとあてがわれる「教材」は、使い道があると思います。それはこのように「社会的規範」を「遊び」という異質な時空にまで拡張して押しつけて来る「教材」というものを、無邪気に信用してよいのか、その根本的な規範意識の有り様を問うための教材として活用する方法です。そうするならばおもしろい教材になるかもしれませんね。

シュレーゲル雨蛙

2021/07/07 URL 編集返信

Re:よくわかりませんが・・・・・・。
シュレーゲル雨蛙さん
道徳の資料でも現場での問題を取り上げることはよくあります。そういう場合も、簡単に「最善の方法」が見いだせないものを選び、多様な意見を出せるように導くのです。教員は「指導」の意識が強いので、とかく「最善の方法」を絞りたがるのですが、それは「道徳」ではなく「学級活動」の時間で行うというのが指導要領の示すものです。教室では「誘導」によって一つの価値観にもっていきたがる教員が多いし、研究授業でもそれが奨励とまではいかないまでも、指導案通りの展開をよしとする傾向がありますね。

「事例」と「寓話」、授業ではどちらも使いますが、先行研究や指導案が多く、安心して授業に臨めるのは「寓話」が多い。「星野君の二塁打」が長く使われているのもそういう理由があるのでしょう。

「社会的な規範意識を涵養するために社会的な規範意識とは異なるPLAY GAMEを使うのはどうかという疑問は大変納得できます。一方、スポーツは多くの子供にとってもはや「社会そのもの」といってもおかしくない存在感を示しており、教員の興味嗜好もそれに近いと感じることがあります。「生活よりもスポーツのほうに生きるリアリティがある」というのは、昨今のオリンピック騒動でも感じることです。スポーツを単なるゲームとして相対化できない共同意識が日本社会にある。監督を外部の存在として相対化するなんてことは思いもよらず、組織の上司、家族の家長と考えてしまう意識も自然にできてしまう。
そんなわけでこれは、良くも悪くも「生徒に身近な事例でで考えやすい資料」という位置づけになっています。

それらの意識の変革を図り、教材そのものの在り方をも相対化して批判の対象にするような授業ができればいいと私も思いますが、実際にはなかなかそこまではいきません。といって、レールに沿って走るだけの展開では、子どもの心に残るような授業はできず、結局指導目標を達成するには遠いことになります。そこで次は、授業の展開について述べてみたいと思います。

yositaka

2021/07/07 URL 編集返信

考えさせられます…。
> (つづく)
あとが楽しみです。この御論だけで云々するのは的を射ないこととなるかもしれませんが…。

社会の構成をゲーム(とそこでのルール)にたとえた論は、G.ベイトソンなんかにもあったかと思います…“過去問”への引用で見た記憶で、明瞭ではありませんが。
その点から申しても、
> (ゲームの)ルールに「監督」のいうとに従うというルールはありません。
> そこには無言の非対称的な権力関係が構造化されている
という雨蛙先生のご指摘、ここに尽きるかとも思うのです。

この「ルールを超えたルール(=監督への従順)」の「非対称的権力関係」を、あくまでも「教育」の根柢に確固として据えようとしてきたのが、ずっと我が国の教育施政だった、という気がします。

興味があるのは、米津さんという方のいう、本来「原作が持っていた広がりや多様性」とはどういうものを指すのか、というところです。

原作の、
「星野君、異存(いぞん)はあるまいな。」/「異存ありません。」
も、教科書版の
「星野君はうつむいたままだった」
も、ともに「ひとつの結末に心理的に同調させる」ものとしか読みえないのですがねえ。

> 〇〇〇〇〇〇を無事に開催させるためには規律が必要だ。 by 雨蛙さん
まさに「〇〇〇〇〇〇を無事に開催」することに反対するのは、反国家的・反民族的な分子なのだ、とアジり、それにヤンヤの拍手を送る、というそんなマインドを涵養しようと、こうした「物語」を70年にわたって(教科書には1950年登場らしいですね)使ってきた、と、40~50年前を振り返ってしみじみ、です。

‥‥言葉が過ぎましたら、すみません…。

へうたむ

2021/07/08 URL 編集返信

yositaka
Re:考えさせられます…。
へうたむさん
「無言の非対称的な権力関係が構造化されている」のが、良くも悪くも教育現場であり、社会構造そのものかもしれません。
現場の教師はそれをしっかり意識して「構造下で生き延びる策」を子どもと対等の視点で考える…そこに道徳の時間の価値があると個人的に考え、取り組んできたつもりです。成果がどれだけあったのかは微妙ですが。

「原作が持っていた広がりや多様性」について、記事を読む限りでは不明瞭ですし、結末部分の違いだけでは理解しかねるところです。米津さんの見解を知るには該当書を読まなければいけないのですが、まずは自分なりに考えてみることにします。原作と教材分を読み比べると、原作は「ひとつの結末に心理的に同調させる」こととは、やや違ったところに読者を導いているように思えました。いずれ記事にしてみたいと思います。

「ひとつのマインドを涵養」するほどの力が、はたして教育にあったかな、と思います。世の中の教育に対する信頼度は低迷の一途です。学校が権威性、規範性を体現していた時代は過去のものとなりました。学校が「ほどほど」の存在となって教師師たちが過度の負担からいささかでも解放されるとしたら、それでいいと私は思っています。

yositaka

2021/07/08 URL 編集返信

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子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
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