ネコパパ、蓄音機サロン「童謡を聴こう②動物の世界」を語る。

談話室香津原蓄音機サロン「童謡を聴こう②動物の世界」
2021.6月13日(日) 

2020年12月に続いく2回目の童謡サロン。動物の出てくる歌を年代順にご紹介しました。調べれば調べるほどわからないことが出てきます。特に戦前の童謡歌手については調べがつきません。とりあえず、あちこちから引用して用意したメモを掲載します。
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かなりや(1918・大正7)  
コロムビアC33A 1948.4発売
作詞:西条八十 作曲:成田為三 歌:安西愛子・川田孝子

■「童謡」の誕生
雑誌『赤い鳥』では数々の童謡が掲載されたが、曲のついた童謡として初めて発表された作品である。
この曲の発表以降、童謡に曲を付けて歌われることが一般化。原詩『かなりあ』は1918年(大正7年)の『赤い鳥』11月号に掲載された。のちに『赤い鳥』と繋がりの深い作曲家であった成田が曲を付け、1919年(大正8年)5月号に『かなりや』と題名を改めて楽譜とともに掲載、同年6月に開催の「赤い鳥」1周年記念音楽会でも歌われた。
翌年の1920年(大正9年)には、港区立赤坂小学校の高学年の女子児童をメンバーとした「赤い鳥社少女唱歌会会員」の歌唱によるレコードが、日本蓄音機商会から発売。レコード化された童謡としては最初期の作品とされる。
西条八十が生涯の研究対象としたフランス象徴詩の手法によってファンタジーの世界を構築した「唱歌」とは異質の歌詞と、成田による曲のコラボレーションにより「童謡」が誕生したのである。

■安西愛子
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安西 愛子 本名:志村 愛子、1917年4月13日 - 2017年7月6日)は、当時としては数少ない「大人の童謡歌手」である。東京音楽学校本科声楽科卒業、同研究科(現東京芸術大学大学院)修了。1942年、同校研究科卒業ののち、コロムビアレコード専属の歌手となる。1949年には松田トシと共にラジオ番組『うたのおばさん』(NHKラジオ第1放送)に出演、1964年まで番組を担当する。1964年の東京オリンピックに際しては、三浦洸一(ビクターレコード専属歌手)と共に『東京オリンピックの歌―この日のためにー』を発表した。


七つの子(1921・大正10)  
キング A17-2A 旧番号57024 1941.3or4発売
作詞:野口雨情 作曲:本居長世 歌:河村順子

■七羽か七歳か
1921年(大正10年)、児童文学雑誌『金の船』の7月号に発表。
『七つ』という言葉が「7羽」を指すのか「7歳」を指すのかは明らかになっておらず、度々論争の種となっている。「7歳説」への有力な手がかりとして、野口雨情記念館の館長(雨情の孫娘)は、雨情の息子がこの歌のモデルであり、その息子が7歳のころに作られた歌であると語っているとのこと。また、7歳という年齢は野口雨情自身が母親と別れた年齢と合致することから、そこに関連性を見出す説もある。

■河村順子
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1925年(大正14年)8月27日[1] - 2007年(平成19年)1月20日)父は童謡作曲家の河村光陽。妹もそれぞれ童謡歌手の陽子(1927年11月18日 - 2021年2月7日)、博子(1929年8月9日 - )である。1932年(昭和7年)「かごめかごめ」「お薬とり」でポリドール・レコードからデビュー。1936年(昭和11年)キングレコードに移籍し、同年2月、父河村光陽が作曲した「うれしいひなまつり」が大ヒット。以降父の作曲した「かもめの水兵さん」「りんごのひとりごと」「赤い帽子白い帽子」などがヒットした。「かもめの水兵さん」は、戦前・戦中の童謡SP盤で最高の売れ行きを記録したという。天性の音感の良さと高音から低音までムラのない声域の広さで、どんな歌もすぐに歌いこなす天才ぶりであった。

兎のダンス(1924・大正13)  
ビクターB113A 旧50899-A 1929年9月発売
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 歌:平井英子

■独創的な擬態語とリズム
絵雑誌『コドモノクニ』(東京社)1924(大正十三)年五月号掲載。「耳に鉢巻」は、兎の長い耳が踊っているとき邪魔になるので、手ぬぐいで縛っておこうというリアリズム。兎が跳ねる「ラッタ ラッタ」という擬態語も画期的である。「赤靴」には、雨情の何らかの思い入れがあるようで『赤い靴』の詩を思い出させる。
昭和四年(1929年)、初吹き込み。歌手は平井英子、 ピアノ伴奏は中山晋平自身が行っている。
レコード番号ビクター 50899-A(JVE681-1)/録音年月日1929年7月29日/発売年月日1929年9月25日(10月新譜)。このレコードにより、歌、踊りの人気を独占した。

■平井英子
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平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 2021年2月21日)は、大正末期から昭和初期にかけて童謡のジャンルで活躍した日本の歌手。東京府東京市四谷区出身。7歳で幸田露伴の妹幸田延子に師事しピアノを学ぶ。作曲家の中山晋平の門下生となり、1928年(昭和3年)、ニッポノホン(日本コロムビアの前身)から童謡歌手としてデビューする。日本ビクターの創立と同時に専属の童謡歌手となる。野口雨情・中山晋平のコンビによって作曲・作詞された童謡を主に歌っていたが、浅草オペラの立役者だった佐々紅華が作詞・作曲したオペレッタ風の楽曲も歌い、1929年(昭和4年)に発表され、大ヒットしたお伽歌劇「茶目子の一日」が特にお気に入りだという。
独特の舌っ足らずの歌い方が可愛らしさを感じさせ、中山も彼女の持ち味を最大限に生かした歌い方を指導。「英子調」と呼ばれて人気を博した。
1934年(昭和9年)に変声期のため童謡歌手としての活動を終え、1936年(昭和11年)に流行歌手として再デビュー。喜劇俳優の岸井明とのデュエットによる「煙草屋の娘」が大ヒット。20代半ばの頃、作曲家・鈴木静一と結婚し歌手活動を引退した。
東京都内の老人ホームに入居していたが、2021年2月21日17時30分、老衰のため104歳で死去したことが2021年5月13日に報じられた。


証城寺の狸囃子(1925・大正14) 
ビクター50669A 1929年3月発売
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 歌:平井英子

■作詞者と作曲者の合作
千葉県木更津市の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」に想を得たもので、曲は1925年(大正14年)に発表された。雨情が千葉県木更津市を訪れた際に知った、木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」をヒントに作詞を行い、児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。中山晋平が歌詞を一部改作し、曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表。
中山のアイディアは、最初の出だし「しょ、しょ、しょうじょうじ〜♪」に見られるように、同じ音の繰り返しを多用する事で、歌をリズミカルで軽快なものにすることだった。編集長の斎藤佐次郎は「証、証、証城寺と、くりかえしたり。「ポンポコポンのポン」などのハヤシ詞(ことば)はすべて晋平さんの創作です」と証言している。
実在する寺「證(証)誠寺」の狸囃子伝説を元としているが、じょうの表記に「城」の字を用いているのには、寺の抗議を避けるためなどの諸説がある。また歌詞には一切「狸」が出てこないのも大きな特徴である。
・録音年月日 1929年1月8日
・発売年月日 1924年3月1日(3月新譜)。
1946年(昭和21年)から放送された東京中央放送局(のちのNHK)のラジオ番組「英語会話」(講師は平川唯一)では、テーマソングとして『証城寺の狸囃子』の替え歌『Come Come EveryBody』(カムカム エブリボディ)が使用された。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。


ニャンニャン踊り(1932・昭和7)  
コロムビアA47B 1946年4月発売
作詞:西岡水郎 作曲:佐々木すぐる  歌:大川澄子

■レコード童謡の初期の傑作
西岡水朗(にしおか すいろう 明治42年(1909年)生. 昭和30年(1955年)4月23日没)は、長崎県出身の作詞家であった。佐々木すぐる(本名:佐々木 英、1892年4月16日 - 1966年1月13日)は、童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。
この曲は童謡レコードとしては後続だったポリドール社が「童謡レコード」のために依頼したオリジナルの新曲で、1932年、永岡志津子が創唱。これがヒットしたため、戦後はライバル会社のコロムビアでもこうして録音されたようだ。猫の頭に紙袋をかぶせて躍らせる歌詞はやや問題もあるが、猫のしぐさが踊りのリズムでに乗って、巧みに表現されている。

■大川澄子
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ビクターの平井英子に対抗するために、コロムビアが昭和7年、西巣鴨第三小学校在学中に専属歌手として契約。当時9歳。作曲家、佐々木すぐるは童謡講習会「青い鳥音楽園」を昭和3年に設立して歌唱・合唱指導、普及活動に努めており、大川はその門下生であった。佐々木は「京人形」「青い鳥」「月の沙漠」などに起用して100曲以上録音したほか、有名唱歌や童謡のカバーも膨大に録音。この曲も初期のヒットの一つで、戦後の再発と思われる。旧番号は不明だが、明らかに子どもの歌唱で、ポリドール盤とそれほど違わない時期の録音と思われる。


あひるのせんたく(1936・昭和11) 
ビクターV40057B 1947.12or1948.1発売
作詞:佐伯孝夫 作曲:中山晋平 歌:佐々川浩子

■歌謡曲の名手による童謡
佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 1981年3月18日)は、日本の作詞家。西條八十門下生の1人。1931年に国民新聞社(現在の東京新聞社)入社、1937年には東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へと移る。記者時代から作詞を始め、のち『有楽町で逢いましょう』などで高名となった。この歌は記者時代の作品である。
1936年は、鈴木三重吉の死去により「赤い鳥」が終刊、二二六事件によって時代に陰りの見えてくる年であった。この年に佐伯が童謡に手を染めた理由や、曲の背景は分からないが、八十の門下生であり、サトウハチローとも親しく、翌昭和12年(1937)「コドモノクニ」に同じく中山晋平の作曲で「島の子供」を掲載している記録があるので、誘われて童謡の歌詞を手がけていた可能性がある。たおかあさんのあひるがせっせと洗濯している横で、こどもあひるがそれを真似、洗うふりしてせっせと汚す…教訓性のないユーモアが光った歌である。


おさるのかごや(1938・昭和13)  
コロムビア C26A 1956年8月発売?
作詞:山上武夫 作曲:海沼実       歌:三木節子

■レコード番号の謎
前回もご紹介した山上武夫(1917年2月8日 - 1987年11月2日)作詞、海沼實(1909年1月31日 - 1971年6月13日)作曲によるヒット曲であった。土俗的な雰囲気の世界が、威勢の良い掛け声の軽快なリズムに乗って楽しく歌い上げられる。典型的な「レコード童謡」と言われ、関係者からは擬音語に頼った安易な作と批判されたが、子どもたちには歓迎された。
オリジナル録音は1939年12月にビクターから、尾村まさこの歌で発売された。終戦後は1946年に大道真弓、続いて川田孝子が1948年にレコードを出し、それぞれ大ヒット。今回お聞きいただくのは、前回ご紹介した大道真弓盤とまったく同じレコード番号と原盤番号をもちながら、歌手が三木節子という「同曲異盤」である。
YouTubeにアップされた動画には1956年8月発売とあったが、レコード番号の記載もなく、正確という確証はない。

めんこい子馬(1941・昭和16)  
コロムビアC59A 1951.2発売
作詞:サトウハチロー 作曲:仁木他喜雄  歌:伴 久美子

■軍馬の悲劇を換骨奪胎
1940年(昭和15年)12月にコロムビアレコードから発売された童謡。発売当初の表記は「めんこい小馬」。歌は二葉あき子、高橋祐子。陸軍省選定。東宝映画「馬」の主題歌として作られたが、劇中では使われなかった。映画の封切りに先立ち、昭和十五年十二月一日にコロムビアよりレコードが発売。NHK国民歌謡としても1941年(昭和16年)1月17日から松原操の歌で放送された。
戦後は戦時色のある部分が改変された。
「戦地」の歌詞の入った三番と、「軍馬」の歌詞の入った五番を省き、四番を三番とし、新しい四番を書き加えた歌詞となり曲名も「めんこい子馬」に変更。昭和26年2月、伴久美子と杉の子子供会の歌でレコードが発売された。軍馬として売られていく内容が削除され、馬の一日の歌になっている。
スタジオジブリの劇場映画『火垂るの墓』(1988年)、及び『ちびまる子ちゃん』の劇場映画『わたしの好きな歌』(1992年)両作中で使用され、その為か現在でもよく知られている(後者作品においては、戦後の歌詞ではなく戦前の歌詞が使用された)。

■伴 久美子
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伴 久美子(1942年(昭和17年)4月10日 - 1986年(昭和61年)5月10日)は、東京都荒川区出身。幼少期より地域活動のアマリリス児童合唱団に入り、1951年、小学校三年生の時、NHK『子どものど自慢』に1位入賞。 たまたま、その時の歌唱を聞いていた佐々木すぐるの目に留まり、コロムビア専属童謡歌手となる。 佐々木の指導方法に無理があったため、半年後突然声が出なくなるという不幸に見舞われるが、コロムビアの当時の担当ディレクター足羽章が指導方法を改善した結果、歌えるまでに回復、サトウハチロー、中田喜直などが曲を提供し、「猫踏んじゃった」「めんこい仔馬」「わらいかわせみに話すなよ」などたくさんのヒット曲を吹き込む。引退後は、家業である時計メーカーを継ぎ、専務取締役となったが、1986年(昭和61年)5月10日、脊髄腫瘍により44歳で死去。


蛙の笛(1946・昭和21)  
コロムビアA318B 1947.1発売
作詞:斎藤信男 作曲:海沼実     歌:川田正子・川田孝子

■マイク一本のデュエット
昭和二十一年八月十八日、NHKのラジオにて発表された。
前作「里の秋」の人気が高まる一方で、教職を退いた当時の斎藤の作詞である。斎藤の回想によると「昭和二十一年(1946年)四月十二日の夜ふけ、疲れ果てて横になった寝床へ―コロコロ コロコロコロ と、冬眠から目がさめたばかりの蛙のかわいい声が聞こえてきた。それが、悶々としてやるせない胸には―ガンバレヨ ガンバレヨ―と聞きとれるではないか。…よし頑張ろう、ついては、優しく励ましてくれた蛙たちに、思い切り早春の夜の美しい歌をプレゼントしようとして書いたのが、この作品「蛙の笛」である」
専門家の意見では、この声はシュレーゲル青蛙、という指摘もある。
レコードは「みかんの花咲く丘」の裏面で、昭和22年3月20日に録音、昭和23年1月発売。録音現場の様子について川田正子は次のように証言している。
「せっかく二人が歌うのだからと、海沼先生は合唱用のアレンジを用意してくれたりもしました。「蛙の笛」などを、私がソプラノ、孝子がアルトで二部合唱したのを覚えています。マイクが一本しかなければ、私の方が少し前に立ちました。そうしないと孝子の声で、私の声がかき消されてしまうからでした」

■川田正子・川田孝子
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川田 正子(かわだ まさこ、1934年7月12日 - 2006年1月22日)は、日本の童謡歌手。幼少期より日本で最も伝統のある児童合唱団音羽ゆりかご会に所属し、童謡作曲家の海沼實(のちに継父となる)に師事して才能を開花させ、童謡や唱歌を数多く歌唱。
川田 孝子(かわだ たかこ、1936年10月30日 - )は、日本の童謡歌手。姉は童謡歌手の川田正子、妹も同じく童謡歌手であった川田美智子。作曲家、音楽教育家の三代目海沼実は甥にあたる。姉の正子が童謡歌手を引退した後は、日本の童謡界をリードする童謡歌手として1959年(昭和34年)に結婚し引退するまで長きに渡って活躍した。 
当時、川田孝子は他の童謡歌手よりも非常に声量が豊かであったと言われ、姉のように変声期で苦しむこともなく、NHK紅白歌合戦にも2回連続出場している。


かわいいかくれんぼ(1951・昭和26)  
コロムビアC115A 1952年発売
作詞:サトウハチロー 作曲:中田喜直 歌:安西愛子

■絶妙のリズム変化と静謐感
昭和26年1月8日、NHKのラジオ番組「歌のおばさん」で放送された。1954年文部省芸術選奨文部大臣賞を受賞。サトウハチローと中田喜直のコンビによる最初の童謡で、続く作品に「ちいさい秋みつけた」「夕方のおかあさん」「わらいかわせみに話すなよ」などがある。
童謡研究家の池田小百合はこの歌を戦後童謡の最高傑作と評価し、卓越した魅力の一つにリズムの変化を上げている。「ひよこがね」の「ね」のやさしい呼びかけ、効果的な「ぴょこぴょこ」の擬態語の巧みさ、「見えてるよ」と「よ」を使って主部をまとめ、締めくくりは「だんだん だァれが めっかった」と、突然わらべ唄のリズムに変化する。ラストで変化した世界が、次節で元に戻る呼吸の見事さは類がないと述べている。曲全体に静謐な空気が漂い、長い間奏部は「ちいさい秋みつけた」を思わせる美しさがある。


<参考文献>
親子で読んで楽しむ日本の童謡 郡修彦 2004 KKベストセラーズ
童謡歌手からみた日本童謡史 長田暁二 1994 大月書店
童謡百年史-童謡歌手がいた時代 井上英二 2018 論創社
童謡の近代-メディアの変容と日本文化 周東美材 2015 岩波書店
童謡の百年-なぜ「心のふるさと」になったのか 井手口彰典 2018 筑摩書房
本居長世-日本童謡先駆者の生涯 平成17 国書刊行会
「金の星」ものがたり-童謡を広めた男たち 2002 毎日新聞社
童謡唱歌でたどる音楽教科書のあゆみ 松村直之 2019 和泉書院
なっとく童謡・唱歌 池田小百合ウェブサイトhttp://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyostudy09.htm
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コメント

コメント(2)
EMGで聴く童謡
ネコパパさん、詳細な調査ご苦労様でした。
戦前発売の童謡と戦後発売の童謡を聴き比べが出来て楽しかったです。
戦前の童謡は、歌唱が音楽学校のソプラノ歌手のようにキーが高く 戦後は、アルトのように自然な歌い方にこれも時代に受けいられる歌い方の変化なのかなと感じていました。 
大きなパルプホーンのEMGで聴くと低域もしっかりで戦前のキーの高い声がバランスのとれた聴きやすい声になりました。伴奏や小道具の効果音も明瞭に再生し、私の想定していた以上に歌を盛り上げていました。
ネット-に大川澄子さん2017年の上品なおばあ様になられたお写真がありました。
doyo100.com/column20170828/
私も老後は、好々爺になりたいが家内は、「絶対ない」と断言するだろうな。

PS:ネコパバさん、間際に欠員が出来た時お声をかけて下さりありがとうございます。EMGでワルターの「魔弾の射手」1938年仏グラモフォンが聴けると思い飛んでいきました。

チャラン

2021/06/15 URL 編集返信

yositaka
Re:EMGで聴く童謡
チャランさん
ご来場ありがとうございます。使用したSP盤は例の「100枚落とし」のものが大半で盤質は玉石混淆、むしろ石が多かったのですが、EMGの再生能力でかなりアラが隠れ聴きやすくなったのはラッキーでした。その後IWさんのご提供で平井英子逝去を偲んで「十五夜お月さん」「茶目子の一日」も聴くことができました。こちらはさすがのコレクターだけあって、素晴らしいクオリティでした。
後半は持ち寄りでいろいろな盤が聞けましたが、そのなかでもチャランさんご提供の1938年録音の「魔弾の射手」仏VMS盤は、とびきり高音質で楽しめました。

yositaka

2021/06/15 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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