昔はこうだったとしても…

徳岡直樹氏のYOUTUBEで、フルトヴェングラーの「英雄」交響曲の総括がはじまって、大変興味深く視聴している。
このベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」(徳岡氏によれば「英雄的」)は、話題が出るたびに聴き返したくなる魅力作で、これだけ繰り返して聴くに足る音楽というもめったにないだろう。
ネコパパ架蔵のフルトヴェングラー盤も少なくないが、聴いてみたのはこの1952年12月8日盤。tahra原盤、Altus制作によるLPだ。
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1952年、フルトヴェングラーとベルリン・フィルがベルリンで奏でた「英雄」は12月7日と8日に演奏され、いずれも録音が残されている。これは2日目でRIAS放送収録。
フルトヴェングラーの「英雄」というと、ネコパパはウィーン・フィルとの1944年盤、所謂「ウラニアのエロイカ」を聴くことが多いが、融通無碍な44年盤に対してこの52年盤は音がずしりと暗く、重々しい迫力に満ち、オンマイクの録音がそれを生々しくとらえている。
第1楽章冒頭 の一撃から部屋の空気圧が一気に高まるような印象。この指揮者によくあるような「だんだんと熱気や緊張が高まる」演奏ではなく、全曲に一貫した気力が充満している。それでいて、不思議とストレスがなく、らくらくと聞き進むことができる。勢いに任せたところがなく、第4楽章コーダの締めくくりで、四分音符と八分音符の弾きわけがしっかりと意識されているのも、指揮者の読みが以前より一層緻密になっている証しと感じられる。


そして、続けて聴いたのは、近頃雑誌やネットで話題になっている一枚だ。NMLで拝聴。
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フランソワ・クサヴィエ・ロトの録音を聴くのは、「運命」に次いで2曲目。
といっても、「運命」はやや軽量級で、第1楽章で頓挫、全曲聴きとおす気力が出なかった。ネコパパは「運命」、スケール雄大でないと困るのである。それにくらべると、「英雄」は、ずっといいと思う。
きびきびとした早めのテンポで一貫するのは「運命」と同じだが、この曲は音楽自体にスケールがある。それに、ロトたちの演奏そのものは、ちっとも軽やかではない。フレーズにつけられた鋭いアクセント、随所に聴かせる強弱の変化と、全体を通じてのテンションの高さ。
各奏者が一節、一節にこめた気合というか「感情移入」が、切々と伝わってきて、最後まで耳が離せなくなる。
これは、フルトヴェングラーに似ている、というのが言い過ぎなら、20世紀前半の巨匠スタイルに近い演奏解釈ではないだろうか。
ただし、オーケストラの人数は少なく、奏法はピリオドスタイルである。
さて、ここからは好みの問題になるがネコパパの本音をいえば「そこが惜しい」。
NMLで拝聴できたのは僥倖だが、では買うか、と言われれば「うーん」と首を傾げざるを得ない。
フルトヴェングラー、ワルター、シューリヒト、父クライバー…大編成のモダンオケで、同質の愉しみが得られるとしたら、やはりそっちを聴きたいからである。
響きの豊かさ、楽器の性能、そこから感じ取られる音楽の全体像、どれをとってもモダンオケのほうが明瞭かつ自然で、安心して聴けるからだ。ピリオド演奏では「響き」「音色」「奏法」にどうしても注意を持っていかれる一瞬がある。
その時ネコパパは「音楽」ではなく「音」を聴いてしまっているな…と自覚する。

ロトがレ・なんとか、ではなく、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やドレスデン・シュターツカペレ、あるいはN響の大編成で、これと同じ表現をやってくれたらどうだろう。大いに食指が動くのは間違いない…(ここでベルリン・フィルやウィーン・フイルの名を出しにくいのは、指揮者の解釈が100%反映されにくいという別の問題があるからだ)
近頃話題の指揮者テオドール・クルレンティスの場合もそうだが、なぜ、小編成のピリオド演奏なのかと思う。コンサートホールに出かければ、モダンオケの演奏がいまも主流なのに。
これは長年クラシックを聴き続けてきた老ファンのノスタルジーではない。若い聞き手にとっても、モダンオケのほうがずっと曲の良さがストレートに伝わると思う。

まずは「いい曲だ、好きだ」と思うのが先で「昔はこうだった」は、その次ではないだろうか。


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コメント

コメント(6)
なるほど
こんばんは。
なるほどです。
ぼくがピリオド奏法の録音が苦手なのは,これだと思いました。
演奏よりも,奏法や音色,管楽器の微妙にアヤシい音程などに気が行ってしまって音楽そのものが楽しめない気分になるからなのかと膝をたたきました。

それにしてもピリオドスタイルの演奏がふえてきたのはどうしてかという疑問があります。聞く側の需要があるのか,奏者の側が行き詰まりを打開したかったのか…。

リキ

2021/06/11 URL 編集返信

yositaka
Re:なるほど
リキさん
近頃の「レコード芸術」ランキングなど拝見すると、まったく名前も聞いたことがないようなピリオド系の指揮者・演奏者がトップを占めていることに驚かされます。評論家も世代交代してきたのでしょうし、新しいものに注目しなければ業界自体が危うくなりますから、当然のことかもしれません。
でもこの傾向って、新たな世代の聴き手を増やすことにつながっているのかどうか。街のレコード店の店頭にも並ばないマイナー系が多いですし、数年経てばほとんど忘れ去られているんじゃないかなという気がします。
TVでインタビューなど聞いていると、口を揃えて、初演当時の演奏の再現こそ重要、といいますが、聞き手はそれよりも「音楽の感動」を求めているのであって、どこか齟齬があるように思えてなりません。こういう話って、もう100年近く前にカザルスが言っていたと思うんですが。

yositaka

2021/06/12 URL 編集返信

昔はこうだったから?
いやー、それはどうでしょう。失礼ながら偏見もありませんか(笑)
そうやっている多くの音楽家は「昔はこうだったからこうするのだ。」でなく、「昔はこうだ、(また、このやり方でこそ表現できることがある)からこうするのだ。」という主張ではないかしらん。やっている人はそのやり方に必然性を感じていると思います。
ただ、個人的にはピリオドな「英雄」はいまいち食指が。でも1つ前の「第2番」だと、ぼくはノリントンで目覚めたこともあって、そっち系のほうが好みです。本当に昔どうだったかは誰も知りませんが、仮に妄想だったとしても、彼の「第2番」は作品の潜在的な魅力を引き出しています。作品とやり方の相性があるのでしょう。オケはモダンの交響楽団でもいいんですけど、やり方についでです。
あと、こういうやり方が出始めた頃から言われていることですが、作品の時代が進むにつれて演奏の表現も次第に濃厚に(例えばメンゲルベルクのように)変貌していかなくては辻褄(レコード史との辻褄)が合わないと思うのですが、そういう変貌を示してくれる人は知りません。という点では、行き詰まりがあると思います。

Loree

2021/06/19 URL 編集返信

yositaka
Re:昔はこうだったから?
ロレーさん
>このやり方でこそ表現できることがある。
もちろん、そうでなければいけないと思います。
>作品の潜在的な魅力を引き出しています。
それは成功した演奏だからで、奏法云々を超えたところで成功しているということと思われます。
「作品とやり方の相性」というのはあるのかもしれませんが、ネコパパはあまり感じたことはありません。それよりも「作品と演奏の相性」のほうがより大きいと思いますよ。
>濃厚に(例えばメンゲルベルクのように)変貌していかなくては辻褄(レコード史との辻褄)が合わない
…演奏史を概観すると、そういうことが言えるのかもしれませんが、そういう見方は、ネコパパは、必要に応じてしか、意識しませんねえ。
普段は「音楽と演奏」そこから生み出される「結果」だけ聴いている…気がします。
すべてが歴史の産物、音楽も演奏も歴史の影響を受けないことはないのですが、一方で音楽家の個性というのも大切です。
音楽にはいろいろな聴き方があります。
私は演奏者が、一度きりの人生を、この音楽にかけたという「証」を聴きたいのです。だから、モダン奏法をやっていた人が、途中でピリオド奏法に鞍替えして演奏を一変させる…というのは、苦手です。そういう器用さには、ついていけません。
そして私の凡庸な耳では「奏法」が気になって、音楽がストレートに伝わらない場合がけっこう多い。
例えば、バッハのチェンバロ曲もまずピアノで聴かないと、曲そのものがわからない。それもグールドではなく、ニコラーエワやヒューイット。
偏見は、きっとあります。というよりは、塊でしょうね。音楽にしてもなんにしても「良し悪し」を云々するとは、偏見なのかもしれません。ネコパパ死すとも偏見は死せず。

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2021/06/19 URL 編集返信

Re:Re:昔はこうだったから?
ぼくがちょっとタイトルや本文を誤解したようで失礼しました。誰か「昔はこうだったから(それは本当は自分(演奏家)の信念とは違うのだけど)こう演奏するのだ。」というようなことをインタビューで言っている人がいるのかと思いましたv-356
それで、本当にそうかな?と思ったのでしたv-356

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2021/06/19 URL 編集返信

yositaka
Re:Re:Re:昔はこうだったから?
ロレーさん
そうはっきりという人は少ないけれど「作曲家の生きた時代の演奏に少しでも迫ることが大事」という趣旨のことを言う人は、しばしば目にします。
>(それは本当は自分(演奏家)の信念とは違うのだけど)
そう思って演奏している人はいない、と信じたいですね。
もしそうなら、きっと結果にあらわれるんじゃないですかね。
これも大きな偏見でしょうけれど「鞍替え」するひとは、もともと強い「信念」はなく、プロとして音楽に取り組んでいるのだろうと思います。プロは勉強家で、世の中に敏感で、抜群の技術をもっているのでしょうが、でも…

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2021/06/19 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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