たのしい知識ー「あいだ」でつなぐ「知」

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朝日新書2020.9.30

高橋源一郎の「教科書」シリーズの一冊目とのこと。
彼がパーソナリティを務めているラジオ番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」の名乗りからもわかるが、高橋は近年「若い世代の人々」に向けて、心ある人々が蓄積してきた「知の財産」を手渡そうと躍起になっているようだ。
その一冊目のテーマは三つ。「天皇(憲法)」「隣国」「コロナ」である。

まずは著者の「知識」観を一瞥しよう。

何かを知ることは、楽しいことだ。
教科書とは、ただ、そこにあるだけで、あるいはいるだけで、力づけてくれる、落ち着ける、でも、ちょっと不安にさせてくれる、そんな喜びに満ちた本のことである。
そんな教科書に書かれているのが「たのしい知識」なのである。

■ぼくらの天皇(憲法)なんだぜ

かつて、女性が教育から放置されていたころ、自分で自分を教育し、自分の人生を生きた女性がいた。金子文子である。短く苛烈な人生を送り獄中で自死した彼女が直面した最大の謎。それが「天皇」だった。

それを知るためには、「憲法」をじっくり読んでいく必要がある。そこで、筆者は、ほんとうにじっくりと読んでいく。象徴天皇制を位置づけた第一章。戦争の放棄を定めた第九条そのものである第二章。国民の権利と義務を記した第三章。そして、各国の憲法。
アメリカ合衆国憲法。フランス憲法。ドイツ連邦共和国基本法。タイ国憲法。ブータン国憲法。スウェーデン統治法。オランダ王国基本法。そうしたうえで考えるのは「憲法とは何か」「国とは何か」という問題だ。

憲法学者によれば、われわれのイメージする「憲法」は、じつは憲法そのものではない。憲法とは国家の構成原理そのものであり、それを言葉で書き記そうと努めた結果、出来上がったのが「憲法典」である。憲法典には、根源的意味での憲法とは違って、国家の構成原理のうち、根本的なものとそうでないものが混在しているのが特徴である。
その根本的なものを突き詰めれば…と高橋は考える。ぼくたちの国の憲法は、第一条(天皇)と第九条(戦争放棄)でできている、と。

次に紹介されるのは、加藤典洋の「9条解釈」である。
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今日、条文の発案者は幣原喜重郎か、それともマッカーサーか。意見は分かれている。
幣原の提案は、第一次大戦後にフランスが起案した「パリ不戦条約」を基にしていて、戦争放棄の実現には「世界中が」という前提があった。すなわち、不戦条約の唱えたのは「万邦同時の他辺的戦争放棄」であり、それは現在のフランス、イタリア、ドイツなどにも反影されている。いわば世界基準の「国際法」である。
しかし日本国憲法の「戦争放棄」は全く違っている。それはマッカーサーの政治的判断からであったのか、出来上がった第9条は、相互主義なしの、一方的な戦争放棄だったのだ。
自己を守ることが国民の「主権」の一部とみなすなら、この第九条は、主権の一部を一方的に「放棄・否定」したとも読めるだろう。しかし、これを日本国民は熱狂的に受け入れた。もしかしたら、大きな落とし穴があったかもしれない。この条文に「特別な光輝を見た」国民の内心には「特攻精神」にも通じる「捨身への熱狂」はなかっただろうか。

2016年の「おことば」を聴いた高橋源一郎は、これを「個人」としての天皇の言葉であることに感銘を受ける。なぜなら憲法には天皇の役割は書かれているが、権利については書かれていないからだ。天皇に個人の権利はないのだろうか。象徴天皇の意味や務めは、主権者である国民が決めるものである。だが、誰もこれについて深く考えようとはしなかったのではないだろうか。
「ぼくたちは、七十年前も現在も、ぼくたちの国について何も知らないんだ」
だとすれば、猛省すべきではないか。
そう考えた高橋は、「国」や「憲法」も、とりあえず必要だという前提で、主権者の一人としてひとつの「意見」を述べる。100ページ以上に渡って考え、書き続けたのちの意見は、2ページに満たない。
これが、ネコパパにはコメントがしにくい内容である。気になる人は本書を手に取っていただければと思う。

■汝の隣人

まずは30ページを費やして、「あいだ」について考える。
記憶とは人間そのものだ。記憶はある時からある時までの「あいだ」にある。人間とは、人の形をした、なにかの「あいだ」にあるもの。「大学」も「あいだ」だ。「文学」も「あいだ」だ。そこには、世間や社会が「意味なんかない」と考えているものも含まれている。
親しい友達が亡くなった時になんと言えばいいか。そんなときは知識も常識も役には立たない。追悼の準備なんてできない。けれど「大学」や「文学」は、世間や社会とは異なった価値観が生き延びる場所だ。そこが「あいだ」だ。
孔子やキリストやソクラテスは、書き残さなかった。弟子たちはそれを惜しみ、愛情と尊厳を持ってそれを伝えた。僕たちに届くのは、弟子たちによって真空パックされた言葉だ。それは「あいだ」を漂う言葉。「あいだ」には、僕たちに自由にモノを考えさせてくれる空間がある。

「韓国・朝鮮」という言葉には否定的な意味を込められている。
冷たい視線。憎しみと軽侮。のりこえるのに必要なのは「あいだ」の本だ。茨木のり子「ハングルへの旅」朝日文庫。それが高橋が選んだ一冊だ。
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ハングルを学ぶことで隣国の師と出会い、茨木さんが知ったのは、自分の祖国がその、目の前にいる人から母国語を奪ったという事実だった。もし詩人が母国語を奪われたら、と唖然とする。そして、浅川巧という日本人。日韓併合後にクリスチャンとして朝鮮に渡り、林業を務める傍ら日常雑器の研究を行う。渡ってから亡くなるまで朝鮮服を着用し、差別される側に身を置きながら、朝鮮の工芸とそれを育む人々を愛し、終の棲家とした。浅川の墓参りをしたとき、茨木さんは土地の人たちが今も浅川に抱く抱く静かな敬意を感じ取る。

何かを知りたいとき、一番の近道は「情報」を得ることだ。しかし高橋は言う。どれほどたくさんの情報を集めても、「わかる」には足りない。茨木のり子は「あいだ」にハングル、「あいだ」に浅川巧という個人を知ることで足りない部分を補った。日韓併合後にクリスチャンとして朝鮮に渡り、林業を務める傍ら日常雑器の研究を行う。ぼくたちが何かを「わかる」ためには「個人」と「顔」が必要だ。
尹東柱(ユンドンジュ)。1945年、27歳で福岡刑務所で獄死した詩人だ。岩波文庫に詩集「空と風と星と詩」がある。1937年、朝鮮では、朝鮮語の授業が廃止された。この時点で膨大な詩を書いていた。
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1942年に日本に渡り立教大学に進学するが翌年独立運動の疑いで逮捕投獄される。懲役2年の判決を受けるが、京大生だった従兄弟の宋とともに獄死する。死の真相は謎のままだという。本書に引用された尹の詩は、清冽なまでに美しい。高橋も全く知らなかったという。
何かについて「知る」ためには「まわり」にある文学を読むことだ。知りたい何かはそのもの自体ではなく「まわり」にぼんやり広がっている。何かが醸し出す別の空間があって、それがなければ「なにか」もわからない。その空間が「あいだ」なのだ。

次に高橋は「植民地である韓国・朝鮮の文学」を読んでいく。
「宗主国」は「植民地」に「国語」を強要する。中島敦「巡査のいる風景」植民地に住む人々の屈折した心情を、彼らの内部に入り込んで書いている。中島はそれによってさらに何重にも屈折している。もしもこれが逆の立場だったら、ぼくたちはどうしただろう。
高橋は朝鮮人文学者金史良(キムサリャン)、張赫宙(チャンヒョクチュ)の作品を読んで、また考える。金史良描く、差別が空気のようになっている植民地の日常。宗主国の人間は、植民地管理を同じ植民地同法から選び「共犯者」とする。一方、張赫宙が描くのは日本軍の志願兵と従軍の労働者の実態だ。朝鮮人であるゆえに、日本人以上に日本人であることに全身全霊であり続けようとする人々を描く国策小説。
そこにも「あいだ」にしかない言葉が、満ち満ちているように、高橋には思える。そして、読者であるネコパパにもそれは確かな手応えとして感じられる。

■コロナの時代を生きるには

現在進行中の事態をとらえるキーワードは「それ」だ。コロナ禍の始まりを2020年始まりからの報道をゆっくりたどっていく筆致の中に「スペイン風邪」「戦争」「ペスト」のイメージが重なり合い、読んでいくうちに、区別がつきにくくなっていく。
カミュの「ペスト」は、そもそもパンデミックのドキュメンタリーではなく、執筆当時終わったばかりの第一次世界大戦を象徴するものとして書かれた小説だった。疫病と戦争を貫くものをカミュは明らかにしようとした。「それ」である。

新型コロナウィルスをめぐって毎日のように新しい言葉が生まれ、シャワーのように浴びせかけられているが、本当に理解できているのだろうか。浴びているだけで知ったような気になっていないだろうか。
そんな疑念から、高橋は「それ」と呼ぶ。すると、「それ」はこれまでにも繰り返しやってきたのだということに気づく。パオロ・ジョルダーノ、五味太郎と同じく「戻ったら、充実?」と問いかける。立ち止まったその時こそが「地に足のついた言葉が生まれる」と考える。そして彼は感染地図から刻々変化する感染状況や、感染の仕組みを知ることから始めて、歴史をたどり、人類がこれまでいかに「それ」に対処しようとしてきたかをたどっていく。テクストは山本太郎著「感染症と文明ー共生への道」だ。そこにはスペイン風邪についての膨大な記録を中心とした「それ」についての知の蓄積がある。
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読み直し、書き直しつつ、やがて最後には「国」や「憲法」と同じように、筆者独自のひとつの答えにたどり着くはずだ。それは…やはり読者各自が、個々に考えるべきものかも知れない。
考えのまとまらないネコパパだが、少なくとも「それ」を「敵」ではなく「人間のうちにあるもの」とする高橋の視点には共感を覚える。

わかりやすい指針や「解決策」を求める読者には甚だしく読みにくく、まわりくどく、従ってレビューも書きにくい本だが「どんなものでも、真剣に見つめればおかしいのだ。おかしくないとするなら、ほんとうには見つめたことがないのだ」とする高橋の姿勢にネコパパは加担したい。
こんな時に「おかしい」という多義的な言葉を使う彼の「邪知」も含めて。



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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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