書店は世界に通じる窓、本は未来への道

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PHP研究所 1981.12.31

大正2(1913)年3月、28歳の日本人青年が、共同租界となっていた中国・上海に到着した。
名前は、内山完造。「大学目薬」の販売員として、大阪・参天堂から派遣されてきたのである。熱心なキリスト教徒であった完造は「汝ら、己をさとしとすな」という聖書の教えを座右の銘として、持ち前の我武者羅な気性で仕事に励み、業績を上げていく。
翌1914年には第一次世界大戦がはじまり、その影響は中国にも波及した。戦勝国として日本が中国に21か条の要求を迫ったことから、日中関係は悪化し、完造のいる上海でも反日運動が拡大していった。
完造は、それまでやっていた路上で目薬の宣伝販売をやめて、薬屋を営むことにする。
書店を始めたのは、上海にキリスト教関係の書物を扱う書店がないことを知り、店先で販売しようと思いついたことがきっかけだった。妻名義で「内山書店」とし、家の入口に本を並べた木箱を一つ置くという、書店というにはささやかなものだった。
日本製品の不買運動が拡大し、参天堂の仕事には行き詰まるが、書店は順調に売り上げを伸ばした。そこで、キリスト教関係にとどまらず、多様な書籍を扱うようにして、店も広げた。現金払いできない客には付け売りし、請求もせず、集金にもいかない。完造のやり方に東京の取次は難色を示し「必ず潰れる」と言われたが、やめなかった。店には中国人も日本人も訪れたが、同じやり方を通した。しかし、店は潰れなかった。

完造は、新刊情報を掲載した「ゆうわく状」を毎週発行することにした。知人や得意客には直接届け、遠方の客には郵送する。店は国籍を問わず、大勢の客が訪れ繁盛した。中国人の店員も雇用し、家族ぐるみで面倒をみた。外では、日本人の荷物は郵便局も扱わないほど反日運動が広がっていたが、内山書店だけは例外だった。
大正10(1921)年には、日本から大学教授や各界の専門家を講師とした連続講演会を企画する。五百枚の入場券はたちまち売り切れた。この講座は毎年実施することになり、翌年からは中国人学者も講師に加わり、日中の学術交流の場になっていく。講座には、排日運動を推進している学生も、積極的に参加した。

大正11(1922)年、日本が山東省から手を引き、排日運動が一時下火になったが、大正13年には日本が経営する紡績工場のストライキに端を発した反日闘争が、全土に広がった。しかし内山書店を訪れる中国人客は少しも変わらず、ここだけは台風の目のように、反日の風も吹かない。同時期の「円本ブーム」の影響もあり売上は伸び「中国最大の書店」と呼ばれるまでになっていく。
昭和2(1927)年、完造は蒋介石に追われた詩人、郭沫若の亡命を支援し、同年10月10日、客としてふらりとやってきた作家、魯迅と邂逅する。二人は深い信頼関係に結ばれ、内山書店は中国の知識人の溜まり場となる。魯迅との交流と文筆活動の支援は、1936年の魯迅の死まで続く。完造の「支援」は、文化活動にとどまらず、政府の追跡をかわし、魯迅と外部との連絡の窓口になることまでもが含まれていた。
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日中の対立は激化し、上海租界での住民対立も深刻さを増していったが、「内山書店」の信用度は落ちることがなく、自警団は「内山書店」の名刺を持ったものには手を出さず、身分も保証され、国外への電話連絡さえ許可された。世情悪化で完造が日本に一時帰国せざるを得なくなっても、書店は日中戦争の時代を生き延び、太平洋戦争終戦の昭和20年、中国政府の指示による閉店まで、粛々と活動を続けたのである。
完造の戦後は日中友好活動の一環としての講演活動に明け暮れ、昭和34年、招かれて北京の地を訪れた翌日、74歳の生涯を閉じる。

かつおきんや師は、本書の前半で、内山完造の少年時代から、中国に行くまでの人生の軌跡を描いている。少年時代の、権威にとらわれず、親も教師も持て余す「シオカラ」ぶり。小学校も4年生で退学し、大阪で奉公に出されるや、がむしゃらに働いて、たちまち主人に信頼される。かと思えば、店の金を横領してクビに。次には、商売替えを繰り返す、意志薄弱な京都の商店主に尽力して、粉骨砕身の努力するものの、結局はそれが仇となり、店の零落を早めることになる。
若き完造の歩んだのは、一寸先はどう転ぶかわからない「危険な硬骨漢」としての人生だった。
書籍とも文化とも、まったく接点のない若き日々と、上海で、国家間の憎しみを乗り越える「奇跡の信頼圏」としての内山書店を作り上げた後半生。同じ人間のものとは思えないような、完造の二つの歩みを、筆者はいつものように客観に徹して、足で取材し、淡々と記述していく。
二つを結びつけるのは、おそらくは「権威や権力に媚びず、あくまで個人としての信念にのみ従う」という一点である。それはキリスト教との出会いによる宗教的信念によってより強いものとなったが、それ以上に、個で有り続けることへの勇気と覇気が、内山完造という人間には備わっていた、ということなのだろう。そして彼の選んだ「書店」という場の力もまた、大きかったはずだ。

「心ある中国の人々にとって、内山書店は世界に通じる窓であり、この小さな店に入ってくる本のあれこれが、未来への道を見通す大事な手かがりであったのです」
謙虚な筆致の中に、かつお師が思わず漏らしたと思われる「真情」が、この言葉にはあらわれている。日本にも、世界にも、同じ志を持ち、「ゆうわく状」を手渡し、講演会や展示会を主催して「心ある人々」の広場になる書店は存在している。
私たちの身近にも、ある。

内田樹氏は言う。
「新しい『コモン』は書物が中心になるのではないか。…書物というのは外部への回路です。書物は読者を『いまではない時代』『ここではない場所』に連れてゆく力を持っています。ですから、極端な話、本が一冊そこにあるだけで閉じられた空間に風穴があいて、そこから涼風が吹き込んでくるということが起こる。その風の匂いを感じ取った人たちが、書物の周りに、書物に吸い寄せられるようして集まってくる」

内山完造も、師と同じく、そんな「本に選ばれ、吸い寄せられたひとり」であったに違いない。
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コメント

コメント(2)
内山完造さん。
内山完造さんについて私は初めて知りました。
偉人ですよね。
Wikipediaを読むと内山さんは当時の沢山の著名人と会っているんですね。
戦中戦後の緊迫した状況下で敵国人から庇われるというのは、余程のこと
だと思います。
私はキリスト教の信仰が彼を支えたのだと思います。
キリスト教だけではなく満州における宗教者の生き方には想像を超えるものがあります。
ちょっと真似ができません(汗)

不二家憩希

2021/02/20 URL 編集返信

yositaka
Re:内山完造さん。
不二家憩希さん
内山完造のようなタイプの日本人は、当時も今もとても少ないと思います。彼の名刺を持っていれば、日本人にも中国人にも一発で信用されるなんて、ちょっと想像ができないスケールを持っています。
かつお師を養子として引き取った養父母も満州の学校教師として、日中の交流活動に尽力した人で、内山完造とも面識があったそうです。満州という風土が育てたものとは何か、これからも関心を持ち続けたいと思っています。

yositaka

2021/02/20 URL 編集返信

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yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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