「あわい」こそが人間の域-内田樹『鬼滅の刃』を語る。

unnamed_20210111205236686.jpg
同誌投書欄によると、2020年12月4日の新聞全国紙5紙の朝刊に、コミックス1億冊突破記念として、『鬼滅の刃』のキャラクターを全面にあしらった広告が出たという。それはネコパパも見ていて「これは凄いな」と思ったのだが、その掲載方法は予想を超えていて、各紙に3キャラクターが別々に掲載され、5紙全てを買えば15のキャラクターが揃うというやり方だったそうだ。
2021-01-11 (2)
(C)吾峠呼世晴/集英社

この広告が載った朝刊は、各地でたちまち売切れになる事態を呼び起こしたという。
しまった、ネコパパもとっておけばよかった!

それはさておき、先の見えないコロナ禍の中で、アニメ映画にも原作にも大変な人気を集め、「現象」と呼べるまでに注目されているのがこの作品である。
ネコパパは児童文学研究の観点から(?)「週刊少年ジャンプ」は、いちおう毎週目は通している。なので『鬼滅の刃』も、当然連載一回目から知っているのだが、秀作の多い同誌の中では、どちらかといえば敬遠していた。
ストーリーがどう、というより、絵が年寄りにはややエグく、刺激的すぎたのだ。どちらかといえば、地味な作品のようにも思えた。それが社会現象にまでなり、このような硬派週刊誌にまで取り上げられるとは…

本誌の記事の中で最も注目したいのは、内田樹「街場の『鬼滅の刃』」である。
今回はこれを紹介したい。
筆者は「パンデミックの寓話として読むことができる」と、ひとまずは言う。
人獣共通感染症は、出会うべきものでないものが出会ったことで生まれる。ウイルスは寄生した生物の特徴を取り込んで変異する。それは厳密な意味では生物ではなく、染色体に過ぎないので、死ぬということがない。これはらは『鬼滅の刃』に描かれている「鬼」の属性とすべて一致する。
それに対して鬼と戦う剣士たち=医療者は、生あるもので、危うい存在である。彼らは鬼との戦いの中で次々に傷つき、死んでいく。退治に効果的な方法があったとしても、ある段階からそれは通用しなくなる。抗ウイルス薬に耐性のある新種のウイルスが生まれるプロセスと変わらないのだ…そんなわけで、この作品は我々が置かれている状況の寓話なのだ、とまとめるのは簡単である。
しかし、とここで内田は交ぜっ返す。
それは勘違いなのである。

本作の原型が書かれたのは2013年。パンデミックとの同期は、全くの偶然に過ぎない。
とはいえ、傑出した作品においては、現実が作品を追いかけ、追い越しているように見えることは少なくない。例えば『AKIRA』がそうであったように。人間と世界のあり方についての「深い洞察」に貫かれている作品は、読者や観客に「この作品は、今ここにいる自分のことを描いている」と錯覚をもたらすものなのである。
では、『鬼滅の刃』のもつ「深い洞察」とは何か。
それは繰り返し語られるある「構造」である。それは「ハイブリッド」あるいは「どっちつかず」ということだ。物語を一貫して取り付いている「混淆」のイメージ。
「大正」という「汽水域」のような時代を背景に、前近代と近代が混淆する生活を送る登場人物。そこに善と悪をデジタルに分ける区分線はなく、主人公炭次郎が全力で守ろうとする妹の禰豆子は、既にして穢れた血を持つ「ほぼ鬼」なのだ。剣士たちと、彼らに手を貸す一団の中にも「鬼の属性」を落とすことなく、鬼狩りに加わるものもいる。さらに剣士たちは、全員がトラウマ的体験とそこから派生する深い屈託を抱え、それを核として個性が形作られている。
同じことは鬼の側でも言えるのだ。

『鬼滅の刃』は、そんな彼らの、病と癒しをめぐる物語だ。
ここでは剣士たちも鬼たちも、全員が「病者」であり、他の登場人物はほとんどすべて「医療者」あるいは「回復の支援者」である。極言すれば、この物語は「戦場」と「病院」だけで展開されている。傷つき、限界まで疲れきった剣士たちがお互いに心を通わせ、認め合い、許しあえるのは「治療中」の時間だけなのである。
結論を引用しよう。

「この漫画の卓越した点は「健常」と「疾病」を二項対立としてはとらえず、その「あわい」こそが人間の域の場であるという透徹した見識にあったと私は思う。この世には100%の健常者も100%の病者もいない。ひとりひとりが何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。『鬼滅の刃』の手柄はその事実をありのままに受け入れ、描写たちに寄り添い、時には癒し、時には「成仏」させる炭次郎という豊かな包容力を持つ主人公の造形に成功したことにあるのだ」

ネコパパは、話題の映画は未見である。
だが、12月に放送された映画の前日談「蝶屋敷編」はTVで視聴した。それはまさに、一つの戦いが終わり、傷を癒しながら互いの心を開いていく剣士と支援者の交流を描いたエピソードである。ギャグを交えながら刺が突き刺さるような「深く、痛い」セリフにも満ちたものだった。流行語にまでなっている「全集中」の修行の場面もある。
声優たちの成熟した「語りの技」もじつに見事で、随所に、所謂「アニメの声優」のイメージを覆すす「言葉の立ち上がり」がある。
ここには内田樹の言を納得させる内容があると同時に、映画の成功も、決して偶然ではないことが心底、感じられるものがあった。

「混淆」に関して、最後に蛇足をもう一言。
主人公炭次郎の顔の造形であるが、ネコパパには、これがどうしても、手塚治虫の古典的作品『リボンの騎士』の「サファイア」の面影に通じるもの、と感じないではいられない。
そういえば、この主人公も、生まれながらに「男の子」と「女の子」の二つの属性を「混淆」するキャラクターであった。
手塚も「あわい」をテーマとした作品を多く残したが、結末は悲劇に終わることが多く、サファイアも結局は男の子の属性を捨てて良妻賢母への道をたどる。これも悲劇と言えるかもしれない。
対して『鬼滅の刃』の結末は、その逆、とも読み取れるのだが、それは内田のいう「豊かな包容力」の帰結としてポジティブに受け止めてもいいのかどうか、「全集中」なんて到底できないネコパパには、実はよくわからないのである。


関連記事
スポンサーサイト



コメント

コメント(4)
意外。
>「週刊少年ジャンプ」は、いちおう毎週目は通している。
そうなんですか!
学校の先生って漫画は敵ではないのですか?
大体そういうイメージがあります。

鬼滅の刃はかなり流行っているようですね。
私には何のことやらよくわからないままです。
「おにめつのは」と読んでいました(笑)

私は20代には漫画雑誌を週に10誌は読んでいたのですが、きっぱりとやめました。

不二家憩希

2021/01/12 URL 編集返信

yositaka
Re:意外。
不二家憩希さん
先生は先生でも不良の先生なのです、というのは冗談で、今はみんなマンガは読んでいます。教材に使うこともありますよ。ま、古い頭の人もいますが。
私は小学校4年生の頃から漫画読者で、中学高校の頃は活字に一本化していましたが、大学でまた復活。以降およそ半世紀、付き合いは続いています。もっとも、読む作品は厳選していて、98%は知りません。数誌の雑誌に目は通しているといっても、読むのは1誌に一つか二つ。それでもざっと見るので、読まれている作品の雰囲気は掴めます。

yositaka

2021/01/12 URL 編集返信

シュレーゲル雨蛙
買ってつまみ読み? 立ち読み?
ネコパパさんは前者ですね。
内田さんと面識はないですが、たぶん近所です。といっても歩いて20分ほど。なかなかご活躍です。
藤井さんも夢中ですが、そのアプローチは昔話との共通性です。ぼくが藤井さんから教わったのは、昔話の冒頭の「むかし」という言葉の意味。これは過去だけではなく、将来でもあるのだと。過去の人間の経験の蓄積から昔話は成り立っているけれども、そうやってなった昔話は現在や将来起きる出来事に役立つ事例集になっていること。昔話は予言でもあると。

立ち読み?

2021/01/13 URL 編集返信

yositaka
Re:シュレーゲル雨蛙
シュレーゲル雨蛙さん
もちろん買ってます。立ち読みでこれだけコピーできたらすごいですが、ネコパパは全集中できないので無理です。
内田さんとは、名古屋の講演会場でちょっと立ち話はしました。とても話しやすい人で、10分で打ち解けてしまいそうです。意見の違う人を説得するのは大変ですねと尋ねたら、それは無駄です、それよりも、相手方で話のわかる人を見つけて抱き込むのですと言われました。巧みな戦略家とお見受けしました。そして、聞き上手。雨蛙さんも聞きはプロだから、きっと話は合うと思います。

>昔話は現在や将来起きる出来事に役立つ事例集になっていること。昔話は予言でもあると。

「昔」という言葉自体が過去現在未来の「あわい」を指し示すということですね。「予言」であると同時に「預言」でもある…深い。

yositaka

2021/01/13 URL 編集返信

コメント投稿
非公開コメント

プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

ご訪問ありがとうございます

月別アーカイブ

検索フォーム

QRコード

QR