安政五年七月十一日

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1970 牧書店
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1982.8 偕成社(かつおきんや作品集16)


ときは幕末、金沢の町で…
政吉は十一歳。町で評判の髪結い、能美屋佐吉の息子だ。父親に似て一本気で正義感が強く、曲がったことが許せない。たとえ相手が侍の子でも、機敏な動きと知恵で煙に巻く。今日も、三人に取り囲まれていた町娘を助け出したところだ。
町人たちがひしめき合い、元気な声が飛び交う界隈だが、話題は黒船よりも、米の不作と激しい値上がりのことばかりだ。
人々は仕事に追われ、町は活気にあふれてはいても、政吉たちの口に、まともな米の飯が入ることは、めっきり少なくなってしまった。窮乏している家にとっては、なおのこと。しかし、政情不安に慌てる武士も、機に乗じて米を買い占める米問屋や裕福な商家も、貧しい町人や百姓の苦境には関心がなく、救援の願い出があっても聞き流され、握りつぶされてしまう。
そんな役人や有力町人たちの態度に、人々の不満は募る。
「打ちこわしでもやるか」の声も出る。
ある日、政吉の友達の太吉が、衰弱の果てに死んだ。太吉の父親、孫兵衛は、思い立って奉行へ直訴に及び、役人に連行される。

孫兵衛を助け出すために知恵を絞り、なんとか成功したことをきっかけに、佐吉たち、志ある町人たちは、この際、協力して事態を改めようと動き出し、ついに卯辰山の頂、庚申塚から城に向かって、大勢で一斉に声をあげる、という奇策に出る。
「ひもじいわいやーっ」「米くれまいやあー」
山から城へ、山に結集した二千人の町人百姓の叫びが、藩主前田斉康に届き、斉康の指示で、困窮の事態はようやく改善へと向かった。
だが、一件の首謀者となった佐吉たちには、過酷な運命が待っていた。

■事実と虚構のバランスが絶妙

歴史児童文学の名手、かつおきんやの小説作法が典型的にあらわれた、長編第3作である。
丹念な歴史的事実の調査、関係者、特に登場人物の縁者へのインタビューによって、細部まで詰められた事件の推移や人物名は史実に基づく一方で、児童文学としてのストーリー展開は、ほぼフィクションと思われる。
本来の主人公というべき、能美屋佐吉の出番はやや抑え、佐吉の一本気の正義漢というキャラクターを息子の政吉に移植することで、子どもたちを前面に押し出し、児童文学の条件を確保。
政吉の電光石火の活躍ぶりと、危機を救った大商家の娘おきくとの触れ合いという、ほのかなロマンスも描かれる。
深刻な歴史状況を扱ってもなお、胸のすくようなエンターテイメントになっているのだ。

特に印象的なエピソードがある。
孫兵衛の釈放には裏金(袖の下)が必要と知った佐吉が、息子と仲の良いおきくの店に無心しようか…とつぶやく場面だ。
父のつぶやきを聞いた政吉はギクッとする。「自分があそこのむすめとしたしいのを利用されるように」思われたからだ。それで、とっさに「大人の話に口を出し」話の流れを変えようとするのだが、こういう裏表を嫌う少年の心情を、気張らず、さらりと書いて見せる筆の走りが見事である。
このような場面が生きるのは、文章が会話と行動、生活の描写で進められ、人物の内面に入り込んでの心情描写がほとんどなく、クールな文体で物語られているせいもある。
情に流れず、客観に徹することで、読者の注意を事実からそらすまいとする作家の意志が伝わってくる。
前半では、あまり子ども向きとは思えない「地獄の沙汰も金次第」の駆け引きが、微意に入り細を穿って描かれるのも、斬新だ。ネコパパには、この場面が一番面白く読めた。

ただ、1970年という状況も影響しているのか、
物語の骨格がステロタイプな階級闘争の色合いを持つこと、それが今となっては「時代」を感じさせることは、やはり指摘しておきたい。
領民の生活に何の関心もない武士、役人、時流を見て私腹をこやす米問屋、善人ぞろいの町人に、情け深い僧侶、領民に共感的な領主など、ちょっと役者がそろいすぎているし、大詰めのシュプレヒコールの参加者を集める場で「でないものは八分」という声がしれっと出たりするのには、ちょっと眉をひそめてしまった。
掘り起こされた歴史的事実や、躍動する文体の価値は、いまも現役で通用する。
しかし割り切りすぎた善悪二元論と、民衆の団結への楽天的な期待感の表出には「50年前の作品」という、時代の制約を感じないではいられない。
現時点で本書を子どもたちに薦めるには、こうした点に注意もを払う必要があるだろう。






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コメント

コメント(6)
こんな本だったのか。
紹介ありがとうございます。こんな本だったのですね。絵をみても思い出せませんでした。大まかなストーリーはわかるけれども細部はそうだったかしら、です。文学はどうしても時代があります。古くても新しいなんてものは、そうそうありません。
1970年頃だと、まだ、女子どもや気ちがい等の言葉が普通でしたし、男女観もいまとは違いましょう。
これは何もこの作品に限ったことではありません。鴎外漱石だっていまの見方と違うものがてんこ盛りです。
ドリトル先生やピッピだって、そういうところあります。(いまの作品でも外国のは日本の当たり前と違うことたくさんありますね)。

だから、いまここの価値観に合わせてばかりだと、過去の作品や外国の作品は扱えなくなります。むしろ、そういう価値観があったのだ、あるのだと、いまここの価値観を相対化することもこういう作品の大切な存在の根拠だと思います。

昔話のいまからみると残酷、グロテスクに思われるものにも、同様の役割があるのと同じではないかしら。拙い感想です。

シュレーゲル雨蛙

2020/08/25 URL 編集返信

yositaka
Re:こんな本だったのか。
シュレーゲル雨蛙さん
どんな作品も時代の産物です。
書かれた瞬間から過去になります。そういうものとして大人が読む分にはいいのですが、子どもの読み方は大人とは違います。感覚的に合わないものは、まず手に取られない、読まれない、そして貸し出しのない本はしまい込まれ、廃棄されて、子どもは見る機会すらなくなる、ということになりやすいのです。

今回ネコパパの読んだものは、1982年に刊行された4回目の出版となるもので、これは当地の市立図書館で借りました。
(雨蛙さんのお読みになった「牧書店・1970年・少年少女教養文庫版」とは内容が異なる可能性もあります。出版時期に合わせての加筆訂正はよくあることで、作品研究ならそこからスタートになります)

幸い、閉架書庫には収められていましたが、読まれた形跡はほとんどなく、張り付けてあった紙に押された貸し出しデータをみると、貸し出し実績はどうやら2回らしい。
1982年の時点で、すでに忘れられた観がありました。
内容の面白さを考えると、実に惜しいことです。

となると、これを「児童文学として死んだ本」にしないためには、どう勧めるのか、という問題になるのです。子どもが手に取らないなら、大人が「価値観の相対化」をきちんとやったうえで、しかも興味を喚起させて手渡しかない。それが難しいのです。

yositaka

2020/08/26 URL 編集返信

井伏鱒二の書き換え等思い出します
作者本人が書き換えた山椒魚の例をおもいだし。あのとき、いかな本人とはいえ、一度定着して親しまれていた作品を書き換えるのは納得できないと、野坂昭如ら何人かの作家が異議申し立てをしたことが思い出されます。そうこうしているうちに、山椒魚は教科書から姿を消したのかしら、この春にオンラインで学生に尋ねたら、知らないとのこと。教科書で教わらなくなると、これは危うい。
というわけで、だれかが作を入れて、現代風に作り替える。これを認められるかというと、ぼくはやはり簡単にイエスとは言えないです。
日本の昔話、明治生まれの人々にとってもっとも人口に膾炙した一つに蛇聟入譚おだまき型があります。娘のもとに夜な夜な男が通って来る。母親が男が帰るときに着物の裾に長い糸を通した針を刺せと教える。糸の後をつけていくと神社境内の大木のうろの中に。中で蛇の母子の会話。お前は鉄の毒でもう死ぬ。俺は娘の腹に子を宿したから悔いはない。人間は賢いから五月節供に菖蒲湯入ったら蛇の子はおりてしまうんだぞ、と母。
立ち聞きした娘の母が菖蒲湯をたてて娘に入らすると、蛇の子がおりて娘は助かる。
これを、ある語り手が蛇は魔法をかけられた若殿だったと語り替えた。これを認められるかというと、やはり簡単にイエスとは言えないです。
どこまで作り替えができて、どこからができないか、非常に難しい。
ぼくは子どものころ、パール街の少年たちという作品が大好きでしたが、今ではほとんど読まれていません。しかし、これを作り替えてでも読んでほしいかというと、そうは思いません。
きっといまに、同じような題材をいまに相応しく書いてある作品が出ているだろうと思うからです。
あんまり読まれなくなった作品でも、中央図書館とかに一部保しておけばそれでよいという気もします。
文化は雑多にあればよいので、どれもこれも今風に変化しては、ものの考え方が平板になってしまうのではなかろうかと考えるのです。
昔話の改作著しいことがぼくの見方を偏屈にしているのかも知れません。
しかし、いまの子どもの何人かがかつおきんやの深い理解者、ファンとしているならば、何万の普通の読者を獲得するよりも、意義があるのではないかと思います。ダメですか?
長くてすみません。

シュレーゲル雨蛙

2020/08/28 URL 編集返信

Re:井伏鱒二の書き換え等思い出します
シュレーゲル雨蛙さん
お考えは、全然間違ってないと思いますよ。
出版時期に合わせての加筆訂正のことを書いたので、ネコパパがテキスト改編を望んでいる、と誤解されたのかな?その加筆訂正というのは、あくまで筆者の判断で行われたケースで、著者が故人となった後で行うのは認められない行為と思います。
「山椒魚」の場合も同じで、井伏氏自身の判断だったからこそ、あのような議論にもなったのでしょう。
この件について、個人的には、定着した作品なのだから、作者自身だって変更するのは間違いだというのは、言い過ぎだと思います。細部の加筆訂正は、どの作家も日常的に行っていることです。
まあ、「山椒魚」の場合みたいに結末まで変えてしまうのは極端なケースで、別ヴァージョンくらいに捉えておけばいいと思いますが。ノヴァーク版のように。

ネコパパは「価値観の相対化」をきちんとやったうえで、テキストは変更せず、しかも、子どもの興味を喚起させて手渡すことが大事だ、なんて抽象的にこ書いたんですが、もっと具体的に言うと、まずは、金沢市が一連のかつおきんやの著作の価値を認め、存在を知らしめることです。小学校社会科の地域副読本にも採用し、再版のチャンスが来たら、テキストはもちろんそのままですが、現代の子どもにわかりにくい部分には注釈をつけ、装丁・挿絵も、現代の子どもの目を引くものにしてはどうだろう…
そんなことを漠然と考えていました。
渋い内容ですから、何万もの読者は、期待していません。それでも、本来なら出会ってしかるべき子ども(深い理解者になりうる子ども)にも、今の状況じゃ、出会えそうもない。それじゃ口惜しすぎる。本が泣く。もっと売れる工夫、出会える工夫をしてよ、というのが、偽らざる気持ちでした。

「パール街の少年たち」は翻訳作品なので、ちょっと別の事情があります。
名訳として定着した作品なら別ですが、翻訳は定期的に新しくやり直さないと古くなるのです。新訳が出れば生き返る。
「プーさん」の石井桃子さんなんか、自分の訳書には改版どころか、増刷のたびに手を入れて、言葉の感覚が古くならないようにする作業を生涯続けました。
アーサー・ランサムの訳書、神宮輝夫も90歳を超えた現在も、ずっとその作業は続けています。
「パール街の少年たち」も、長い間新訳がありませんでしたが、2015年に偕成社から挿絵を一新し、素敵な装丁の本として刊行されました。なかなか好評で、版を重ね、新しい読者を獲得していると思われます。

「だれかが作を入れて、現代風に作り替える」のは簡単にイエスとは言えない…私も基本的には同意します。ダメじゃありません。
けれども「手の入れ方」「作り替え方」にも、また何をもって「現代風」と呼ぶのかも、実は多種多様の側面があって、どこまでが許容され、どこまでが許容されないか、という線引きは決して容易ではない、とも思います。

例に出された蛇聟入譚…「蛇は魔法をかけられた若殿だった」はさすがにいただけないですね。物語の世界観が破綻しているからです。「魔法をかける」はこの文脈に存在できない言葉だと感じます。感じるだけではだめで、実証が必要ですが。
…こんなふうに、一つ一つを個別に検討していくよりないのでしょう。

ネコパパは児童文学というジャンル自体を偏愛しているので、いい本なのに子どもに読まれない、という状況を見ると苛立ちます。どうすりゃいいんだ、反射的に考えてしまうのですよ。
お騒がせしました。

yositaka

2020/08/28 URL 編集返信

なるほど! 了解しました。
ネコパパさんのお考え了解しました。納得です。

さて、古い作品にもう一度光を当てるのには、メディアを変えるのがかなり有効かなと、補足しましょう。
童話からアニメ映画へと、銀河鉄道は変身しました。銀河鉄道じしんが草稿から他者により再構成される特殊な例だから、いろんなヴァージョンが可能です。モーツァルトのレクイエムやムソルグスキーのボリス・ゴドノフみたいです。
コペル君は、漫画に。
もっとも、失敗例もあって、ドリトル先生がハリウッド映画に、これはがっかりでした。
ハリウッドといえば、戦争と平和もチャラチャラしてて。ソ連のは良かったです。
文学作品を文学作品としてリライトするのは、源氏物語辺りでも苦しいなと読みながら思ってしまいますが、メディアが異なると、異なることじたいが、どう違うかと興味を持たれ、原作に手を出すファンも現れるかと思います。
安政5年7月11日もアニメ化するとどうなるのかな、ジブリで見てみたいです。

シュレーゲル雨蛙

2020/08/29 URL 編集返信

yositaka
Re:なるほど! 了解しました。
シュレーゲル雨蛙さん
ジブリも現在は活動停止状態で、高畑勲は逝去、宮崎駿も「締め切りのない」かたちで制作を続けていますが、アニメの時代は世代交代したとみてよいでしょう。
個人的には、宮崎駿のDNAは形を変えて次世代監督に引き継がれていますが、高畑勲ラインが少ないのです。客観性を保持したリベラル路線。かつおきんやの執筆姿勢にリンクするのは高畑路線だと思いますが、そちらは「この世界の片隅に」の片淵須直くらい。でも、期待したいですね。

ハリウッド映画について。これも多様性はありますが、もしかして子ども向けになると、パターン化が著しいといえるかも。原作が何であっても、みんな同じようになってしまいます。アメリカの子ども向き映画の製作には、厳しい倫理規定があって、そうならざるを得ないのかもしれません。それでも、原作を読もうとするきっかけにはなりますが。

yositaka

2020/08/30 URL 編集返信

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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