1997年より続く出版不況の中、逆に売上を伸ばしている児童書市場。
なぜ「子どもの本」は売れるのか。気鋭のライターが豊富な資料と綿密な取材で解き明かす!
■通史がなければ書いてやろう
筆者は子どもの本の専門家ではなく、編集者出身でウェブ出版やコンテンツビジネスについての著書が多いライターです。自身にお子様が生まれるまでは、書店の児童書コーナーに足を運んだこともなかった。そんな筆者が「子どもの本」に関心を持ったのは、近年の出版不況の中で、以外にも健闘しているのがこの分野だったこと。
ビジネス書のように各種のデータを積み上げて、その裏付けを取ったあと、筆者が気づいたのはこの分野を総合的に著述した通史がないということでした。個別にはあるが、総合的にはない。
「なら、自分で書くしかない」。
こうして出来上がったのが「子どもの本をマーケットとして見る」通史、本書というわけです。
児童文学史とは違うので、その種のものを期待すると、アテが外れるかもしれません。
でも、ネコパパには大変刺激的な本でした。
あえて分類すれば、児童文学に違いないのに、意外にそちらの専門家からは言及されない、しかし子どもにはとても人気のある作品について「なぜ売れるのか」が、論評されているからです。
そんな意味で、ネコパパにとって本書の最大の読みどころは第三章「ヒットの背景」でした。
ここでどんな本が取り上げられているのか。
「目次」からいくつかを拾ってみましょう。
おしりたんてい論ー推理が理解できない未就学児~低学年も楽しめるミステリーとは?
ヨシタケシンスケの絵本はなぜ絵本なのに小学校高学年にも読まれるのか
『かいけつゾロリ』はハリウッド脚本術と時事ネタで心をつかむ
『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』ーセオリー破りの設定と毒、自分で考えたくなる駄菓子
グレタ・トゥンベリの警鐘とシンクロする『動物と話せる少女リリアーネ』
■本を読まない子だけに書く
共通しているのは、選ばれている「ヒット作」には、論評や研究対象から外されがちな本が多いこと。
なぜそうなのか。
ネコパパには実感的にわかります。
書店に行くたびに、必ず児童書コーナーに立ち寄るネコパパですが、数多く並んでいる本の中には、「目」に入るけれど、「手」にはとらないものが少なくありません。例えば「漫画っぽく派手な表紙のシリーズもの」です。
「子どもの本好き」を自認しているネコパパも、気が付くと、いつの間にやら「大人の好きな子どもの本」に趣味が偏ってきているのかもしれません。
あるいは、50年前、40年前の子どもの価値観を引きずっているのかも。
例えば「おしりたんてい」シリーズ。
以前は、売れていることは知っていても、心のどっかでは
「けっ、子どもに迎合しやがって。こんなのは一時的には売れても、所詮は消耗品さ」
なんて気持ちがありました。
それが、孫のテンコは、熱中するんですね。それこそ、隅から隅まで何度でも、舐めるようにして読んでいる。そんなに面白いの?とつられて読んで「いや、いや、これは失礼しました」と感じた次第です。こんなこともあるのか。
筆者、飯田一史は、そのあたりを、実に巧みに分析しています。
ミステリーの楽しみは「二次的信念」(「Aさんは、~だと思っていると、Bさんは思っていることがわかる」のような、入れ子的思考)から生まれる。これの発達していない未就学児~低学年児には、本来「ミステリー」は難しい。
にも関わらず、「おしりたんてい」は謎解きの手がかりを開示しながら進行する「本格ミステリー」の様式を守り、丁寧に書かれている。ただし、読者には難度が高い「謎解き」そのものは、主人公に任せ、読者には「考える」ことよりも「読み返す」「手がかりを辿る」随所に散りばめられた「ミニゲーム」を楽しむなどの参加機会を増やす。そしてラストは、子どもが大好きな「おなら」と、赤塚不二夫伝来の「劇画化」のおかしみでカタルシス。
「おしりたんてい」は、子どものニーズに存分に応えた「多様な戦略」の宝庫、と筆者は見ているようです。
その戦略が、64歳のネコパパにも通用してしまった。実際、統計によるとこのシリーズは、高学年にも支持されているそうです。おおっぴらには読めないでしょうが…
1987年からはじまったという原ゆたかの『かいけつゾロリ』シリーズの分析も鋭い。
学校図書館で子どもを見かけると、3人にふたりはこれを読んでいる、と思うくらい、親しまれている本です。なんと、3200万部を超えるベストセラーなんだそうです。
ネコパパはまともに読んだことがない。でも筆者によれば、本作にはハリウッド映画の書法に学んだ構成が生かされ、ページ毎の「感情のアップダウン」など、息もつかせぬ展開があり、そこにひねりのある「時事ネタ」までも加えられている。
例えばシリーズに対する大人の悪評を、そのままストーリーに取り込んだり、大人の欺瞞や身勝手さをいたずらの標的にしたりするなど。思われているよりもずっと「作家性」のある作品のようです。
筆者は言います。
「『ゾロリ』を読んでいる子どもに「もっと良い本」を読ませようという試みはうまくいかない。子どもは教育的な「良い」ものから離れるために、悪知恵を働かせてニヒニヒと笑うゾロリや、おならでなんでも解決してしまうイシシやノシシが出てくる『ゾロリ』を読んでいる」からである…
作者、原ゆたかは「本を読まない子しか対象にしていない」と公言。
子どもの好きなものをいち早くキャッチするために、日常生活も小学生とほとんど同じにするように意識しているとのこと。
流行のゲームで遊び、おもちゃ屋に通い、「コロコロ」も読む。
なんだか、近代私小説作家のような鬼の執筆姿勢が伝わってくるようです。壮絶さすら感じられます。
取り上げられた本の中で、ネコパパが最も気になったのは「動物と話せる少女リリアーネ」シリーズでした。既刊13巻。小学生の女の子に人気のシリーズ。
「ファンタジーか」と横目で見つつ、キラキラした表紙の印象が浅薄に思えて、何度か手にとってはみたネコパパでしたが、表紙や挿絵のいかにもな(少女漫画は大好きなのにも関わらず)「少女漫画っぽい絵柄」を見ると、どうにも読もうという気持ちにはなりませんでした。動物と人間が「まとめて擬人化」された、予定調和的なユートピア作品と思い込んだのです。
ところが本書には「キャッチーな入口だが、内容はシリアスで、問題意識が高い」と書かれている。
主人公リリアーネは「動物と話せる能力」を生かして活躍するものの、その能力はリスクも高く、学校でのいじめや、家族の亀裂を生み出す原因にもなる。また、リリの関わる動物たちも、それぞれが解決の難しい、深刻な問題をかかえていて、そのまま人間社会の数々の矛盾とオーバーラップするように描かれているようです。
これまた、ネコパパの想像していた内容とは違うようです。
以上はほんの一例。
示唆に富んだ作品分析、マーケティング分析はまだまだ続きます。
興味をお持ちになった方はぜひご一読ください。
■「顧客」と「希望」
筆者の結論。
子どもの本がマーケティングとして成功しているのには、理由がある。
1990年代、国の政策の転換が読書推進の機運を大きく後押しし、社会、学校、家庭での「子どもの読書環境」を変質させたこと。そして出版界は、それに合わせて流通経路の多様化をはかり、読者のニーズに応える努力を続け、成果をあげたこと。「リリアーヌ」の漫画風の挿絵やキラキラ感が日本版オリジナルであることも、そんな子どもを惹き付ける工夫」の一環なのでした。それがネコパパを敬遠させることになったのはなんとも皮肉な事実でした。
子どもの内面的として筆者が挙げるのは
「自立心・反発心」「創造・参与の余地」「感情刺激」「時事性」です。そのためには「激しい感情表現」や「ストレートにデザイン」が必要と述べています。いかにも「顧客」としての子どもを客観的に捉えた視点と思われます。それによって今「子どもの本」は、凋落の出版業界の中でひとり踏みとどまる。しかし長期的に県庁を維持できるかはわからない…
ここでネコパパが思い浮かべるのは、1950年代末期、現代児童文学を立ち上げた人々が旗印として掲げたスローガンです。
「散文性」「子どもの論理」「変革の意志」
彼らはおそらく、子どもを「顧客」としてではなく「希望」として捉えていたのだと思います。
そうしたものを仮に「文学性」と呼ぶとすれば、
筆者の言う子どものニーズに「文学性」の居場所は、はたしてあるのでしょうか。もしもあるとしたら、それはどんな形で存在しうるのか。
ネコパパが筆者に質問したいのは、そこです。
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