「汲みつくせぬほどの水」-我が師に、惜別の言葉を

大学時代の恩師、勝尾金弥先生がなくなりました。ネコパパにとって最大の「児童文学の師」でした。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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勝尾金弥さん死去 92歳児童文学、中日文化賞 
2020/4/6 朝刊
かつおきんやの筆名で数多くの児童文学作品を残した愛知県立大名誉教授の勝尾金弥(かつお・きんや=勝尾信一・福井総合病院院長の父)さんが、四日午前十時四十一分、老衰のため死去した。金沢市出身。九十二歳。自宅は金沢市笠舞一の一九の二二。葬儀・告別式は六日午前十時から金沢市笠舞三の四の三、セレモニー会館兼六笠舞で。喪主は妻外美子(とみこ)さん。

少しだけ、個人的な話をします。
その昔、ネコパパは文学部国文学専攻の学生でした。
学問への熱意は、まずまずあったとおもいます。けれど、その大学の中心的研究分野は古典文学で、高校時代から児童文学を読みふけり、卒業論文もこの分野で…と虫の良いことを考えでいた私にはちょっと世界が違っていました。もちろん、古典文学もたいへん面白かったのです。でも、児童文学の勉強もしたい。それで、あちこち出かけていっては作家、研究者のお話を拝聴する…という、現在のネコパパの「児童文学依存症」ライフスタイルがだんだんと形成されました。
幸いなことに大学でも3年次「児童文学」の講座が開設となり、講師として招聘されたのが勝尾金弥先生でした。講座の参加者はほとんど文学部の学生で、20人くらいと少数。講義形式ではなく、コの字に机を並べた読書会形式だった記憶があります。題材は明治大正期の児童文学史。

勝尾先生は1968年に課題図書になった「天保の人びと」をはじめ多くの作品を上梓されている歴史児童文学の作家であり、明治時代の「黎明期」を中心とした歴史児童文学研究の第一人者でありました。
ネコパパ毎回のように質問を用意して、講座が終わった後、校門近くにあった喫茶店に入っては助言指導を仰ぎました。先生はどんな初歩的な質問にも、紳士的に、懇切丁寧に答えてくださった。私のテーマは「戦後児童文学のおけるファンタジーの展開」というもので、先生の専門分野とはかなり異なるものだったのですが…
今になって、歴史児童文学に関する先生の数多くの研究実績を知ると、あの当時、お聞きすべきことはもっともっと別にあったと思わないではいられません。何たる勉強不足の学生であったことか。

改めて当時のノートやファイル類をひっくり返してみると、昭和54年(1979)12月に名古屋で開催された「日本児童文学学会」の研究発表要項が出てきました。その中に勝尾先生のレジュメがありました。

「伝記叢書『少年読本』の今日的価値」

研究対象は1898年から1902年まで刊行された叢書。
内容は、近世の英雄豪傑を中心とした伝記です。几帳面な手書き文字でびっしりと2ページに書かれた内容は、研究発表でよく見かける「別紙資料」とは別次元の「論文」でした。
レジュメ

この内容は見覚えがありました。
先生の著作の一つ「伝記児童文学のあゆみ」(1999ミネルヴァ書房)第3章。

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同じテーマですが、こちらは40ページにまとめられた完成稿です。しかし書目の配列や項目、記載された書名も、微妙に違っています。二つを比較すると、20年後の文章は内容がさらに突き詰められ、より客観的なものに進化している一方で、レジュメには試行錯誤と、時にはそのまま書くのを躊躇った、先生の逡巡のあとを読み取ることができる気がします。
当時は地味に思えた内容が、今読むとたいへん興味深く、面白い。

このような「本物」の研究の「醍醐味」を感じ取る力は、学生時代のネコパパにはありませんでした。もし教えていただいていたとしても、当時はきっと理解できなかったでしょう。
ネコパパはこれを、40年前に出された先生からのお手紙ととらえて、肝に銘じなければ、と痛感した次第でした。

やがてネコパパはアヤママと知り合い、勝尾先生が私たち二人の共通の「恩師」だったと知ることになります。
そして二人で出かけた金沢での思いがけない再会があり、さらに時を経た2003年には、中日文化賞受賞講演会での最後の出会いがありました。
お話は多岐にわたりましたが、特に印象的だったのが「井戸掘り」の話です。

 (2)

1969年の作品「井戸掘吉左衛門」(「五箇山ぐらし」所収 アリス館)を読んだ読者から、こんな手紙が届いた。
「この本には『上総堀り』について、使われた道具や細かい掘削の方法がたいへん詳しく書かれているが、私はこれについて書かれた本を見たことがない。もしかすると世の中でただひとつの本なのではないか、と感銘しました」という手紙だった。
私がこの本を書いた当時も、井戸の掘り方について書かれた本はただの一冊も見つからなかった。それで、あちこちの職人を訪ね、聞いて歩いたのである。
なぜ書かれたものがないのかと尋ねると、職人からは「当たり前のことだから」という答えが返ってくる。
「それがないというのが、日本という国なのでしょう…」と、手紙には書かれていた。
しかし現在は、私の記述を頼りにして、井戸掘りの技術を後世に残そうとするNPOも立ち上がっている。
本は、いつ、誰に読まれるかはわからない。
ただ、大切と思うのは「本というものは、残るものである」ということだ…

これが「井戸」の話だったことは、ネコパパには偶然とは考えられません。記され残された言葉は、井戸の中の水のようなもの。本と井戸、井戸と言葉は、ほとんど同義語です。
まだまだ先生の井戸には、汲みつくせぬほどの水が蓄えられている。
ネコパパは、これから汲み出し続けていかなければ、と思うのです。

合掌…
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コメント

コメント(2)
すばらしい師をお持ちですね
ネコパパ様の師の話を伺うのは、初めてかと思います。すばらしい師をお持ちですね。
上総掘りの話は、民俗学者でもあったということでしょう。稀有なことです。
児童文学作家が、じぶんで聴き歩いた材料に基づかずに昔語りを再話することに業を煮やした関敬吾先生が日本口承文芸学会設立総会の会場を出たときに、近くにいた松谷みよ子に向かい、人が一所懸命に聴き集めた資料を元に作文して儲けるなんていい商売だねと顔を真っ赤にして怒ったそうです。
弁護しておきますが、松谷はその言葉に対して、以後、民話を聴き歩くことを精力的に行いました。しかし、いまも残念ながら、我が足を使い、耳をそばだてるいとなみと書くいとなみとをきちんとしていないと見受けられる「昔話」再話があるのは、確かなことです。
後日譚があって、関先生の米寿記念パーティのとき、松谷が関先生に花束を差し出したら、先生花束を受け取ったそうです。花束を受け取ってくれた、関先生は許してくれたんだわと松谷は喜んで、蛙の隣人氏の師の奥さんに伝えたそうです。もっとも師の奥さんが言うには、先生、人が入れ替わり立ち替わりで誰が誰だか分からなかったのよ。
これは、隣人氏が師の奥さんから直接聞いた話。隣人氏もこのパーティには出ていたらしいですが、ぼくは食い気専門だったから。
情けないですね。

シュレーゲル雨蛙

2020/04/29 URL 編集返信

yositaka
Re:すばらしい師をお持ちですね
シュレーゲル雨蛙さん
コメントありがとうございます。勝尾金弥先生の歴史児童文学者としての活動は、地元金沢の歴史を足で調査されてのものでした。
訃報は金沢在住の私と妻の共通の知人から頂いたもので、地元紙と中日新聞以外では報道もされていなかったようです。今は難しいですが、機会を見つけてご挨拶に伺えればと思っています。

知人の話では葬儀の際に先生が書かれていた自伝二冊が配布されたとのことです。
遅ればせながら私も入手。これから、じっくり拝読しようと思っています。
自伝といっても、先生が小学校3,4年生だった昭和11年から12年までの2年間に絞り込まれ、ご自身の生活誌だけでなく、当時の金沢の経済、市民生活や子どもたちを取り巻いていた文化、災害、地場産業の詳細を書き記した、トータルで600ページに及ぶ著作です。「自分の足でとことん調べて書く」姿勢を貫かれた作家としての集大成といえるかもしれません。その執筆姿勢はたしかに「民俗学者」の姿勢と通ずるものがあったかもしれませんね。

それにしても残念なのは、全18巻の作品集がアリス館、偕成社と2回も刊行され、数多くの研究書も出されている先生の訃報が、全国紙には出なかったことです。児童文学の冷遇ぶりは今に始まったことではないにせよ、これはなんとも悲しいです。

yositaka

2020/04/29 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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