旧満州における日本人の児童文学活動

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以下は、2019年3月に愛知淑徳大学で行われた日本児童文学学会中部支部例会の報告。講演の内容は大変興味深く、示唆に富んだもので、日中・日韓関係の冷え込みの中、忘れられつつある「満州国」について知見を深める機会となった。
ネコパパのメモと、当日のレジュメをもとにした文章化である。


2019.3.9日本児童文学学会第92回中部例会

講演「旧植民地『満州』における日本人の児童文学活動について」

講師 中国児童文学研究会・日中児童文学美術交流センター 寺前君子


1984年の日清戦争で、日本は台湾を植民地とした。1904年の日露戦争では、朝鮮半島の鉄道経営謙を奪取。直後から日本の満州植民地化が始まる。
1906年、南満州鉄道開業。これは国策会社であり、以降、満州のすべての産業に同社が関与することになる。
満州事変は関東軍の謀略だったが、当時国内にその事実は知られず、国内世論は満州国支持であった。1932年3月1日、満州国建国。しかし、中国では傀儡国家であることは周知され「偽満州国」と称された。中国以外の国も満州国を日本側の侵略と認定したため、日本はこれに抗議して1933年3月国際連盟を脱退する。以降、国策として、この土地を一家の次男、三男の受け入れ先として広範に移民要請を展開する。

1945年8月9日、太平洋戦争末期、ソ連軍は満州国に侵攻。8月15日日本敗戦、8月18日、満州国滅亡。取り残された人々の帰国は翌年5月から開始。実施されるまでの9ヶ月間、人々は放浪生活を強いられつつ、寒い冬を越さなければならなかった。
引揚者127万人中、民間人は111万人である。

今回の発表は、満州国における教育文化と児童文学の有様を満州国建国以前の時期から検討していく。

■満鉄による教育文化活動

1913年、夏目漱石と巌谷小波は満州国を来訪した。満鉄による文化人招聘の一環であった。
漱石は帰国後「満韓ところどころ」を1909.10.21~12.30「朝日新聞」に掲載。
小波は40日間にわたって滞在し、講演を行い、子どもたちを対象としたお話会も行った。お話会の内容は御伽噺で、小波は集まった子どもたちに合わせて、同一の話も学年ごとに内容を変えて話したという。会は丸一日、午前は子ども対象、午後は看護婦、高等女学生を対象に行われた記録が残っている。女生徒に向けては母物(良妻賢母物)の話がなされた。小波は滞在中、精力的に語り71回の講演、学校など教育施設の視察も行い、その内容は帰国後に雑誌『少年世界』に、『満州いろは話』として掲載された。これは当時の日本の子どもが「満州」にはじめて触れた記事である。
1926年、巌谷小波は満州国の招聘で再度訪問。これは児童愛護意識の涵養を目的とした「全満児童デー」に合わせての招聘であった。
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満鉄発行「満州日日新聞」では「子ども欄」を設け、児童作品の掲載、満州風土の特異性と母国日本の情報発信、公民科教育を推進するとともに児童文学に関わる人々に発表の場を提供した。

■現地適応主義教育

満州国の教育体制は、現地適応主義教育と称されたが、日本人と中国人は学校が分けられていた。
朝鮮人も同様であったが、地域によっては日本人と同じ学校に就学することもあった。教科書は国定教科書と副教科書の併用が行われた。桜が咲かず、梅雨がなく、水田もない満州では、日本の四季に合わせた国定教科書では都合の悪い面もあったからである。この教育体制は戦況が変化しても維持された。注目すべきは満州国内でも、関東庁と鉄道付属地である満鉄領では教育内容が別立てになっていたことである。

■関東州における児童文学活動-石森延男

満州国とかかわりの深い児童文学者を二人取り上げて検討する。
一人目は、石森延男(1857~1987)である。

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札幌生まれ。教員を経て1926年、諸橋轍次(1883 - 1982)の勧めで教科書の編纂者となる。公務の傍ら在韓日本人生徒向けに多くの課外読み物を発行。「郷土愛・生活愛・読書愛」を信条とした。1932年大連民政局地方課学務係に転勤し、視学官として3年間勤務する。1936年大連彌生高等女学校に転勤、国語教師となる。新聞小説「蒙古風」を「満州日日新聞」に連載、満州の教育文化の中核として活動した。1939.3.29、文部省辞令で文部省図書局図書監修官に任じられ満州を離れ、国定教科書、いわゆる「サクラ読本」の改訂作業に従事する。改訂にあたって満州教材が加わるため「満州事情に精通」している石森が抜擢されたのである。

帰国後は連載途中だった「蒙古風」に大幅加筆して満州を舞台とした少年小説「咲き出す少年群」(1939新潮社)として出版、作家としてデビューを果たす。

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戦後1947年、学習指導要領・国語編の編纂。1948年最後の国定教科書の編纂に当たり、1950年、文部省退官。光村図書で国語読本・国語教科書の編纂に携わる。1951年昭和女子大学教授。長編小説『コタンの口笛』出版。

石森延男が満州で編纂した課外読み物には、満州で生活する日本人の生活様式が描かれている。中国朝鮮の影響は少なく、ほぼ日本国内同様の生活が営まれていたことがわかる。特に大連、関東省ではその傾向が強かった。石森の基本的姿勢は、日中それぞれの文化を互いに尊重したいというものであった。また、当時石森はハタノジラウ、丘光というペンネームを用いて少年小説を執筆していたが、ペンネームを使用した意図は不明である。ただ、ペンネームで発表された作品は軍国色の強いものが多いようにも思われる。
童話雑誌「新童話」(1932.2上級用第21号)「後記」で石森は「正しい自分を守るためには、命をかけねばなりません。わが祖国を守るためには、戰も辞しません。我々は日本人です。櫻咲く国の国民です。いさぎよく世界に乗りださうぢゃありませんか」と記述している。

■満州鉄道付属地における児童文学活動ー寺田喜治郎

二人目は寺田真治郎(1885~1975)である。
明治18(1885)年岡山県の生まれで東京高等師範学校を卒業し各地の中学校教諭、京都府地方視学、大谷大学専門部教授を経て1924年11月満鉄に入社。
以降は満洲教育専門学校教授、撫順中学校長、奉天中学校長、満鉄奉天第一中学校校長、1938年11月民生部教育司編審官、文教部教学司編審部長となった。
撫順中学校の国語教員時代、教員による「国語夜話会」を組織し国語教育の研究につとめた。
『コドモ満洲』はこの会の編輯でもあり、全満各小学校で課外読物として使用された。教育者としては「多読」によって国語力を伸ばそうとする実践を行った。満州国小学校国語教科書に編纂にも携わる。1944年病気のため職を辞し帰国。戦後は古蹟探求に携わり、国語教育についての著述発言はいっさいしなかったようである。

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『コドモ満洲』1931.9~1937.3、391冊現存。
学年別四分冊。文学作品の多くは内地出版社からの転載。「赤い鳥」「コドモノクニ」等からの無断掲載が多いという。
在満の子どもたちに満州に関心を持たせようとする意図もあるが、新聞記事から世の中の動きを知り、日本の文学作品に触れ、世界に目を向けさせることを主眼として編集されている。

■質疑応答、ネコパパ感想

質疑応答の時間は、石森延男の国策協力の姿勢から戦後の執筆活動への転換への葛藤はなかったのか、という点に集中した。

寺前氏は、石森には『植民地』という意識はあったが「子どもの郷土愛はどの地でも成長する」という彼の理想(ヒューマニズム)は満州でも通用すると考えていたと述べられた。
国策協力は確かにあったが、彼は戦後の作品でも満州を「ふるさと」として描き、その地で教育活動を行ったことについての責任や反省は語っていない。
1939年という平穏な時期に帰国したこともあり、加害者意識は薄かったのではないかと推察される。
なお、戦後公刊された全集には、満州時代の作品も収録されているが軍国色のある部分は削除されているという。またペンネームの件は必ずしも政治的意図ではなく、執筆者が少なかったために頭数を揃えようとしたとも考えられるという。

挙国一致の満州国称揚の国情の中、本発表で取り上げられた二人は教育行政の中核として重用されたが、両者とも満州国滅亡とそれに伴う移住者の受難は体験しなかった。
しかし、戦後の生き方は対照的である。教育界から身を引いて隠生した寺田真治郎に対して、戦後も同じポジションを維持した石森延男。

ネコパパは国語教員として長年光村図書の教科書を使用してきたが、巻末の編集委員一覧には石森延男の名前はずっと記されていた。
また、同社刊行の児童文学雑誌「飛ぶ教室」(1981.12創刊~刊行中)も、実質的な編集は「編集後記」を書いている今江祥智、尾崎秀樹、河合隼雄の三人としても(記名記事もなし)、「筆頭」に挙げられていたのは石森延男である。
国語教育界、児童文学界では戦前と同様、石森の名前は「ビッグネーム」だったのである。
1939年に帰国、ということで最悪の状況を体験しなかった、しかしそれをもって戦後も「ヒューマニズム」を信条に児童文学界で活動し、満州時代の戦争責任については一言もなく、さらに全集からは「過去の古傷」を削除しておくというのは、ネコパパにはあまり理解できない生き方と言うしかない。石森延男にとって戦争とは、満州とは何だったのだろうか。

追記。
「飛ぶ教室」創刊号に石森の記名記事が見られないと先ほど書いた。しかしおそらくは彼の執筆と思われる巻頭言がある。断定はできないので、引用に留めるが、一言だけ。ここに記された「戦争」という言葉の軽さをどう捉えたらいいのだろうか。

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コメント

コメント(2)
考えさせられました。
重厚な研究発表のご紹介、興味深いです。

石森延男の戦中と戦後、興味深いとともに、私たち日本人全体のありようを考えさせてくれます。
たぶん私が小・中学校で使った国語教科書にも、彼の名前があったんでしょう…。

唐突ですが、彼の身の処しよう、昨今の高級官僚の、国会でのトンデモ答弁の裏にある心理を想起させました。

> ここに記された「戦争」という言葉の軽さ
この「軽さ」は、読者を身構えさせないものにも(皮肉なことに)なっていたのでは?
月並みですが、阿部謹也氏の「世間」論を思います…。

へうたむ

2020/03/18 URL 編集返信

Re:考えさせられました。
へうたむさん
ほとんど研究が進んでいない旧満州国の児童文学について、意欲的に考察を進められている寺前君子氏は、2019年6月発行の「梅花児童文学」にも「新聞の付録双六における『満州』」という興味深い論文を発表されています。
今後も注目していきたい研究者です。

さて、石森延男の作家としての足跡は、日本と中国の子どもたちの相互理解を目的とした「慕はしき人々」(1926)にはじまり、子どもたちの「異民族間の友情」を描く「咲き出す少年群」、さらには戦後、アイヌ民族問題を描いた「コタンの口笛」と、一貫して他国・他民族との協調を描いており、その意味では確かに「ヒューマニズム」の作家という一面を持っています。
しかし、戦前・戦中・戦後と、常に教科書、副読本編纂者として「官」に準ずる立場にあったことは、文学者としての自己の客観化、相対化を妨げたと思われます。

このことは彼に限らず、戦争を生き延び、子どもに関わる仕事に携わり続けた教育関係者、児童書関係者の多くにも言えることでした。「トンデモ答弁の裏にある心理」は、確かに日本の「官」特有の病理、無関係とは思えません。

yositaka

2020/03/18 URL 編集返信

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プロフィール

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Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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