重大な問題提起として受け止めたい。映画『Fukushima 50 』

アヤママの誘いで映画館へ。
例の疫病に対する警戒態勢下なので、観客の入りはどうかと思ったのだが、上映されたのは行きつけのシネコン最大の場所。500席はありそうなところだが、観客はおよそ30名。グループごとに席を離して着席。これなら何の心配もなさそうだ。

見たのはこれ。

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■迫真の事故描写

2011年の福島第一原子力発電所の事故に現場対応した発電所員の奮闘を描くストーリーである。あの事故から早いもので9年、私の中ではまだつい昨日のように記憶は生々しいが、若い世代にとっては過去のものになりつつあるのかもしれない。
あの事故がどのようなもので、どのような経緯を辿って、「一応の」終息を見たのか、多くの人に知ってもらい、記憶にとどめて今後の教訓としてもらいたい…
そういう意味では、一人でも多くの人に見てほしい映画だ。
とにかく、進歩したSFXの効果もあって、どこで何が起き、事故がどのように推移したのかが、時系列でよくわかる。

「事実を基にした物語」と冒頭に断り書きが出た後、映画はなんの前振りもなく、発電所を津波が襲うシーンからスタートする。
短いカットを次々に積み重ねていく近年主流になった映画の語法で、息もつかせずストーリーは展開。
深海での津波発生から、波をかぶってショートし、停止する非常電源装置、事故対応のために格納容器内を走る発電所員の靴底が、高熱で溶けて鉄の床に張り付く描写、前触れなく突然起きた水素爆発の惨状など、映画ならではの迫真の描写である。

一方で、問題点も多い。

■脚色に「忖度」が見え隠れ

この事故にある程度の関心と問題意識を持っているならば「事実を基にしたエンターテイメント」としてつくられたこの映画に、疑問を感じる人も少なくないだろう。
まずはストーリーと人物設定。事故対応に獅子奮迅の努力を続ける渡辺謙扮する吉田所長と佐藤浩市扮する伊崎当直長、そして所員たち「現場の人間」がひとりのこらず「英雄」として描かれるのに対し、東電本店と官邸の関係者はひたすらおろおろと動揺し、状況への「忖度」に汲々としている「愚者」のように描かれる。
とりわけ目立つのは、佐野史郎扮する総理で、冷静さのかけらもなく、やたらにわめき散らす役柄である。
まるで、ハリウッドのパニック映画の構図だ。優秀な集団と無能な集団の対比でメリハリをつけ、テンポよく畳みかけるように進めることで観客の心理的高揚をねらう。そのために、かなりの脚色が行われている。
「大きな捏造」がないのなら、面白くするための脚色は必要だ、それで多くの人々が関心を持ってくれるのならいいではないか…と製作側は言うのかもしれない。

それでもね…

総理が視察に来るから、作業を遅らせて対応する…ここでは総理は現場対応の足を引っ張る存在として描かれているが、はたしてそれは事実だろうか。
海水注入の決断を遅らせる本店の指示を、とっさのスタンドプレイで切り抜ける吉田所長…これも脚色だと思う。
海水注入は、一度本店から阻止されかかる。その理由が「海水の不純物が核反応を招く可能性があるから」とされていたが、これはおかしい。事故当時は「海水を入れてしまうと再起動が不可能になる」と発表されていたはずだ。

※追記 みっちさんから、スタンドプレイの件と海水注入阻止の理由については吉田所長本人の語った調書が出典では、とのご指摘を頂きました。確認すると、確かに同様の記述がありこれは「脚色」ではないようです。不勉強なネコパパ!

あと、消防車による注水がとてもスムーズにできているように描かれていたが、バルブの不整合などで、かなり手間取っていたはずだ。全体に、現場の勇気ある対応を強調するためなのか、東京電力の対応の不手際は、相当、ぼかされているように感じられた。

なによりも気になったのは、終盤での所長と当直長の会話という形で、事故の責任問題に触れているところだ。
結論は「俺たちは自然を舐めていたんだ。10メートル以上の津波が来るとは予想していなかった」
原子力発電そのものが内包する危険性や疑問は棚に上げ、あたかも自然災害の問題であるかのように語られてしまっている。
しかし観客は、このリアルな事故経過の再現を見て、「これは天災だったんだ」という結論に至るだろうか。到底、そうは思えない。
そもそも、この事故は終息していない。

事故対応、廃棄物対応は、おそらくは未来永劫、続くのである。被害者である帰宅困難者や、生活基盤を失ったままの人々も…多い。そうなると、現時点でこのような「エンターテイメント」を作る必然は…という思いにも至るのだが、こうして生み出された以上は、ひとつの指針として、「重大な問題提起」として受け止めなければいけないと思う。



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コメント

コメント(6)
またまた済みません、コメントさせてください
>海水注入の決断を遅らせる本店の指示を、とっさのスタンドプレイで切り抜ける
>吉田所長…これも脚色だと思う。
>海水注入は、一度本店から阻止されかかる。その理由が「海水の不純物が核反応
>を招く可能性があるから」とされていたが、これはおかしい。事故当時は
>「海水を入れてしまうと再起動が不可能になる」と公式発表されていたはずだ。

この話は、いかにも映画的な「見てきたような嘘」という感じがするのですが、公になっている吉田昌郎(まさお)所長の調書で、そうなっています。

東京新聞がまとめているサイトに、その調書もあります。
https://genpatsu.tokyo-np.co.jp/page/detail/13

これによると、吉田所長がちょうど海水注入を始めたところに、首相官邸に詰めていた東電の武黒フェローから『官邸ではまだ海水注入は了解していない、と。だから停止しろ』と指示がきます。そこで所長はテレビ会議の場で、一芝居を打ち、実際は止めていないのに、止めたふりをするのです。なお、この官邸からの制止は、官邸で1時間も続いた「(連続的に核分裂が起きる)再臨界論争」のためとなっています。

このあたりの話は、当時とても有名でして、そんな馬鹿な、とよく議論になりました。これが本当に真実だったのかは、分かりませんが、映画はいちおうこの話をベースにしていると思います。

みっち

2020/03/10 URL 編集返信

Re:またまた済みません、コメントさせてください
みっちさん、これは絶対に「見てきたような嘘」のような気がしていましたが、なんと、調書ではそういう記述があるんですね。
ことの真偽、とくにスタンドプレイについては、事実確認が難しそうですが、あってもおかしくはない。映画ではこの場面は所長が事前に耳打ちし、本店との対応場面で大声で「注水中止」と指示を出す演出になっていました。

ただ、海水注入については「再使用は考えなかった」「再臨界論争に1時間も費やした」とありますが、はたして真意はどうだったのか、個人的にはかなり怪しいと思います。今後の課題として記憶しておきたいと思います。

yositaka

2020/03/10 URL 編集返信

ご覧になりましたか。
> ひとつの指針として、「重大な問題提起」として受け止めなければいけないと思う。
> 脚色に「忖度」が見え隠れ
この両方が、この作品に、見る前 ― おっと、見るつもりは今のところないのですが;; ― から持っている印象です。

> とりわけ目立つのは、佐野史郎扮する総理で、冷静さのかけらもなく、
> やたらにわめき散らす役柄である。
当時が自民党政権だったら、こうは描くまい、というような‥‥菅さんは、そういうイメージを持たせる言動を取ったことは否めないかとは思うのですが。

> 原子力発電そのものが内包する危険性や疑問は棚に上げ、あたかも
> 自然災害の問題であるかのように語られてしまっている。
これが最大の問題でしょうね。

> 10メートル以上の津波が来るとは予想していなかった」
私には、こちらのほうが脚色に見えます。
すでに衆知のことですが、事故以前の2008年に、東電社内で10.2mの津波を予想していたのです:
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2403D_U1A820C1CR8000/

今般のウイルス感染についても、「想定不能な自然の驚異」と「ヒロイズム」で、為政者側のみならず、庶民も語ってしまいそうに危惧しますね。

へうたむ

2020/03/11 URL 編集返信

カリカチュア化された人物造形?
一昨年6月旭川の蜂屋というラーメン屋の隣の焼鳥屋(よしや)で佐藤浩市という俳優を見ました(ぼくの飲食しているカウンターの真後ろの席)。かなり癖の強い役者だなあという印象。思うところきっとあるはずの人。
佐野史郎は、高田馬場のマイルストーンでマスターの織部さんと一時間以上ダベっているのを昔一部始見ていました。話し方の優しい素敵な感じの人でした。(蛙はどちらも沈黙。
映画は役造りが全てみたいな印象だから、役者というよりも、監督の思想なんでしょう。
(勝新太郎は別格!
逃げてはいけないテーマですが、蛙が思うに、これにとどまらず、複数の監督がこのテーマに挑んで、複数の物語を可視化してもらいたいです。朝日の新聞評だったか読むにつけても、ぼくは今回はパスかなと思いました。

シュレーゲル雨蛙

2020/03/11 URL 編集返信

yositaka
Re:ご覧になりましたか。
へうたむさん
見るつもりはない…で、いいと思いますよ。
事故についてよく知らない人には、ぜひ見ていただきたいのですが、でもやはり、一定の問題意識がある人には、気になるところが少なくない映画だと思います。
細かく見れば、当時テレビのニュースで報道されていた「現場の右往左往ぶり」とはかけ離れた描き方がされていて、メルトダウンの予測も即座にできていたように描かれていますし、1号機爆発の状況把握もすばやく、見事なプロ集団と思わせます。
現場と報道では情報量が違うのでしょうが、所員の対応ぶりはいかにも美化された印象があります。彼らが原発を子どものように思う心情が台詞に出てくるのもいい気持ちはしませんでした。避難住民が帰還した当直長を労わるシーンも同じです。

yositaka

2020/03/11 URL 編集返信

yositaka
Re:カリカチュア化された人物造形?
シュレーゲル雨蛙さん
佐藤浩市氏も渡辺謙氏も出演には迷ったようですが、作品そのものは肯定的にとらえているらしい。苦渋の決断と実行を迫られる役柄を良く演じていたと思います。ネコパパとしては総理役の佐野史郎氏の考えを聞いてみたいですね。どこかに出ているかな?

「複数の監督がこのテーマに挑んで、複数の物語を可視化してもらいたい」…まったく同感です。複数の観点が必要です。

yositaka

2020/03/11 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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