小林秀雄音楽論の欠落を埋める好著

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小林秀雄は『モオツァルト』以外わずかな音楽評論しか残さなかったが、実際は大変な音楽ファンで、日々レコード三昧の生活を送っていたようである。
本書は、本人が文章化しなかった音楽録の欠落を補う意図で、筆者が数々の資料を発掘補填して、小林秀雄と音楽の親密、かつ本質的にも思われる関係について考察したもの。評論というより、資料を土台に筆者が自在に想像の翼を広げた「物語エッセイ」とでも呼ぶべき一冊。とても面白く読むことができた。

タイトルの「最後の音楽会」とは、もちろん小林が演奏するのではなく、彼が耳にした最後のコンサートという意味で、生涯最後の日々の中のある日、テレビ放送された、ユーディ・メニューインの来日演奏会の録画番組をさしている。
すでにほとんど音楽を聴かなくなった病床の小林は、妻の知らせに起き出し、この番組を最後まで座って耳を傾けたという。つまりこれは、小林秀雄が「生涯最後に聴いた音楽」であった。
本書はその曲目プログラムに含まれたベートーヴェン、バルトーク、フランク、そしてアンコールで演奏されたブラームスという、作曲家と小林秀雄のかかわりをひとつひとつ丹念に考察しつつ、彼らの存在が「文芸評論」という小林の生業をいかに駆動していったかを書き綴っていく。

「仕事に精神を集中してじっと考えていると、彼の頭には、いつも音楽が聞こえてきたという。小林秀雄の批評は、音楽の精神から誕生する。その文章は音楽のごとく歌い、思考し、感じようとするのである」(本文148ページ)

でもまあ、ネコパパにとって興味深かったのは、そうした杉本の果敢な想像力を駆使した考察よりは、それを導き出すために彼が発掘・引用した浩瀚な資料が語る事実そのものだった。
『モオツァルト』の冒頭に出てくる「道頓堀でのト短調体験」、その大阪道頓堀に小林が「遁走」するにいたったいきさつが「中原中也、長谷川泰子との奇妙の三角関係」に端を発する生活の破綻にあったこと、
その小林が乱脈な生活の待避所としていたのが、盟友 河上徹太郎の楽の音流れる端正な書斎であったこと…このあたり、小説を読むように面白い。

蓄音機と小林の運命的なつながりが父親の持ち込んだ「洋行土産の蓄音機」だった話にも驚かされた。
小林秀雄の父、豊三は、ダイヤモンド研磨技師で実業家。蓄音機のルビー針などの技術を開発した人だが、多忙で家を空けることが多く、短命でもあったので小林との直接の交流は少なかったようである。しかし幼少時から父が持ち込んだ蓄音機に親しみ、蓄音機針の開発に余念がなかった父との生活は、小林の生き方を決定づけた大きな要因といってもよさそうだ。著名な文芸評論家を生み出した土壌に蓄音器があったとは、驚きである。

杉本はまた、小林の音楽観を暗示するものとして、活字化されていない資料に目を向ける。
膨大な対談、鼎談のなかで発せられた、何気ない一言も見逃さない。その中でも重要なのは作家の五味康佑と対談した「音楽談義」(1967)の録音だ。本書のもっとも重要な主張「『本居宣長』はブラームスで書いている」→「小林秀雄はブラームスのように書いた」は、ほとんどここに収録された小林自身の談話が典拠といっていいだろう。
ネコパパは以前、シュレーゲル雨蛙氏(の隣人)の御好意でこれを聴かせてもらったことがあった。食事をしながらの気楽な雑談の風で、小林の江戸っ子らしい口調が楽しめるが録音は劣悪、しかも時間がたつにつれて酔いが回り、呂律が回らなくなるという有様で、そこまで唯一無二の資料だとは気付きもしなかった。見る人が見ると、違うのだ。

小林秀雄のレコード棚には1000枚近いLPが残され、そこにはブラームスが多かったというのも重要な証言。中でも多く針を通した痕跡があったのが、カラヤン指揮ベルリン・フィルの第1交響曲(DGG一回目の録音)だったというのも意外だ。
小林は、ヴァイオリニストやピアニストについては文章を残しているものの指揮者についてはほとんど書いたり話したりしていないという。小林秀雄にオーケストラ演奏へのこだわりがどれほどあったのか、ぜひ知りたいところだ。杉本氏には今後も新資料の発掘を期待したい。
それと要望。引用文献の一覧と、できれば索引があると助かります。

最後にネコパパの体験を一つ。
小林秀雄が最後に聴いたという「巨匠メニューヒン」(本文では「巨匠メニューイン」とあるが、間違いと思われる)という番組を、同じころネコパパも視聴した。1982年11月17日の公演だから、就職して間もない時期。一人暮らしの安アパートにはTVを置かなかったから、実家で再放送を見たのか、あるいは1983年1月の実家滞在時に視聴したのかもしれない。
昔の記憶だが、バルトークの無伴奏は曲自体よく理解できず、「クロイツェル」とフランクのソナタは、これもなんだか「呂律が回らなくなった」演奏という感じで、印象は決してよくなかった。
これのどこが「巨匠」なんだ、とえらそうな感想を持ったものだ。
本書を読むと、これがなんだか崇高なものにさえ感じられてくるから不思議だ。いま聴くとどうなんだろう。



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コメント

コメント(2)
メニューインは早熟の天才でしたが。
 ネコパパさんの当時のメニューインの演奏を聞いての「?」の感想は正しいです。
メニューインは天才少年として鮮烈なデビューをし大活躍しました。
メニューインは演奏技術上の細かい教育や研鑽を積まずに、ヴァイオリンを始めてからすぐにあれだけの演奏ができたそうです。前例がない天才でした。超常現象に近い才能だったようです。厳しい練習無しで弾けたのですから。
ですが肉体の成長や加齢により、肉体がついてこなくなっていたようです。
元々トレーニングを積んでいないのでそのあたりの修正ができなかったようです。
これは近年の研究の結果で明らかになっています。
それでも晩年まで大変な名声を維持していました。”メニューインは天才”というイメージが終生消えなかったのです。
これは若い頃二枚目或いは美人女優として活躍した俳優が、年をとって美貌が失せてもやはり良い役につけたのと同じようなことだと思われます。
多くの人は蔓延したイメージに騙されやすいものなんです。
今老年になってからのメニューインの演奏を聞いてみると、ボロボロの雑な出来上がりですよね。




 

不二家憩希

2020/02/01 URL 編集返信

yositaka
Re:メニューインは早熟の天才でしたが。
不二家憩希さん
メニューインの技量が戦後急速に衰えた話は私も知っています。お書きになっている技能の維持が困難だった事情も、読んだ記憶があります。付け加えるならメニューインは大戦中に無茶なスケジュールで慰問演奏を続け、そのダメージが影響していると言われてもいます。SP盤では申し分のない美演の数々を聴かせたメニューインでしたが、私の知る範囲では、モントゥー指揮サンフランシスコ響とのブルッフ(1945年3月27日)をピークとして、以降の録音は音が細く、しかも音揺れが目立つものになっていると感じます。
小林秀雄が激賞する一方で、音楽評論家は疑問を呈した戦後初の来日は1951年。その演奏はすでに戦前のものとは違っていたことでしょう。

yositaka

2020/02/01 URL 編集返信

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プロフィール

yositaka

Author:yositaka
子どもの本と、古めの音盤(LP・CD)に埋もれた「ネコパパ庵」庵主。
娘・息子は独立して孫4人。連れ合いのアヤママと二人暮らし。

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