1月8日朝日新聞夕刊。
珍しく、児童文学に関係する大きめの記事が掲載された。
紹介されているのは斎藤惇夫『冒険者たちーガンバと十ひきの仲間』(1972)。
現在は岩波書店刊だが、初版は牧書店という地味な児童書出版社から出たものである。
これは初版の表紙。
主人公はドブネズミのガンバ。
もともとは町に住む、威勢がよく向こう見ずの「坊ちゃん」気質の若者ネズミだったが、ふとしたことから冒険者を気取る船乗りネズミたちと知り合うようになる。
そこへ息も絶え絶えに駈け込んできたのは島ネズミの忠太。彼は、故郷の島が謎のイタチの集団に襲われ、絶滅に瀕していることをガンバたちに訴え、救援を求める。イタチのボスは「白い悪魔」の異名をとる白イタチのノロイ。ガンバの船乗りネズミたちは一度は逡巡するものの、島ネズミの救出に向けて冒険の旅に出る…
「これもみんな海か!」と、生まれて初めて見た大海原に感嘆するガンバを描いた名場面は、1970年代、ひとつの全盛期を迎えていた日本の現代児童文学を象徴する場面として、しばしば引用された。
…で、新聞記事である。
そうか、日本では2020年は子年だから、こういう記事が出たわけだ。
リード文に「世界的人気キャラクターのモチーフの一方で」とあるのは、もちろんガンバの事じゃなくて、アメリカの手袋をした黒い奴の事なんでしょうね。
それにしても斎藤惇夫氏が、自作について「民主主義」「安保闘争」といった言葉を使って語るのを初めて読んだ。
1987年に出版された評論集『僕の冒険』で彼は、ファンタジーとは日常の制約を超えて自分の存在を支えるもので、それをごく当たり前に受け入れる存在が「十歳」であると語っていた。
人生はやり直せないが、十歳以降は一度生きれば十分。しかし十歳以前の時代というのは、一度では生ききれない「特権的精神」であって、書くことによって限りなく十歳に肉薄」することが自分の仕事なのである…斎藤氏はこんな風に慎重に、言葉を選んで児童文学を語る人、だから説得力があるのだとネコパパは思ってきたのだ。
が、この記事で語られていることは「ネズミとは、やられてもやられてもよみがえる戦後民主主義」と性急にも感じられる言葉だ。そこには、79歳を迎えて「限りなく十歳に肉薄」することの困難を痛感した斎藤氏の焦燥感が見て取れる…というのは考えすぎだろうか。
このお正月、孫二人とアニメ映画「GAMBA ガンバと仲間たち」をTVで見た。
かつてのテレビアニメの設定も生かしながら、相当に原作「冒険者たち」に近づけた作品で、1年生のテンコも、二歳のコリコも夢中になって見ていた。
あらためてこの作品には、それまでの日本の児童文学では決して描けなかった「日常を乗り越えるファンタジー」があると感じさせられた。
もちろん、この作品以降も、ファンタジーの分野では数多くの傑作が生まれている。
けれど、「十歳に肉薄」し「十歳を夢中にさせる」という物差しで考えると、どうだろう?ネコパパの思い浮かべる作品は、どうも、対象年齢が高めになってしまう。知らず知らずのうちに自分も「限りなく十歳に肉薄」する力を失いつつあるせいなのか。
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コメント
シュレーゲル雨蛙
2020/01/12 URL 編集返信『1984』は今こそ、特に若い人に読んで欲しい一冊ですね。あのおぞましい「テレスクリーン」が今やありふれたものに。ただ、その一方で、ディストピア作品が世の中を前向きにする力があるのかといえば、うーん、と唸ってしまうネコパパがいます。
yositaka
2020/01/13 URL 編集返信