フルトヴェングラー 最後の「田園」

2019/ 11/ 22
                 
ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調Op68「田園」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音 1954.5.23
ベルリン・ティタニア・パラスト

img200.jpg
CD 仏TAHRA 1045/1057

20191121212922a56.jpg
CD 独AUDITE  AU21403

4543638300358.jpg
LP  日ALTUS  TALTLP035

■「序奏」から「胎動」へ

第1楽章 11:42
第1主題は最弱音からクレシェンドをかけながら開始される。
非常に遅いテンポ。ひとときコントラバスが唸り、ホルンが咆哮するが、すぐに弱音に戻る。ヴァイオリン、ヴィオラは、提示部の終わりまで弱音で通し、展開部近くになってリズムの刻みが強くなると、ようやく少し強くなる。
展開部に入り、弦が立体的な積み重なっていくところの内燃する迫力は凄く、音楽が動き出す。しかしクラリネットの静かなソロが現れると、再びささやくような弱音に戻っていく。終結部、楽章の盛り上がりの頂点でも、響きはどこか暗く、輝かしい明るさは訪れぬまま楽章を締めくくる。クラリネットとフルートの音色にわずかな日差しを聴く。

第2楽章 13:38
ここも重い足取りでゆっくりと開始。川面の小波を模した弦の響きも弱くデリケートだが、音色は第1楽章よりも明るい。抑えた音で出るファゴットのフレーズから、テンポはだんだんと早くなり、音色く明るさを増してくる。
ただし、聴きもののフルート、ファゴット、クラリネットのソロパートは、フルトヴェングラーの常で全面には出ず、抑え気味。やがて低弦に大きなクレシェンドが現れると、全体が弦の響きに溶け込んでしまう。小鳥の歌は特別な表情は付けず、淡々としたもの。最後は大きなリタルダントで終結。

第3楽章 5:59
遅めに入るがだんだんとテンポアップ、一気にアッチェレランド。しかし農民の三重奏でがくんと遅くなる。ホルンの伸びやかな音色が響き渡る。続くリズミックなトリオは遅く、重い。ギシギシ唸るコントラバス。トランペットのフェルマータとともにさらに遅く。その反復の後、第4楽章への経過句も「予感」を仄めかすテンポの変化はない。

第4楽章 4:01
十分に力強いが、最強奏まではしない。遠くで咆哮する金管群。しかしティンパニだけはクレシェンドしていく。「嵐と雷鳴」の描写ではなく、平常心で制御された「アレグロ」の音楽だ。
音楽が静まると、弱音で響いてくるオーボエ、ホルン、そしてひときわゆっくりと、フルート。

第5楽章 8:38
主題提示部、ようやく力強さを取り戻し、明るさを増した音楽が響き渡る。前楽章までを支配していた重苦しさが払拭されたと思う間もなく、第2主題で猛然とテンポアップ。ここからは、フルトヴェングラーの個性全開の緩急豊かな音楽だ。そこに時折挟まれるホルン重奏の重厚な迫力。
しかし緩急の変化が多い割に、フレーズ単位のクレシェンドや、立体的な音の構築はあまり聴かれない。とにかく、スケールよりも緩急の生み出す緊張感に力点がある。
そして運動を繰り返した音楽はコーダの直前、ついに登場する金管群の大きなクレシェンドでようやく動きを沈める。随所にぐっと力れて念を押すようなコーダ。
轟々と唸る低弦の響きの中で、ゆったりと全曲が閉じられる。
ラスト一音のアクセントが印象的だ。

フルトヴェングラーにとって最後の「田園」となった録音である。
全体の解釈は1952年のウィーン・フィルとのスタジオ録音と変わらず、録音は彼のライヴ録音の中では良い方だが、決してウィーン盤以上とは言えない。
でも、あくまで想像だが、指揮者の音楽がより徹底しているのは当盤ではないかと思われる。
弱音が支配的な演奏なのに、緊張感は途切れることなく続く。おそらく、この演奏で言いたいことは、その弱音に含まれているはずの無限の音色の階調、その変転のありさまだったのではないだろうか。これを生で聴いた聴衆は、一期一会の「音色がすべてを語る」音楽に陶然としたかもしれない。
しかし、これを不完全なライヴ録音で聴くしかない私たちに、そのニュアンスは伝わりにくい。
それ抜きでは、この「田園」は、色彩や躍動に乏しい、間延びした音楽に聴こえてしまうかもしれない。

TOKUOKAさんは、浩瀚な動画批評「明るくマニアック」の中で、フルトヴェングラーの「田園」の素晴らしさはフィナーレにある、とくり返し語っている。
そこには彼の1947年盤「第5」の第1楽章のような、表現力の真髄を示した音楽がある、と。
今回この1954年盤を聴き直して、それは正鵠を得た意見、との感想を持った。
と同時に、TOKUOKAさんのもうひとつの指摘も脳裏をよぎる。
「フルトヴェングラーのおそい第1楽章冒頭は、序奏付き交響曲の緩やかな序奏にも聴こえる」というご指摘である。

フルトヴェングラーは「第6」「第5」という流れでプログラムを作ることが多かった。
初演時の故事にちなんだ配列かもしれないが、その順で演奏すると、「第6」フィナーレと「第5」の第1楽章が、大きな緩急を付けて演奏するというフルトヴェングラー独特の演奏スタイルに合致することが分かる。もちろん「第5」の第2楽章以降も、その演奏スタイルが貫かれていることは、フルトヴェングラー好きの聞き手なら誰もが知るところだ。

そこから、指揮者にはこの、2曲を2部に分かれたひとつの大曲、ととらえる構想があったのではないかという憶測が湧いてくる。
あの遅い「第6」第1楽章はその「大曲」の序奏部で、例えば「第6」全体を「静」、「第5」を「動」と捉えれば、一夜の演奏会でひとつの世界観を示すことができる。(「自然」と「人間」、「女性」と「男性」などに例えることも可能かも)
もしそうなら、フルトヴェングラーにとって「第6」フイナーレは「締めくくり」ではなく、後半の音楽の「胎動」だったのかもしれない…

以上はネコパパの全くの憶測、いや妄想。
おそらくネコパパには、自分にとって「音楽の水準器」たる「田園」は、これだけで完結した音楽として聴きたいという欲求があるのだろう。フルトヴェングラーの「田園」を聴いたときにいつも感じる、なんとも言葉にしにくい居心地の悪さも、そこから発した気持ちなのかもしれない。

最後に、ディスクの音質について。
CDは、TAHRAもAUDITEも、同じRIAS放送局所蔵のテープを使用した「正規盤」だが、音には違いがある。はじめに出したTAHRAは荒々しく、アンバランスで、特に低音がレベルオーバーなくらい強くかぶっている。
一方AUDITEはバランスのとれた、すっきりとした音で、メーカーは「録り下ろしのファーストマスター」を謳っている。とても聴きやすい。
AlTUSの制作したLPはTAHRA原盤だが、CDよりも厚みがあってそれなりの聴き応えがある。それでも低音のかぶりはかなり目立ち、音が飽和しがちで再生は難儀である。でも、そこをどうにかして聴いてやろう、と意欲が出るのは、むしろこちらだ。品質の良い方を仕舞いっぱなしにして、問題のある盤を愛聴したくなる、妙な心理が働いてしまうのである。

関連記事
スポンサーサイト



                         
                                  

コメント