「せなけいこ展」に行きました

2019/ 11/ 07
                 
刈谷市美術館で開催されている「せなけいこ展」に行ってきました。

実は、アヤママと一緒に10月14日の日にも出かけたのですが、美術館の周りを凄い人だかりの行列ができていて、駐車場も満車。あきらめたのです。
実はその日は「お子様連れ無料」のサービスディでした。でも雨もひどかったし、まさかこれほどとは…
そんなわけで平日に出なおしたのです。あいにくアヤママは都合がつきませんでした。さすがに入場はできましたけれど、火曜日なのに駐車場整理の人はいましたし、平日の午後とは思えない人出でした。
今日10月31日の新聞には、入館者3万人突破の記事も出ていましたよ。
絵本作家の展覧会でこれほどの人気というのも珍しいことではないでしょうか。喜ぶべきことです。

せなさんの名前をご存じなかったとしても、これをご覧になればおわかりになるかもしれない。

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1969年に福音館書店から発行された「ねないこだれだ」に始まる、小型版の「幼児向き絵本」は、当初から大好評で、50年間ずっとロングセラーを続けています。
せなさんお得意の登場人物と言えば

おばけ
ねこ
うさぎ

貼り絵の技法で描かれた、すっきりと記号化された丸っこい絵は子どもにも、大人にも親しみやすく、図書館や書店で目に留まることもあるのではないでしょうか。
しかも、「かわいい」だけではない。ホフマンの「もじゃもじゃペーター」に触発された、ちょっとビターでブラックな「怖さ」ももちあわせた絵本なのです。

水彩、油彩、アクリルなどで描かれた一般的な絵本の原画には、印刷インクに乗らない、原画だけにしかないニュアンスがあって、しばしば驚かされます。
対してせなさんの作品素材は、もともと印刷物を素材にした「貼り絵」です。絵のサイズも出版された絵本とほぼ同じのこじんまりとしたものです。これなら、見慣れた絵本の印象と、それほど大きな違いはないんじゃないのかな…と一度は思ったのですが、
やっぱり本物は、違いますね。大違いです。ストーリーを離れて、一枚一枚の絵をじっくり眺めたせいもあるのでしょうが、そこには驚くほど繊細な表現と奥行きが感じられて、思わずため息が出てしまうくらいでした。

■背景色の雄弁さ

まず目に付いたのは1969年の「出世作」といっていい「ねないこ だれだ」の原画です。
使用された元が全てに、なんと、未使用の原画が4枚。
これです。
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この絵本をご覧になった方、どこが違うかお分かりになりますか。
背景色です。
上段左、わかりにくいですが、背景は黒みがかった緑色、左は青色ですが、使用されたものは黒の背景。人物は同じ型紙を使っているのでしょうが、わずかに表情が違います。下段のどろぼうとネコも、背景色が違い、絵本に採用されたのはどちらも青色。
ラストシーンのおばけと子どもが後ろ姿のシルエットになって空に去っていく「こわい絵」は、背景が青と緑の二つがあり、青が本文、緑が背表紙に使われていました。
同じ「夜」の光景でも、微妙に変化させている。ここぞという場面では人物がくっきり目立つように。そうでない箇所では自然に溶け込むように。
せなさんが試行錯誤を繰り返しながら、最もふさわしい色調を選んでいった様子が目に浮かびます。最後の場面で青→緑と背景色を変化させていることからは、怖くなりすぎないように、という、せなさんのさり気ない配慮が込められているのかもしれません。

「きれいなはこ」は、けんかする子どもにおばけが「ひっかくつめをながく」「わるくちをいうくちをおおきく」してしまう絵本ですが、つめの伸びたねこの背景色は真っ黒で、伸びたつめがレーザービームのように浮かび上がります。

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■地に足のついた叙情

子どもに嫌いなにんじんを食べてほしいと願いを込めた「にんじん」
にんじん大好きな動物たちが次々登場しますが、絵そのものも、にんじんを宝石のように美しく描き出しています。表紙の青をバックにした鮮やかなオレンジ色のにんじんもすてきですが、

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この、馬が加えたにんじんの鮮やかさはさらに素晴らしい。エメラルドグリーンの背景に、薄紫色の花を刺した黄色い麦わら帽子。この絵も裏表紙で再度登場するのですが、バックは黄緑色。もちろん色指定ではなく、別個に描かれたものです。
せなさん自身はにんじん嫌いだそうです。だからこそ、技を尽くして美しく描こうとしたのかも。

とにかく、せなさんの絵本には「しつけ」の建前とは裏腹に、子どもの周りにあるものすべてを「美しい世界のひとかけら」として描き出そうとする意志、というか、描き出さないでは置かないという覚悟のようなものが感じられるのです。
それが、これ以上ないと思われるくらいに簡略で、しかも子どもに働きかける最善のかたち・表情・造形・バランスを保った「絵」としてあらわれる。
若くして武井武雄の門下となり、「子どものためのプロの画家」を目指して、長い修練の果てに得た結論として「絵」です。
例えば、「もじゃもじゃ」の髪の毛を散髪する「櫛」と「はさみ」というごく日常的な道具が、こんなにも美しく、鮮やかに描かれたことがあったでしょうか。この絵には、さりげなく、地に足のついた叙情のようなものが漂っている。

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■お母さんは動じない せなさんも動じない

それを生み出しているのが、何者にも動じない、やはり地に足のついた、「母親」としての存在感でしょう。
「あーんあん」では、泣く子どもたちの涙で海ができ、子どもたちがみんな魚になってしまう。
それを聞いたお母さん、少しも騒がずバケツとタモをもって、普通に歩いて保育園へ。開いた口は、不安や緊張ではなく「やれやれ、しょうがないなあ」という余裕を語っているようです。
この絵本は、背景色も大きく変化せず、基本的に薄い黄色で統一されて「動じ」ません。
もしこれがお父さんだったら!?動転して、少なくとも、走るでしょうね。

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実は、これら一連の幼児絵本、かつて
「教訓的にすぎる」「しつけや教化のために使われては絵本が迷惑」
と批判されたこともあったのです。
それに対してせなさんは、少しも動じることなく、果敢に反論したのでした。
「大事なことはどんな気持ちでこの絵本を作るかということ。子供が好きだって気持ち、子供と一緒に遊ぶ気持ち、子供の気持ちで考えて作ることが大事」(せなけいこ「兎とオバケの対話」―『児童文学1973』2号 1973.12 聖母女学院短期大学児童教育学科発行)

20代のネコパパは、なるほどね、でもねえ…と思いながらこの一文を読んでいたのですが、
本当はちっとも分かっていなかった。「教訓絵本」はもう懲り懲りと思い、せなさんを「しつけられる側の子どもの視点」で批判した方にも、確かに一理あると思っていたのです。
でも、それは今から思えばイデオロギーの勝った主張で、狭義のテクスト、文字情報のみに注目した意見だったと気づきます。
仮にもし、同じテクストが、明治大正期の躾絵本のようなリアリズムで描かれていたなら別ですが、それならきっと今頃は忘れ去られていたでしょう。
せなさんの絵本は、絵がそれ以上に雄弁でした。絵本の言葉は文字だけではなく、絵柄造本手触り、五感に訴えるすべてだとするなら、これらの絵本は、躾の言葉に仮託はしても、中身は楽しさと遊びにあふれています。聞き飽きたお説教を「だし」にして、せなさんは子ども読者にぴったりと隙なくフィットし、子どもが笑って共鳴できる「絵本」を生み出していたのです。

今回の展覧会は、テキストよりも「絵」そのものをしっかりと見せるというコンセプトでした。
子どもの入場者にも配慮して、原画を大きく拡大した立体オブジェも作られ、会場そのものを「絵本空間」とする意図が伝わりました。ただ、そこにも文字情報はほとんどなし。だからこそ、絵の「作り込んだ凄み」がリアルに伝わるものになりました。
絵本を本気で作るとはこういうことだ、絵本は、大人が知力と人生を賭けて「子どもに向き合って」表現するに値する芸術媒体の一つである。そんなことを世に示す、画期的な企画だったと思います。開催場所が少なく、東京では開催されないというのが残念ではありますが…

さて、一連の幼児絵本以降、せなさんは「教訓的」なテクストに頼ることなく、ひたすらに子どもと楽しさと遊びを共有できる、膨大な作品を描き続けて、現在に至っています。

ネコパパも、販売コーナーでそんな一冊買ってきました。
なんだか自分のために描かれた作品みたい。

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コメント

児童文化/子ども文化 循環への絵本?
加藤理さんが児童文化/子ども文化循環のありようについて論じていました。大人が与える児童文化に対して子どもが生み出す子ども文化。そうしてその両様からはみ出しているが、確かに存在する子どもをとりまく文化。という見取り図。
加藤さんはこの中の児童文化を生み出す大人に子ども文化への十分な理解、洞察力を求めていました。たぶん、せなさんにはそういう子ども文化への十分な理解、洞察力があるということかなと理解しました。
未踏の沃野へ
シュレーゲル雨蛙さん
概ね、その通りだと思います。
私なりに言い換えてみると、子ども文化というよりも、子どもの嗜好と自分の嗜好が一致するフィールドに表現の焦点を当てることができるのだと思います。

「児童」という言葉は、たしかに大人の言葉ですね。
「児童文学」も、「児童文化」のひとつとして、「大人が子どもに与える」文学という側面を持ってはいます。でも、そう言ってしまうと、なんだか上意下達みたい。
ネコパパは、他の領域はともかく「児童文学」というジャンルについては、大人と子どもの共有領域という「未踏の沃野」に向けての大人のアプローチと考えたい。
せなさんの絵本から感じ取ったのも、おそらくそういうことかと。