すばらしい作品です。「文部科学省選定」だからって、馬鹿にしてはいけません。
原作は令丈ヒロ子。
小学生に人気のシリーズで、テレビアニメも放送されていたようです。児童文学大好きのネコパパですが、この手の「読み物」に、なかなか手が出ないのは、偏見でしょうか。それとも年のせい?
反省しています。
■子どもの心の危機を描き出す
突然の交通事故で両親を失い、ひとり残された主人公「おっこ」こと、織子。
茫然自失の彼女を引き取ったのは、山間の温泉旅館を経営する、母方の祖母でした。
それが自分の意志なのかは、よくわからないまま、旅館の後継ぎとして「若おかみ」修行が始まります。失敗は多いものの、得意の料理のセンスも生かしつつ、「明るく健気に」旅館の生活に溶け込んでいくようにみえた彼女でしたが…
衝撃的な出だしの後の、かなり唐突、かつ強引な展開に、とまどいを感じる「大人」もいるでしょう。両親が亡くなったばかりで、こんなに子どもは「元気」になれるのか?だいたい、小学生が旅館の若おかみに突然なるなんて、絵空事も甚だしい…なんてね。
それが違うんです。
おっこの目の前には、死んだはずの両親が、ふっと何事もなかったようにあらわれる。
それだけではありません。
祖母の幼馴染という男の子が、昔のままの姿であらわれる。
同級生で豪華ホテルの一人娘(おっこのライバル的存在)の、生まれる前になくなったという姉が、幼い姿のままであらわれる。
さらには旅館の箪笥に仕舞いこまれていた「鬼の鈴」に封じ込まれていた「困った客をよぶ小鬼」までも登場します。
彼らはときには失敗し、思い悩むおっこを励ましたり、笑わせたり、ときにはトラブル解決のヒントをあたえたりして、なにかれとなくサポートしてくれるのです。もちろんその姿は、おっこ以外には見えません。
微笑ましいファンタジーに見えて、これは、心の危機をリアルに描き出した表現と思われます。
おっこがいるのは、現実の温泉町と並行して存在する、死者の世界。
あるいは、河岸と現世の狭間にある、もうひとつの温泉町です。
彼女はそこで、両親の死を乗り越えて「健気」なのではなく、生と死のボーダーラインに生きる存在になっていた。健気さや活発さは、無意識に死を排除した結果であって、その背後にあるのは、生と死、
どちらに転ぶかわからない「綱渡りの危うさ」のなかに、おっこはいるのです。
占い師のお姉さんが運転する車の中で、おっこが事故を思い出し、呼吸困難になる場面は、その「危うさ」がはっきり形をとってあらわれた場面と言えるでしょう。アニメーションだから表現できた場面です。
序盤で、ふたりの幽霊の子どもが、無数の鯉のぼりと一緒に温泉町の上空を飛び交う場面も凄い。息を呑む美しさとともに、そこには全てが重量を失って透明な空間に溶け込んでいくような「死の暗示」を見て取ることができます。
さらに暗示的なのは、全体に「夜」の場面が多く、夜の温泉街をおっこが駆け抜けることでドラマが進展する。これもおっこの「魂の再生」を暗示的する表現と受け止めました。
人生の時間がまだ短い子どもにとって、両親の突然の死は、どれほどの喪失であることか。
けれど、その「喪失の悲しみ」を感じる力すらも、斉藤洋さんの言葉を借りるなら、子どもにとっては「後天的資質」なのかもしれません。経験知がなければ「悲しみにくれる」ことだって、容易じゃないのです。
だからといって「子どもの悲しみ」が大人より小さいはずはありません。
原作者の令丈ヒロ子も、監督の高坂希太郎も、そのことがとてもよくわかっている「大人」です。
だからこそ、子どもの目線で、子どもなりの悲しみの有り様を「ファンタジー」として表現することを選択することができたのでしょう。
でも、それは子どもに甘い大人、子どもに加担する大人というのとも違います。物語の締めくくりでおっこは「現世」にもどるために、現実を直視するという、過酷な試練を受けることになるのですから…
現代という時代は、誰もが「突然の喪失」に怯えている…そんな時代なのかもしれません。
それは、大人だけでなく、子どもも同じ。
災害に怯え、犯罪に怯え、他国に怯え、
未来に、隣人に、教師に、クラスメートに、時には家族にさえ。
それでもなお、子どもに寄り添って「生きることはいいよ」「明日はきっといいことがある」
と語りかけるのが大人の責任であり、「児童文学」のなすべき仕事ではなかったか…そんなことを思いながら、ネコパパはこの映画を見ていました。
コメント
思い出したのは、高田渡のブラザー軒。年をとっても、親の喪失は事件です。ブラザー軒では、父と妹を亡くしたぼくの前に二人が連れだって七夕の夜に現れるようすが歌われます。
大人にも危機的な喪失を子どもが、しかし、実際にこれはあることなので。
逆に、ぼくは子どもを失う心配をいつもはらはらしています。自転車に乗ると言っては気をつけろ。身近な喪失への不安は、根元的なものかも知れません。
シュレーゲル雨蛙
2019/10/16 URL 編集返信このシリーズが小学生に人気なのは、ネコパパも知っていました。
映画を見ても、幽霊、お菓子、ファッション、、ライバル対決、イケメン男の子…と、必須アイテムが揃っていて、なるほど、と思わせます。
気楽で楽しいエンタメを、とても精緻に美しく拵えたものだなあ…と、はじめは感心して見ていたのですが、気が付くといつのまにか「息を呑んで」いて、2日、3日と過ぎても映像が消えてくれない。
文章にしてみて、ようやく「そういうことだったのか」と納得できました。
「身近な喪失への不安」は、表現されてこそ共感し、共有できる。「ブラザー軒」も、まさにそんな歌ですね。
それは、広い意味の文学にしかできないこと。それは人にとっての選択科目ではなく、必須(必修)科目と思う所以であります。
yositaka
2019/10/16 URL 編集返信